
戦後75年目の残留。生き別れた者が伝える、日本という国の今。「私を日本人と認めてほしい!」-フィリピン残留日本人 。「私は日本人。でも言葉がわからないの!」-中国残留孤児。太平洋戦争以前、…
>>続きを読む1989年から沖縄戦に連行された朝鮮人「慰安婦」と軍属の実相を追い、『アリランのうたーオキナワからの証言』(91年)で「慰安婦」問題を提起した在日朝鮮人2世の朴壽南は、90年代、立ち上がっ…
>>続きを読む男は、ガジュマルをこよなく愛した。「どんな嵐にも倒れない。沖縄の生き方そのもの」だと。那覇市を、かつてたった11ヶ月だけ率いた、その男が好んで使った言葉がある。それは「不屈」。 1945…
>>続きを読む2016年6月19日、沖縄県那覇市。米軍属女性暴行殺人事件の被害者を追悼する県民大会で、稲嶺進名護市長は言った。「我々は、また命を救う“風かたか”になれなかった」。「風(かじ)かたか」とは…
>>続きを読むなぜ、対馬丸は狙われ、そして見捨てられたのか―。 一夜で784人の子どもたちが命を落とした、戦時下史上最大の学童死亡事件「対馬丸事件」。当時、この悲劇は箝口令により徹底的に秘匿とされ、その…
>>続きを読むカメジローは230冊を超える日記を詳細に書き残していた。そこには、妻や娘らと過ごす家族の日常 や政治家・夫・父親など様々な顔があった。その日記を丹念に読み解き、改めて生涯を描くことでカメ…
>>続きを読むノーベル平和賞候補になり、朝日賞や埼玉県民栄誉賞などを受賞した水墨画で風景画家の丸木位里(1901‐1995)と人間画家の丸木俊(1912‐2000)夫妻は、「日本人側から見た記憶を残して…
>>続きを読む(C)「誰がために憲法はある」製作運動体