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『チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント』に投稿された感想・評価


安倍ちゃんの公文書改ざんのタイミングで「ペンタゴンペーパーズ 最高機密文書」が公開を控えているという示し合わせたようなタイミングでこの映画を観たのは本当に偶然だった。前から存在を知ってはいたのだけれど、どこもレンタルしてないしアマゾンで買おうにも定価から2000円高くなっているし、色々と二の足を踏んでいたんだけどようやく観ましたですよ。や、国立国会図書館に保存されているから観に行こうと思えば観に行けたんだけどね。

「チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」

これを観ておくことで「ペンタゴンペーパーズ」を観ることへの単純化された二元論を避けることができるかもですな。

しかしこの手のドキュメンタリー手法の映画でインターミッションが入るほどの長い映画(160分越え)とは恐れ入る。作品としてはそれだけ誠実であるということの証左でもあるんだけれど。

 

 

チョムスキーはそもそも言語学者で、言語生得説を提唱したすごい人(小並感)なわけなんですが、同時に政治分野にも一家言ある人なわけです。御年89歳ですがこの間も新刊出したり福島にも来てたりと、日本との縁も少なからずあるお人。この映画はその政治部分についてのチョムスキーの考えをまとめたものであると言える。実はこの人の本は読んだことなくて、「読書感想」の方では言語方面の彼の論を発展させたピンカーの本についてちょろっと書いたくらいだったりする。ピンカーはピンカーでフェミニストからはどうなのそれな部分が あるみたいなのですが、この映画ではピンカーのピの字も出てこないので彼については書きません。

 

 冒頭から「人々の目をふさぐ張本人が彼らの盲目を非難する」というミルトンの引用から始まるわけですが、これが映画の内容を端的に表してはいる。「環境管理型権力こわい」と。たしか前も引用した気がしますが某超越者(自称)が「目に見える裏切りなど知れている 本当に恐ろしいのは目に見えぬ裏切りですよ」とおっしゃっていたようなことです「環境管理型権力」というのは。多分。

 そんな引用から始まる本編ですが、開始十数分でわたしがこの映画を知るきっかけとなった「合意の捏造」という言葉がウォルター・リップマンの1921年の著書からの引用だとチョムスキーは言い、さらに彼の著作から文章を引用する。

んですが、その文章がもう完全になめくさっていて「民衆は公益が理解できないから専門家に任せて支配されてろ(ゝω・)テヘペロ」って感じ。意訳ですけどほぼこのまんま。この直後にチョムスキーが言説するとおり、これは民主主義の一般的見解とは異なっている。さらには政治に対して強い影響力を持っていた神学者(!?)のR.ニーバーなる人物も「愚かな民衆は理性で考えるよりやみくもに信じることを好む」と著書で書いていることを言及。

そして、ここで提示される政治システムが抱える内的矛盾についてさらに深堀されていくことになるわけです。あとこのシーンで思想注入というワードが出てくるのですが、これがなんかすごいディストピアSFぽくてイイ。どうでもいいことですが首領パッチがトゲを差し込んでエキスを注入すると首領パッチと同じ思考になるという設定がありましたが、あれを不可視にシステムの中に組み込んだものと言えるでしょう。

 

「民衆の無関心が独裁者を生む」。平和という選択しがないということ。ここではあくまで戦争を例に挙げているけれど、これは常に行われていると考えてもなんら不思議ではない。我々は常に提示された選択肢以外を選ぶことができないということ。それ以外の選択肢があるということを意識させないということが平然と行われているに違いないのだ。これはあまり考えたくもないことなのだけれど、ともすると提示している側すらそれに気づいていない可能性もあるのだろう。これ、「マトリックス(特にリローデッド)」にも通じますよね。

あとキャプテン・アメリカのカメオ出演に笑う。

 

第1部の中盤ではニューヨークタイムズについて取り上げられる。この映画が公開されたのは1992年でまだインターネットが今ほど普及していないこともあって、新聞の影響力が強かったんですね(日本でのソフト化が2007年というのは謎だ)。ニューヨークタイムズの新聞の内訳は、広告が6割で記事が4割。個人広告を抜けば記事の方が割合としては多いというが、そういう問題ではない。

広告が云々という問題は、ネットの普及によって取りざたされることが多くなっていたように思えるのだけれど、そんなものは今に始まったことではないということでもある。またここで、チョムスキーは物事を見るときには対になる出来事を対照させること、と言っている。反証と言い換えてもいいかもしれない。彼自身はポル・ポト政権のことと東ティモールのことを対になることとして挙げている。それがいかに当時としては危ない言論であったかは、インドネシアを取材したジャーナリストの映像と、その映像の直後に彼を含めた数名の名前が表示されると同時に銃声が鳴る演出からも明らかだった。インドネシア軍に殺されてしまったのである。けれど侵攻の前後のニューヨークタイムズの記事の偏向はすさまじく、ジェノサイドが最高潮に達していた時期にはアメリカもカナダも記事を載せることすらなかったという。

ここでは重要なことを言っている。

制度分析をさせないために陰謀説にすり替えるという上級国民のやり口。そりゃそうだ。既存の制度を分析されることは、すなわちその制度から既得権益を受けている連中にとってはシステムを脅かされることにほかならない。

 そして制度分析をさせないことで「大衆の無力化」を図る。これこそ政治/権力を握るものの本質だろう。別にワタミを例に挙げるまでもなく。

 このあと、チョムスキー(と監督を含めた製作陣)がなぜ映画を作ったのかということを遠まわし説明するかのようにテレビの構造を揶揄する構成を取っている。テレビが好むのは「短く簡潔に」ということ。

しかしこれは単純化以外のなにものでもなく、まして複雑な問題を語るのであれば「短く簡潔に」という概念は事実の歪曲とほぼ同義であるように思える。それを証明するかのようにニューヨークタイムズはある記事を引用する際に部分部分を切り取り「短く」した上で記事を出す。まあテレビではないけれど、同じ問題として並列させはせずとも近しい問題として扱っているように思える。実はこれってハフポスとかあの辺の原文を翻訳する際にも意図的にせよそうでないにせよ生じるロストイントランスレーションな気がするのですが。

つまり、そういう「短く簡潔に」というメディアの放送形態=システムそのものがすでにからして特定意見の排除を内包しているのである。

それにしても「聖書はジェノサイドを肯定している」というのは向こうの人にとっては結構感情を逆なでするものだと思うけど、大丈夫だったんでしょうか。

 

一つひっかかったのは、ベトナム人権委員会なる組織のカーン・レキムという人物が「ベトナムに人権侵害はない? この男は間違っている」とチョムスキーに対する反発を顕にしたインタビュー場面のあとに、チョムスキーは「糾弾はいいが嘘は困る」と言う。しかし、何が嘘なのかということについてはまったく語っていない。意図としては自身を非難する輩への反論(実際にこの直後に差別主義者というレッテルを貼られることを例に出している)というか、その嘘によって攻撃しようとする卑怯さを演出したかったのだろうけど、チョムスキー自身が口にしたその嘘というものとカーンが口にした言葉との間にはどうも乖離が見られる。というか、カウンターパンチをお見舞いするための誘い水を自分で放っておきながら、それに対する答えになっていないように思えるんですよねぇ。

 このシーンの直後に名前が出たロベール・フォリソンについて、チョムスキーが彼を擁護したことへの問題をここで取り上げている。で、気になってこの人の名前を調べてみたら真っ先に面白い文献にぶち当たった。「ロベール・フォリソンと不快な仲間たち一歴史修修正主義の論理と病理」ですって。読んでませんが、フリーアクセスなので余裕があるときに読んでみるのもいいかも。

それはともかくこのパートに関しては最近はもっと拍車が掛かっている。ツイッターなんかだと顕著だけれど、特定部分を抜き出して否定も肯定もしていない(あるいは部分的に双方を含む)ような意見なんかをどちらかに傾けて流布したり。

まあ、それよりはむしろ言論の自由に関する問題なのだけれど。ここに関してはほぼ全面的にチョムスキーに同意せざるを得ない。これの行き着く先はユートピア的ディストピアだろうし。たとえ悪罵であったとしても、それ自体が封殺されることはあってはならない。発言や記述の善悪だとか事実だとか虚偽だとか、チョムスキーがここで訴えているのはそういった矮小化された二元論ではない。その二元論を語る空間が脅かされてしまうということを訴えているだけだ。

無論、ヘイトスピーチみたいな例外はあるのだろうけれど、しかしやはりA3を読んだ今となっては、「ヘイトスピーチ」という例外を常態化させることでそれを建前に領域を徐々に拡大していくなんてこともあるかもしれない。

そこには注意が必要だろう。



 メジャーメディアに対する 対抗策としてのオルタナティブ・メディアは、規模ではなく数で攻めることが可能である一方で、主張がばらばらで読者数も限られてくるため、やはりメジャーどころへのカウンターとしては厳しい。しかし今はネットがあるし、バズったりすることで注目を集めることもある。

ま、バズる記事自体が限定されているという意味ではあまり期待できないことでもあるんだけれど。結局は能動性だろうし。

しかしチョムスキーはやはりわかっている。彼は質問に対して自分自身が間違っているかもしれないということを素直に言ってのけている。常に自分を問い続ける姿勢は、答えのない問題に取り組んでいるからこそなのだろう。この辺が自己欺瞞に陥いっている人とは違う点でしょうな。それに気づいてすらいない人もいるくらいだし。

 このあと、チョムスキーが自身の存在意義のようなものについて極めてわかりやすく伝えてくれている。この映画における捏造の合意を生み出す人々がトップダウン形式であるとするならば、チョムスキーはhub型の組織構造なのだと思う。彼は自分が分析能力に長けていることを自覚しているし、その能力を民衆やオルタナティブ・メディアに波及させていくことに尽力している。

で、チョムスキーはまた直球なことを言っていて面白いのですが「単純に国を愛したい私のような人間がアメリカをまた誇れる日は来ますか? 願うのは間違いですか? 私たちが権力に操られやすいのは国を誇りに思いたい気持ちが強いからです」という質問に対し「あなたの言う国が政府を指しているのであれば永遠に来ません。それはどこの国でも同じことです~中略~国家は暴力的機構です。政府は国内の権力構造を体現しそれは普通暴力的なものです。そして強力な国家ほど暴力的だ」と断言している。

また、チョムスキーは「政治システムには本当の意味では参加できていない」と言っているのだけれど、これはほとんど間接民主主義の構造的欠陥だとわたしは思う。だからこそ「制度の外で活動をする」というのは至極当然だろうけど、システムそのものを変えない根本的な解決には繋がらないように思う。

さらにこのあと、わたしが前述した「選択肢」論についてチョムスキーが明言する。彼の意見をそのまま援用させてもらえるなら、民衆はほとんどペットのようなものだ。飼い主はいくつかの餌の種類を用意している。その中でペットは好き嫌いがあるため、与えられる餌に不満を示すことはできる。そして、それが功を奏したら満足する。けれど、飼い主の用意する餌以外にも実際はたくさんの餌の種類があるにもかかわらず、ペットはその事実に気づきすらしない。それと同じようなものが政治システムには潜んでいる。や、政治に限らないけれど、特にそれが顕著であるのが政治というシステムであるとはいえよう。

 ただ、もしかするとシステムの恩恵を受けている上級国民すらシステムを使役しているというよりはその逆なのかもしれない。人に決められるのはシステム内の位置取りだけでしかなくて、その位置によって資本主義経済の中で生きることの難易度が左右されるのかも。

 

最後の10分くらいのチョムスキーの論ですが、 ここはもうほとんど自分が常日頃から思っていたことをチョムスキーがまんま同じことを代弁してくれている。

つまり、貧困や労働という行為そのものが政治から意識をそらすためにあるのかもしれない、ということ。チョムスキー自身はそこまで言ってなくて、ただ単に働いて疲れた人が家に帰って政治についての情報を集めて分析などできるだろうか、みたいなことを言っているだけだけど。そりゃそうだ。

学者などといった、その分野について研究することでお金をもらえるような連中とは違って、一般的な社会人というものは仕事に追われている。一日の3分の1という膨大な時間を労働に費やし、そうすることでようやく衣食住を確保することができるのである。もちろん、これに当てはまらない人もそれなりにいるだろうが、これに当てはまる人が大半だろう。

そして、それだけの時間を費やした人たちには休息が必要だ。では、その休息の時間をどうして政治のことに使わなければならない? せっかくの休息を馬鹿げた国会討論や同じことばかりを繰り返し垂れ流すメディアにどうして付き合わなければならない? これはもう陰謀論というか妄想なんですけど、そういうくだらない部分だけを徹底的に見せつけることで政治に関して諦念という政治的無関心の免罪符を大衆に与えることを意図しているんじゃなかろうか。

自分は今九割九部九分九厘ニートのようなものだが、そのおかげで映画や本に触れることができている。はっきり言って、本を読むことはかなり大変だ。読むものにもよるけれど、かなりの労力と時間を必要とする。と、わたしは思う。

けどね、30年近くも前に言われていたこの大前提を抜きに話を進める論客が多いこと多いこと。それも体制を批判する立場の人がその前提を無視してる場合が多い。その点で言えば、体制に迎合する側はそれを意識しなくてもいい点では相対的には労力が軽いのかも。

  

この映画を観た今、最後に自分自身への戒めというか楔として、書いておかなければならないことがある。

それは、この映画すら疑ってかかることだ。

たとえば、この映画では基本的に最大手ということでニューヨークタイムズが取り上げられているが、ほかの新聞が具体的にどうだったのかということまでは議論されていない。

また、チョムスキーは虐殺が同程度の規模であり人口比では東ティモールの方がカンボジアよりもひどかったと言っているが、人口比という対照軸が適切であるのかどうかという問題もある。もっとも、ことアメリカに関しては70年代にカンボジアへの蹂躙があったことを彼は言及している(だからどうだ、とは言っていないのがややもすればアレなのだが)ので、事情が入り組んでいるということは言える。

ここらへんはメディアが多重に事実を捻じ曲げているということを主張しているので、なんとなく一つ一つの事例がばらけているきらいはある。あるいはニュースアワーという番組に関することでは、16年間のゲストの数は15000人以上で、そのうちチョムスキーの出演回数は1回という字幕が表示される。一見するとこれはとても少ない数に思える。しかし、数字というものは往々にして相対的に語られるべきであって、この数字ではその数が多いのか少ないのかは判別できない。や、これがウィークリーなのか帯なのかによっても逆算することは可能だけど。

そもそもが翻訳されている映画であるためにロストイントランスレーションではないけれど翻訳者の理解度に依拠しているというのも疑ってかかるべき懸念だろう。
Tassu
-
メディアというものの基本的な「体質」「傾向」「欺瞞(情報操作の仕方)」を学べる、優秀(且つ普遍的)なドキュメンタリー

Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=ZutNld7rsI4


※メディアの情報に踊らされたくない全ての方に、おすすめです。
また本作品の元となったチョムスキーの著書を読むと、さらに理解は深まります。
Relatable especially at this moment, where the narratives by the media are quite different between the Russian invasion of Ukraine and the Israeli genocide of the Palestinians.

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