
戦後75年目の残留。生き別れた者が伝える、日本という国の今。「私を日本人と認めてほしい!」-フィリピン残留日本人 。「私は日本人。でも言葉がわからないの!」-中国残留孤児。太平洋戦争以前、…
>>続きを読む日中戦争下、ソ連と満州の国境近くに勤労動員として送られた新京第一中学校の生徒たち。昭和20 年8 月、ソ 連軍の爆撃が降り注ぐ中、ソ満国境に取り残され、過酷を極める必死の逃避行が始まった…
>>続きを読む1917年、日本統治時代の台湾。台湾西南部に位置する不毛の大地・嘉南平原。総督府から派遣された土木技師の八田與一は灌漑用水路を作るための土地提供を地元農民へ訴えていた。農民の子・英哲も八田…
>>続きを読む日本で唯一の地上戦が行われた沖縄。その凄惨な戦闘をほとんどの日本人が知ることなく、77年の年月が経とうとしている。本土への疎開のため多くの子供達が乗った対馬丸がアメリカの潜水艦によって撃沈…
>>続きを読む米軍が上陸し、民間人を含む20万人余りが死亡した沖縄戦。1944年の晩夏、42名の「陸軍中野学校」出身者が沖縄に渡った。北部で展開されたゲリラ戦やスパイ戦などに動員されたのは、まだ10代半…
>>続きを読む1945年、戦況悪化に耐え切れず若き勝雄は特攻攻撃隊に志願した。勝雄は既に将来の展望も死への恐れもなかったが、勝雄を弟のように可愛がる飛曹長の阿部と親交を育むうち、写真でしか知らぬ阿部の妹…
>>続きを読むカンボジア、1975年4月。武装組織クメール・ルージュによるプノンペン制圧のニュースを境に、多くの住民が強制労働のため農村に送られる。一家で農村へ移動する道中、息子ソヴァンと離れ離れになっ…
>>続きを読む“空の表玄関”を称する成田国際空港の周囲では、機動隊による厳重な検問が現在もつづけられている。大型機が離発着を繰り返すA滑走路南端では、闘争遺跡“岩山要塞”が不気味な姿をさらしている。二本…
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