監督のチュ・サンミは、出産後に子どもへの愛着や不安のために産後うつを経験する。そんな中、彼女は偶然目にした北朝鮮の孤児たちの映像をきっかけに、秘密裏にポーランドへ強制移送された戦災孤児たちの記録を知る。1950年代、自国も厳しい情勢下に異国の孤児たちを我が子のように受け入れたポーランド人教師たちと、彼らを「ママ」「パパ」と慕う朝鮮の子どもたちがいた――。チュ・サンミは、脱北の過去を持つ大学生イ・ソンとともにポーランドを訪問し、いまでも子どもたちを懐かしく思い涙を流す教師たちと出会う。あのとき彼らは何を思ったのか。その後朝鮮に送り戻された孤児たちはどうなったのか。そして旅の途中、イ・ソンは泣きながらいまも北朝鮮にいる家族のことを語りはじめる。
北朝鮮人でさえ知らない北朝鮮の歴史。 1950年代に東ヨーロッパに移住した朝鮮戦争の孤児についての未知の秘密。 ドキュメンタリー監督による執着の15年の歴史トラック。 朝鮮戦争70周年、2…
>>続きを読む1952年に北朝鮮から8人の若者がモスクワ国立映画大学に留学した。だが、彼らは北朝鮮に帰らず、当時の金日成首相を批判して、エリートとしての約束された将来を捨てて、1958年にソ連に亡命し、…
>>続きを読む大阪・生野区生まれ、在日コリアンのオモニ(母)。2009年にアボジ(父)が亡くなってからは大阪でずっと一人暮らしだ。ある夏の日、朝から台所に立ったオモニは、高麗人参とたっぷりのニンニクを詰…
>>続きを読むその日、愛する者のために命を賭した名もなき英雄たちがいた―― 北朝鮮の猛攻を受け敗走を続けた韓国軍は、戦況を打開するためマッカーサー将軍の指揮下で大規模な上陸作戦を計画していた。それが後に…
>>続きを読む日中戦争下、ソ連と満州の国境近くに勤労動員として送られた新京第一中学校の生徒たち。昭和20 年8 月、ソ 連軍の爆撃が降り注ぐ中、ソ満国境に取り残され、過酷を極める必死の逃避行が始まった…
>>続きを読む枯葉剤の後遺症で亡くなった祖父は自らを「参戦勇士」だと称したが、戦争については何も語らな かった。韓国はベトナム戦争の特需で豊かさを手にした。 私は沈黙の世界を知るために旅をし、思考し、そ…
>>続きを読む戦後75年目の残留。生き別れた者が伝える、日本という国の今。「私を日本人と認めてほしい!」-フィリピン残留日本人 。「私は日本人。でも言葉がわからないの!」-中国残留孤児。太平洋戦争以前、…
>>続きを読む©2016. The Children Gone To Poland.