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沙羅の門
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『沙羅の門』に投稿された感想・評価

立場を超えた、シスターフッドと父の愛

や、やってしまった…
観て2分くらいで登場する、沙羅の花の香りを嗅ぐ草笛光子のシーンが来て、前観たことを思い出した…

だけど、前回は『脚本:新藤兼人特集』の中で観ていたので、坊さん役を森繁が演じていたことをさりとて気にしないで観ていた疑惑。実は、わたしの親戚が同じく禅宗の寺をやっていて、(もちろん籍を入れて結婚してますが)住職の雰囲気がそっくりで。檀家周りやら本山に掛け合ったりする姿が重なってしまい。多分、坊主役の人上手いなぁと心の中で感心しきりのまま感想書き忘れてました🫠

ストーリーは
京都で下宿中の大学生・千賀子(団令子)は、幼い頃に実母を病気で亡くした。その後来た継母・八千代(草笛光子)とは姉妹のように仲がよい。ただ、寺の住職である父・承海と八千代の熱い夜の営みを偶然みてしまったことによって、父親に不信感をもち、愛を求めて男を切らさないタイプの女性に成長してしまう。そんな中、同級生の子を妊娠してしまい、結局堕ろすことにする。その後、ビアガーデンのバイト先で出会った妻子持ちの銀行員・剣山(木村功)と不倫してしまうが、千賀子は結局この愛も中年男の遊びに付き合わされたことに気づく。
承海は寺の跡継ぎを探しに京都の本山を訪ねる足で、下宿の千賀子に会いに来る。そして愛に悩む娘に対し「自分を大事に生きていきなさい」と諭す。
そして、親子のわだかまりが解け、新たな親子関係を築けるか…と思った矢先、突然の別れが訪れる。

草笛光子演じる、さっぱりと気立てのよい住職の後妻、団令子の体当たり演技込みの奔放な娘。この二人が姉妹から本当の親子になっていく姿はしんみりとしました。かなりつらい立場なのに、何故かこの二人なら未来もきっと良くなるはずと思える軽やかさが持ち味の文芸作品。

男優陣もしょうもない不倫男・木村功の弱っちい感じと、肉欲まみれでダメ坊主なのに、信念はどこか真面目できちんとしてる住職・森繁久彌のアクセントが効いていて肩が凝らずに楽しめました。
京都〜大津が舞台の文芸映画で、モノクロが水墨画のようにしっとりとした佇まいをたたえる美しい作品です。

そして、見たあとにふと思うには申し訳ないですが…
承海和尚が、お盆にスクーターで檀家を忙しく回って帰宅してくるシーンを筆頭に、自分のイメージする「名もなき小さな禅寺の住職」らしさ満載!ところどころにこぼれる仕草がハマっていたので、もっと「笑える」モリシゲお坊さん喜劇、観てみたかったなぁ。(さすがに駅前シリーズにも寺はなかった)

今回上映されたフィルム状態が良くないので、お蔵入りしちゃうのかな…しっとりとしたシスターフッドストーリーとして上質な映画なのでもったいないです。映画は観てなんぼの芸術ですし。
mingo
4.1
期待値より遥かに高く、めめめちゃくちゃ好き!と思わず唸った。「銀心中」で脚本かかせたら新藤兼人は天才だと確信へと至った。同じ久松の「愛のうず潮」並みに後味が良くて、助平坊主森繁の怪演も相まって評価が一向に進まない久松静児監督の(晩年の)人情味溢れる演出とが掛け合わされた坊さんラブコメの傑作!
何が良いって人は誰しもが愛を求めるからこそ衝突するがそこは巷に溢れかえった煩悩なんかよりもちゃんと人間性の温かみが大切なんだと訴えかけてくる演出に涙する。なんだかんだ心までは売らない妻一筋の森繁と、肉体的な繋がりよりも真の愛を探す娘役の団令子、親子2人の交錯する想いなどが物語に深みを与えており、禅寺ならではの妻帯や定住に関する掟などの設定が演出として巧みに機能している。その他にもエロス満点の後妻草笛光子やクズ男やらせたら右に出るものはいない木村功や特別出演の宮口精二坊主など、あったら嬉しいおでんの具のようにたっぷり味を染み出している。夫婦の日に一人で観た、、、目から涙が染み出しておる…
☑️『沙羅の門』及び『強虫女と弱虫男』▶️▶️
私に限らず映画に関心のある人が、常に思い口に出した事がある疑問ー新藤は他人に脚本を提供するときは、あれほど堅実に正確に細部から多要素を絞り固め、華麗・壮大さすら感じさせ、常識的思考を擁護・打破も含め重要視する(代表は勿論吉村か)のに、自分で書いて演出する時は、多分に泥臭く、抽象的短絡的である事もある位に枝葉が疎か、ときに突拍子もない設定・展開になる大胆さを見せるは何故。予算が極度に少ないから? しかし、実際にいかようにも料理出来るように、演出家の個性に委ねる広く柔軟な職人としてのスタンスと、なかなか露わにできぬ本音・根っこに一気に率直に奥まで突っ込んでゆく、実験性と自己責任に引き受けるあり方の、両輪的あり方なのだろう。
本作は、本としては骨格・情緒共になかなかしっかりしたつくりなのに演出の久松は、黒澤・木下クラスなら、区切り・各導入の段差をくっきりつけて、ドラマを葛藤させ人物を変化・成長を見せるだろうところを、シーンが時代を越えて互いに浸食しあってる如く、展開のメリハリを欠く語り口を採った。生のぬくもりや細かな気遣いに誠実な後妻=継母を鏡・可能性にして、外づら精力的・献身的(頭も丸めず・檀家の為駆け回る)も内づらは本音(女が必要)に引けめ強い(籍入れず僧侶として独身)大津近くの禅宗寺の住職と、その反発的とも見える奔放な(京都下宿の女子大生の)娘の、異性の温もりを求め無くては耐えられぬサガー同時にその都度の特定者だけに愛をぶつけ・確かめ・求める真っ正直さー自己中心的にも見えて共に似た人間的を隠さない誠実さを、認め合う(周囲は社会の虎の衣借りて狡く立ち回る正体見せてくる)に至るを(下宿での父娘のシーンが集約するにしてもそれらが)、メリハリや押しを削いで、やんわりと柔らかくいつしか全体・あり方として伝えてくる(プリント自体の劣化のせいあるとしても)、おりもの・つっかえがいつしか取れてるように。生家の自然の囲み・家屋らの位置とバランス・その内の佇まいに馴染んだ人物らの迷いない振る舞いと、それに溶け込んだカメラの(身体部位の)フォロー・(待ってての)どんでん・正対でなく90°中心の切り返し、スコープ両端っこで一番奥の部屋に主要ふたり偶然図・(やや仰りめの)土間から座敷への上リ口の趣き、の無理ない生活と歴史の風格と落着きの補佐。下宿・旅先での男と絡む僅かのフォロー切って位置ズレカット、俯瞰め、顔と意志の倒しの都度のCU角度変、のヴィヴィドな感情と生理切迫の捉え替えもまた、その浮わつきかたがそそくさと・そして裸の心を感じさせる。団令子の多感で過敏で根っこある細かな変化の捉えが素晴らしく、根に引き戻す・揺るがず探らす繋がりの家族、未来・可能性・近代に満ちてると見えて内はセコく動かぬ社会をつくる男たちが、パターンとはいえ、実感・共感そのものとなる。それらが一体化し、あの時代の少し理想化されてても、見事な内的・風俗的再現になっている、前を見る姿勢に関しても。あまり意識したことはないが、それらが久松の味わいの最良形なのかもしれない。
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一方、自らのオリジナル脚本を自ら演出した、極端に強烈で単純な喜劇『強虫女~』は、退きも望遠も傾きも、母娘を結ぶ左右移動や速い眺めパンとズーム等の自在カメラワーク、抽象的構図・美術・陰影・アングル変えの黒田清己カメラと一体化した、夫・子供たちを動かさぬ生れ育った心血の地を、世の中や周囲がいくら変わろうと守り、都会に出て、その為に国や社会の流れを無視し組伏せる戦士のように稼ぎ生き抜く、嘘をつき騙し社会の陰ルールに従った他人を斬り捨てようが、自己の根を疑わぬ逞しいだけの母娘を圧巻に描き、容赦・遠慮もなく、見事だ。タイミングで永く見れなかったのをやっと見れたが、新藤監督作の’60年代から’70年代初めにかけての、女の生と性を剥き出しにした連作の一本で、強引だなぁと思いつつ溜飲を下げる。
シナリオ修行時代、近代文学全集だったか、繰り返し読み込み、作劇と近代的な科学的なもの、弁証法もものす一方、生まれ育ち失った故郷広島の百姓の血と土、苦難を支えた母・姉ら女の底力を忘れずこだわった新藤の、広さ・逞しさは、己れの土臭さも生かし、提供する華麗で近代的積み上げ思考をもつ本でも柔軟にこの世界に共生する他人も生かすかたちで、百歳まで達した稀なる創作生命。現場で大幅改変されたというが、『けんかえれじい』も新藤脚本だ。