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Parthenope(原題)
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『Parthenope(原題)』に投稿された感想・評価

Omizu
2.9
【第77回カンヌ映画祭 コンペティション部門出品】
『グレート・ビューティー 追憶のローマ』パオロ・ソレンティーノ監督の新作。カンヌ映画祭コンペに出品、ダヴィッド・デ・ドナテッロ賞では作品賞を含む15部門にノミネートされた。

ソレンティーノはそんなに好きではない監督だが、本作でその確信を深めた。映像の美しさは申し分ないが、ストーリーや人物描写が上手くない。とりわけ女性の描き方が今の時代にそぐわない。

同年のカンヌ映画祭コンペに『サブスタンス』がある中、主演女優を鑑賞物として愛でるだけのような描き方はなんか気持ちが悪い。

ソレンティーノ作品はナルシシズムが感じられてなんかイヤ。『グレート・ビューティー』で老人を主人公にしたものを撮ったと思えば、『Hand of God』で自伝的物語を展開。ようやく自分から離れたと思うと若い女性の美しさを際立たせるだけのような本作…

映画としての美しさには溢れている。しかし物語としては唐突な部分が多いし、結局美しい女性を描いただけで何が言いたかったのか分からない。

ソレンティーノだけあってそれなりに観られる作品ではあるが、今の時代にはそぐわない時代錯誤な映画になってしまっていると思う。好きな人は好きかもしれないが自分には合わず。
[パルテーノペ、或いはナポリの神話] 60点

2024年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。パオロ・ソレンティーノ長編10作目。サンローラン・プロダクションズが製作に参加している。この年のカンヌは他にもジャック・オーディアール『エミリア・ペレス』とデヴィッド・クローネンバーグ『The Shrouds』にも参加しており、3本もコンペに送ったことになる。"パルテノペ"とはセイレーンの一人であり、かつてのナポリの名称であり、パオロ・ソレンティーノの出身地でもあり、本作品の主人公の名前でもある。物語は1950年に彼女が誕生する短い挿話から始まり、美しく成長したパルテノペが男女問わず性的な眼差しに晒され続ける中で、彼女を少なくとも表面的には性的な目で見ない数少ない人物の手助けを得て自分の選んだ人生を歩んでいく様を描いている。1973年篇までの経過は実にウィリアム・フォークナー『響きと怒り』の第二章と似ていて、パルテノペと兄ライモンダスとの関係はキャディとクエンティンの関係そのものだ(パルテノペはキャディっぽくないが、ライモンダスは抑鬱とした重度のシスコンという意味でクエンティンそっくり)。ナポリの海岸沿いに庭付きの豪邸を持っているような富豪一家の子供であることも、南部貴族の落日を体現するコンプソン家の兄妹と重なってくる。ライモンダスが死んで以降の物語は、聡明な彼女が自分の才能を活かそうと人類学の分野でキャリアを築いていく様を描いているが、章立てされたそれぞれの年で謎の挿話が挟まれる。特に1974年篇では、一旦女優を目指してみようと、かつて彼女をスカウトした女性を頼りに芸能界の端っこに入ってみるが、かつての大女優と呼ばれた人々(ある意味では性的な眼差しを向けられる対象を広範囲に拡大する行為である)の"疲弊"っぷりを見てすぐに辞めるという挿話と、かつて争い合っていた二つの名家の和平のために家族全員の前でセックスを強いられる若い男女の挿話という性的消費についての挿話が二つもあり、確かにそれがパルテノペの物語と結びつくことはあれど、あまり良いものとは思えなかった。自立したいパルテノペと自立させたくない監督が揉み合ってる感じ?性的消費を拒絶する道を歩んでいる女性の物語のはずが、結局は監督が誘惑に流されて、過去作でカメラの前にいたオヂ要素が女性主人公を起用したことでカメラの後ろに行ってしまったかのように、女性たちへ性的眼差しを投げかけているだけなのではないか。ソレンティーノ自身の価値観が周回遅れなので(そしてそれを周囲が"まぁソレンティーノだからな"で許してきたから)、女性描写も自立した女性描写もかなり古臭い感じがした。現代で新たに作るんだから、舞台は1970年代だからって古臭いことをする必要はないのでは?ソレンティーノはフェリーニの後継者とよく呼ばれているが、『甘い生活』『山猫』に漂っていたガチモンの退廃には辿り着けておらず、ナポリの神話としての美女の物語は、ダリア・ダントニオによる美しく切り抜かれた芸術品としてしか機能していない。確かにそれは疑いようもなく美しいのだが、あまりにも表面的すぎるし、それは何かの表面ではなく残念ながらそれ自体が全体なのだ。

しかし、最後まで何が言いたいのかよく分からない本作品を、完全に嫌いになりきれないのは、やはりソレンティーノの魅力なのだろうか。こういう人間がソレンティーノを野放しにしてきたんじゃないか…
Shaw
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全然訳分からなかったけど『グレート・ビューティー』の偉大さには届かないな、とか思いつつも終わる頃には涙が出ていた。この監督、特に不快だったり鬱だったりする映画は(少なくとも自分が見た直近の作品は)撮らないのに、本当に不思議と自然な涙を誘うからどうしていいか分からない。すごく好きだった。