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星の王子さま
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目次

『星の王子さま』に投稿された感想・評価

生きるとは何?

それは死だ 英雄のように死ぬことだ
軍隊をつくって、それから敵を探すのだ


知識とは何?

教えてあげよう
私はこの世で最も偉い歴史家


国境とは何?

君にはわからない 子供だからね


小さい頃、微睡みながら寝る前に母親に読んでもらった絵本のような、そんな温かいストーリーのなかで、生きていく上で1番大切なことを教えてもらった、大人になって忘れかけていたもの


わがままは愛情 いろんな花を知ってるのに薔薇には会ったことがない 薔薇を求めてなかったからさ

砂漠は井戸を隠してるから美しい
夜の砂漠は太陽を隠してるから美しい


時間を無駄使いしたから楽しい時間がすごせたんだ 相手を愛した証拠だ
彼はもうただのキツネではない


ものを見る目は 心の中にある
大切なものは 目には見えない


ぼくの体は古い貝殻みたいになる
だけど悲しまないで

どの星からも鈴がぶら下がってるみたいに
これからはずっと笑い声が聞こえる


忘れかけていた夢や希望がぼくの胸に再び蘇った

星の王子様、君のその瞳のおかげだ



めも

5億162万2731という数字は、第二次世界大戦を引き起こした国民の合計っていうの凄い、

今までそれを知らなかったのが恥ずかしすぎるけどラピュタがこの作品のオマージュって途中から気づいた 地平線が輝くのは何処かに君を隠しているから 小学二年生の合唱曲で歌って作品も主題歌もずっと大好きなのにこの年になってようやく少し理解できた気がする、、

本を読みます!記憶にないくらい昔に読んで、隠喩に全然気付けていなかった

擬人化が魅力的すぎない?特にヘビの動きとダンス めちゃくちゃ良かった

【大人たちへの献辞】

私は今、2005年の時点で、日本では著作権がとっくに失効しているので、誰でも無料でダウンロードし放題になっている『星の王子さま』(1943)という作品について、好きなので、色々個人的に調べているのですが、誰もまったく読む必要のない、ひたすら長いだけのゴミのような文章を個人的にずっと書いています。ゴミのようなものなので、誰も読む必要などないです。無視してください。


⑴【星の王子様は、子供向けの作品なのか?】

私は、『星の王子さま』という作品が子供向けの絵本だと思ったことがマジで一度もない。何度読んでも、「これは当然のことながら大人に向けて書かれている作品だ」という印象を全体的に受けるし、「大人も子供も楽しめる」のかどうか分からない。もし仮にそうだとしても、その場合、大人と子供では、まったく別の意味で「楽しんでいる」ということになるだろう。

というのも、高度な隠喩と象徴や「含み」「におわせ」が随所に張り巡らされているとも取れる作品であるがために、そういう比喩が何を匂わせているのかが、まだ分からないような子供は、むしろ締め出されているようにさえ感じる。(たとえば、塚崎幹夫氏は、『星の王子さまの世界』(中央公論社)の中で、ウワバミの背後にドイツの軍事行動を見ていたり、3本のバオバブの木を放置しておいたために破滅した星が出てくるが、あれは、1.ドイツと2.イタリアと3.日本の枢軸側の3国(=それぞれ1.ナチズムと2.ファシズムと3.日本の全体主義)に適切な対応をしなかったことが背景にあるのではないかとしている。また、王様の星(第10章)で、王が、星の王子様を大使に任命したところで章が終わっているが、あれはサン=テグジュペリ自身が、ナチスドイツの傀儡政権ヴィシー政府から文化大使に任命されていたことが背景にあるとしている。この作品が書かれた戦時下で、ニューヨークに亡命中の作者から見えた特異な世界状況がこの作品内に反映されている可能性は大いにある。同氏は、「現下の世界の危機にどこまでも責任を感じて思いつめるひとりの「大人」(une grande personne)の、苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書」であり、「この本が素晴らしいのは、単に詩的、哲学的、文学的に素晴らしいというだけではなく、この本の中には作者の死の決意と、親しい人たちへの密かな訣別が秘められているからなのだ。死の決意に裏付けされた人類の未来への懸命な祈りの書だからだ」としている。他にも、「花」はサン=テグジュペリの妻コンスエロだとか、王子の星にある第一の活火山は愛で、第二の活火山は希望で、第三の休火山は信仰だという説さえある。この作品全体をサン=テグジュペリの「遺書」だと取ることさえ可能。)だから、王子の対話シーンなんか、むしろ禅問答みたいなのだ。例えば、次の一文を読んでほしい。

Et, avec un peu de mélancolie, peut-être, il ajouta :
– Droit devant soi on ne peut pas aller bien loin.(第3章)
そして多分、少しの憂鬱をこめて、王子様は付け加えた。
「まっすぐ目の前にとはいえ、人はそんなに遠くへは行けるもんじゃないんだよ。」


これは、「ヒツジをロープでちゃんと繋いでおかないと何処へでも行ってしまうよ」と言われた王子様が、飛行士(すなわち語り手)に応答する場面なのだが、主語がもはやヒツジではなく、フランス語の一般主語onに途中から、すり替わっているため、これはむしろ、人間という存在者についての言及になっているのだ。他にも、こんなのもある。

– Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est un peu seul dans le désert…
– On est seul aussi chez les hommes, dit le serpent(17章)
「人間たちはどこ?」王子はやっと口を開きました。
「砂漠にいると、少しさびしいよね。」
ヘビは答えて言いました。
「人間たちのところにいたって、やっぱりさびしいさ。」


↑ここでは、社会と砂漠が重ねられているのだ。人間は本質的に孤独だと言われているとも取れる。こういう孤独って、子どもにも分かるんだろうか。つまり、サン=テグジュペリさんによって、読者として想定されている人々には、かなりの人生経験と失敗の経験などが前提されており、象徴を使って「ああ、ここは字義通りに取るのではなくて、人生のこういう局面について言われているのだなぁ」という勘ぐりが出来ることが暗に期待されているのではないだろうか。

だから、私はこの作品を子供向けの作品だと思ったことがマジでまったくないけれども、「ナチスとの戦争で北アフリカ戦線に向かう数週間前に、死を覚悟した、ひとりのフランス人作家が、同時代の大人たちに向けて反省を促すために書いた手紙」だと思ったことは何度かある。

他にも、「どう考えても、子供向けではないだろ」ということを確信する箇所がいくつも思い当たるのだ。たとえば、次の箇所を見てほしい。(翻訳は私がつけた。市販されている子供向けの絵本の訳だと、かえって裏の意味を読み取るのが難し過ぎるからである。)(私の訳は大人向けである。大人向けの訳をつけるほうがずっと簡単であって、子供向けの訳を作るというのは、めっちゃ難しいことなので、やっている人は本当にすごいと思う。)

−Je me demande, dit-il, si les étoiles sont éclairées afin
que chacun puisse un jour retrouver la sienne. Regarde ma planète. Elle est juste au-dessus de nous… Mais comme elle est loin !
– Elle est belle, dit le serpent. Que viens-tu faire ici ?
– J’ai des difficultés avec une fleur, dit le petit prince.
Ah ! fit le serpent.
Et ils se turent.(17章)
王子様は次のように言いました。「星たちが輝いているのは、みんながそれぞれ自分の星をいつか見つけられるようにするためなのかどうかを僕は考えているんだ。ねぇ、僕の星を見てみてよ。僕の星は、僕たちのちょうど真上にきている。でも、あの星(elle)は、なんて遠いんだろう。」
「その星(elle)、綺麗だね。でも、ここへは何をしに来たんだい?」ヘビは聞きました。
「ちょっと花とトラブルがあってね。」
王子様はそう言いました。
「あぁ!」とヘビは言いました。
それからふたりは、黙りました。



ここの文章で、蛇と王子様は、なぜ黙りこくるか分かるだろうか。蛇なんか、「ああAh !」と言ってから、もう何も言わなくなるのである。なぜだろうか。ヘビは、王子の傷心旅行のわけを瞬時に察したからである。ヘビは、王子様が地球へ自殺しに来ていると瞬間的に理解したのだ。

ヘビは偶然にも良質な毒を自らに備えていたし、王子は遠い女の元へ、帰らねばならなかった。そのためには、肉体が重過ぎた。ヘビは自分が王子の自殺を手伝ってやらねばならないと理解したのである。王子がいずれは、次のように聞いてくることを、この出会いの時点で、この王子様の自殺からちょうど一年前の時点で、ヘビはもう知っていたに違いない。(ちなみに、ここで、「自分の星が真上にある」というのも伏線である。なぜなら、一年後に、またちょうど自分の星が真上に来る日、王子様は自殺をするからだ。)だから、ヘビは次のように匂わせるのだ。

Je puis t'aider un jour si tu regrettes trop ta planète.(17)
もし君がいつか、とても故郷が懐かしくなったら、俺が君を手伝ってやるぜ。

Je puis t'emporter plus loin qu'un navire.(17)
俺は君を船よりも遠くへ運んでやるぜ。

Celui que je touche, je le rends à la terre dont il est sorti.(17)
俺は俺が触るものを、そいつが出てきた元の大地に送り返してやるのさ。


なんてかっこいい死のメタファーだろうか。蛇は死である。「死」が王子に語りかけたのだ。終盤で、自らの死を覚悟した王子様は、死に、次のように応える。

Tu as du bon venin ?(26章)
君の毒は、苦しまずに死ねるような毒かい?

Je ne peux pas emporter ce corps-là. C'est trop lourd.(26章)
この肉体を持ってはいけない。重過ぎるんだ。


明らかにこの作品は大人向けである。


⑵【サン=テグジュペリについて】

サン=テグジュペリは1900年6月29日にリヨンで生まれた。父親はリムーザン地方の貴族出身で、保険会社に勤めていた。1904年には、五人の子どもを残して父親が死亡。母親は、南方プロヴァンス地方の貴族の出身で、絵画の才能を持った女性だったらしい。母親は夫の死後、子どもたちを連れて故郷へ帰り、祖父や大叔母の所有地、ラ・モールの城、サン=モーリス・ド・レマンスの城で子どもたちを育てた。この母親に対して、サン=テグジュペリは終生深い愛情を抱いていたらしい。サン=テグジュペリは二歳年下の弟が15歳で死に、その死の間際に、死の床で、弟と話をしている。サン=テグジュペリは、海軍兵学校の入試に失敗後、1921年には、兵士としてドイツ国境に近いストラスブールという都市の第二飛行連隊に入隊し、操縦士となるための訓練を受け、民間飛行免許を取得した。そして軍用機操縦免許も取得して予備少尉になる。しかし、1923年に事故で怪我をして除隊。1926年には、処女作『ジャック・ベルニスの脱出』の一部を「飛行家」というペンネームで雑誌「銀の船」に発表し、ラテコエール航空会社に就職することによって、もう一度パイロットに戻ることになった。飛行士としてのキャリアは、トゥールーズとカサプランカの間と、カサブランカとダカールの間の定期郵便飛行を経験し、中継基地の飛行場長をつとめ、アエロポスタル・アルヘンティーナ社の支配人としてブエノス・アイレスに赴任し、フランスから南米にいたる路線のカサブランカとポール・テチエンヌの間の飛行、ラテコエール飛行機製造会社のテスト・パイロットとして、その後には、エール・フランスの宣伝部勤務などをつとめた。
1931年に、サン・サルヴァドル出身のコンスエロ・スンシンと結婚、35年には、『パリ・ソワール』紙の特派員としてモスクワへ行ったり、パリとサイゴンの間の飛行記録更新をめざしての飛行中にリビア砂漠に不時着したりした。(ちなみに、星の王子さまの語り手が不時着したのはサハラ砂漠である。)1939年には、『人間の土地』にアカデミー小説大賞が与えられたが、この年の9月に第二次大戦が勃発し、予備大尉として戦争に召集された。フランスがナチス・ドイツに占領されたので、1940年の6月に休戦調印がされ、動員解除を受けると、サン=テグジュペリは、アメリカへの亡命を決心し、1941年の1月にニューヨークへ着いた。サン=テグジュペリがニューヨークに到着する少し前、1941年の12月8日に、日本は真珠湾を攻撃しており、これもあって、ヨーロッパの窮状を傍観していたアメリカは、ヨーロッパでの参戦に踏みきった。1942年の11月、連合軍の北アフリカ上陸作戦成功のニュースを喜んだサン=テグジュペリは、もう一度戦おうと決心し、1943年の5月に、北アフリカへ向かう軍用船に乗り込み、アルジェに到着した。このとき、サン=テグジュペリは43歳で、操縦士として実戦に参加することについて、アメリカ軍側からは反対が出た。彼はすでに何度も事故を起こしてきたという事実があり、サン=テグジュペリは、優秀な飛行士とは言えなかったのだ。それでもサン=テグジュペリ自身が執拗に求めたので、飛行を許された。しかし、すぐに事故を起こしてまたも予備役に編入させられてしまう。それでも、また頼み込んで偵察飛行を続ける許可を得て、サルディニア島のアルゲーロ基地にある2-33偵察飛行大隊に復帰した。その後、コルシカ島のボルゴ基地に移動し、1944年7月31日、その基地を飛び立った後でついに、消息を絶った。コルシカ島からフランス本国への偵察飛行のために飛び立ったサン=テグジュペリは、南仏のアゲー沖で、ドイツ軍の戦闘機に撃墜されたそうだ。

『星の王子さま』は1943年にニューヨークで出版されたのだが、サン=テグジュペリは、1943年の5月には戦線復帰のために北アフリカ戦線へと旅立っているので、この作品の成功をサン=テグジュペリ自身は知ることがなかった。

『星の王子さま』の出版部数は日本だけで600万部、全世界では8000万部にのぼる。Le Petit Princeというフランス語に対する「星の王子さま」という訳語は内藤濯の1953年の岩波書店版の翻訳における発明だ(野崎歓訳だと『ちいさな王子』になっている。ただ、アプリヴォワゼすると定冠詞になるという構造を考えると、この原題に定冠詞が付いているのは、何かしらの深い意味があるのではと考えることもできる。つまり、王子様と飛行士との間にうまれた絆をこの定冠詞が表しているのではという可能性がある。)。

『星の王子さま』は、前述のとおり、1942年の第二次世界大戦のさなかに、アメリカに亡命していたサン=テグジュペリがニューヨークで書いたものだ。サン=テグジュペリの友人たちが、祖国フランスから遠く離れた土地で失意の中にあったサン=テグジュペリに、子どもたちへのクリスマスプレゼントになるような本を書くことを勧めたのだ。(結局、クリスマスまでには執筆が間に合わなかった。)1943年に、英語版とフランス語版がニューヨークで出版(フランス語版の初版第一刷はレイナル&ヒッチコック社から刊行された)され、その1週間後、1943年4月に、サン=テグジュペリはナチスドイツと闘うために北アフリカ戦線に、ニューヨークから船に乗って、出発した。(前述の通り、すでに戦闘機の搭乗員として年齢制限は超えていたのだが、それを無視して困難な出撃を重ねたわけである。)

サン=テグジュペリは英語が苦手で、しかもアメリカが嫌いだったらしい。例えば、「ビジネスマン」という登場人物の名前だけが作中で英語スペルなのだが、アメリカ資本主義文明に対するサン=テグジュペリの風刺かもしれない。


⑶【邦訳があるサン=テグジュペリの作品】

『南方郵便機』(1929)、『夜間飛行』(1931)、『人間の土地』(1939)、『戦う操縦土』(1942)、『青春の手紙』(1923-1931)、『城砦』(1948)、『ある人質への手紙・母への手紙』(1943)などは邦訳が出ている。

サン=テグジュペリの処女作『南方郵便機』は1929年。『夜間飛行』はフェミナ賞、『人間の大地』はアカデミーフランセーズ小説大賞に選ばれている。1942年には戦争小説『戦う操縦士Pilote de guerre』も書いている。


⑷【『星の王子さま』という作品の構成】

『星の王子さま』は、始めにひとつの献辞がついていて、本文は27章構成になって、あとがきで終わっている。(ちなみに、とくに読みごたえがあるのは第21章である。第21章だけでも読んだ方がいい。ちなみに、一番長い章は第26章である。あと、第6章だけに唯一、地の文の書き手(=6年後の飛行士)が王子さまに語りかけるという場面がある。第6章以外の箇所では、地の文の書き手は過去の描写に徹しているのだが。)そして、40枚ほどの非常にデザイン性の高い超有名な挿絵はサン=テグジュペリ自身が描いたものだ。要するに、『星の王子さま』は、①冒頭の「献辞」、②27章分割の本文、③「あとがき」、④挿絵という4つの構成要素から成る。

27章の構成とテーマは以下のようになっている。

第1章:語り手が6才のとき
第2章:不時着して2日目の朝の出会い(6年前のこと)
第3章:王子様はよその惑星からきた。
第4章:小惑星B612の話
第5章:不時着してから3日目、バオバブの話
第6章:不時着してから4日目、夕陽の話
第7章:不時着してから5日目
第8章:バラの花(カットバック始まり)
第9章:バラとの別れ
第10章:王様の惑星
第11章:自惚れ屋の惑星
第12章:酔っ払いの惑星
第13章:ビジネスマンの惑星
第14章:点灯夫の惑星
第15章:地理学者の惑星
第16章:王子が地球にくる
第17章:ヘビに会う(王子が噛まれる1年前)
第18章:人間には根っこがない
第19章:やまびこと会話をする
第20章:5000本のバラを見つける
第21章:キツネと会う
第22章:転轍技師と会う
第23章:クスリ売りと会う(カットバック終わり)
第24章:不時着してから8日目(井戸探し)
第25章:不時着してから9日目(ヒツジの絵に口輪を描く約束を果たす)
第26章:不時着してから10日目の夕暮れ(ヘビに噛ませる王子様)
第27章:不時着から6年後。語り手はまだ誰にも王子のことを話していない。(語り手は口輪の絵にに革紐を添えるのを忘れたことに気づく)

↑このとおり、全体が全て6年後のパイロットの回想なのに、その回想の中で、長い長いカットバック(8〜23章はすべて回想)が途中に入るので入れ子構造となり、時系列がとても分かりにくいのだが、王子様は、時系列だと次のような順序でキャラたちと出会い、会話をしている。王子のバラ→王様→自惚れ屋→酔っ払い→ビジネスマン→点灯夫→地理学者ヘビ→無名の花→こだま→5000本のバラ→キツネ→転轍技師→薬売り→パイロット→ヘビに噛ませて星に帰る。


⑸【『星の王子さま』のあらすじ】

この作品の舞台は終始、砂漠である。なぜ砂漠なのだろうか。当時の時代情勢(1943)を考えると、世界各国が相互にいがみ合っていて、まさに不毛の砂漠のようであったともいえる。自己中心的な大人たちの、殺伐とした心が社会という砂漠を構成していたともいえるかもしれない。もしそうだとすれば、飛行機の上空から砂漠を眺めていたサン=テグジュペリは、「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ。」という王子の言葉に託した人間社会への希望を感じとることができるかもしれない。あるいは単に、砂漠に不時着したという経験から来た設定だろうか。分からない。

とにかく、『星の王子さま』の冒頭は、レオン・ヴェルトへの献辞(dédicace)で始まる。左翼革命思想の持ち主だったレオン・ヴェルトさんはサン=テグジュペリと1935年に知り合った。「この本をひとりの大人に捧げることを、子供たちには許してほしい」という言葉で始まるのだ。レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリよりも22才歳上のユダヤ系フランス人である。ということは、この献辞は、祖国フランスで戦っている同胞に宛てたものだ。サン=テグジュペリはこの本を子供たちではなく大人に捧げてしまったことについての弁解を3つ(①レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリの世界で一番の大親友だから。②レオン・ヴェルトは、子供の本でさえも理解してくれるから。③レオン・ヴェルトはいま飢えと寒さに苦しむ祖国フランスにいるから。)を述べたあと、それでも読者が納得しないなら、「レオン・ヴェルトも昔は子どもだったのだから許してくれ」と書いている。(この献辞が、本当に子どもに宛てられているとしたら、子供にとって、冒頭からいきなり難し過ぎるのではないだろうか。)

さて、語り手が6歳のときのこと。絵本の中の、獣を飲み込む大蛇「ボア」のデッサンを見て感動した語り手は、自分も似た絵を描いて、大人たちに見せて、怖くないか?と聞いてみたんだが、しかし、その絵は大人たちには帽子にしか見えなかったという有名なエピソードが語られる。(第1章)

この件で、将来画家になる夢を諦めて飛行機のパイロットになった語り手は、現在から6年前のこと、サハラ砂漠に不時着して、王子様と遭遇する(第2章)。語り手に飲み水は1週間分しかなかった。(つまり王子と語り手とのこれからの対話は、1日目から、水が尽きる8日目までに渡って展開されるというわけだ。)

ある日王子の星にバラが咲く(第8章)。バラを初めてみた王子は感激して世話をするがバラは強気で王子につれなかった。実はバラは王子への愛を素直に表せなかったのだ。この、王子さまに守られたくて、美しくて、気高くて、気難しくて、見栄っ張りの薔薇は、わがままでありながら、はかなく、素直になれず、そして、王子さまに愛されてゆく。 サン=デグジュベリの愛妻コンスエロか?と考えられているが、バラのモデルは、愛妻コンスエロであるという説と、サン=テグジュペリの母がモデルであるという説と、かつての婚約者であるルイーズ・ド・ヴィルモランがモデルであるという説があるが、別に特定する必要もないだろう。

王子はバラとトラブって、傷ついて、星々をめぐる旅に出る。精神を明らかに病んだ大人たちを見て巡る。やがて王子は、強い存在だと思っていたバラが、いつ枯れてしまうかも分からないような、そういう、はかない存在であったことを地理学者によって知らされる。(地理学者のいる6番目の星だけは、他の星よりも10倍大きい。この6つ目の星で出会った地理学者に、王子は、次は地球に行くとよいと教えられるのだ。)

そういう経緯で、7つめの星は地球。(ちなみに、王子さまが地球に来て最初に出会うのは毒ヘビである。)その地球で王子は5千本のバラが咲いている庭を目にし、世界にひとつしかないと思っていたバラが無数にあることを知る。自分が愛したバラが、ワンオブゼムに過ぎなかったと知り、王子は悲しむ。するとそこで、狐が王子に声をかける。狐は王子に、「絆は時間によってこそ育まれるのだよ」と言う。共に過ごした時が、相手をかけがえのない唯一の存在にする(=アプリヴォワゼする)のだとキツネは言う。アプリヴォワゼの原義は、「privéなものにする」、つまり、「プライベートなものにする」という意味。

王子は、自分もバラも相手の気持ちになっていなかったものだから、傷つけ合うことになったのだと悟る。そして毒蛇に自分をかませて、自分の星である小惑星B612に戻っていく。

ちなみに、この「小惑星 B612号」は、語り手にによると、1909年にトルコ人の天文学者によって見され、国際天文学会で発表されたものだったそうだ。ところが、その学者が民族衣裳を着ていたので、誰も彼の発表を信じなかった。ところが、1920年に、ヨーロッパ風の服を着て発表しなければならないという制度が新しく出来たために、同じ星についての発表を、ヨーロッパ風の服装で行うと、今度は信じてもらえたという設定になっている。(これが、サン=テグジュペリのいう大人"grandes personnes"である。)

⑹【翻訳するという行為が孕む問題について】

翻訳は考えものである。なぜなら、例えば、以下の一番有名な箇所をみてみてほしい。

Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est très simple: on ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.(21)
永遠にお別れだな。最後に、これが俺の秘密さ。とてもシンプルなんだ。心で見たときしか、よく見えない。大切なものは、目に見えないんだ。

↑ここが、英訳だとどうなるかというと、It is only with the heart that one can see rightly.というように、強調構文になってしまって、on ne voit bien qu'avec le cœur.というフランス語の8単語が、英語だと11単語になってしまっているからだ。しかも理屈っぽい。フランス語のシンプルさがない。

他にも致命的な翻訳による欠陥がある。それは、une fleur とla fleur の決定的な違いが出せないという点だ。ここは『星の王子さま』という作品にとって本当に致命的である。なぜなら、この作品のタイトルはle petit prince であって、定冠詞がついているからだ。つまり、実はこの作品中で、既に話者がアプリヴォワゼしている対象を表現するときには定冠詞が使われ、まだアプリヴォワゼされていない対象を表現するときには不定冠詞が使われているのである。次の箇所を参照してほしい。

Comme ses lèvres entr’ouvertes ébauchaient un demisourire je me dis encore : « Ce qui m’émeut si fort de ce petit prince endormi, c’est sa fidélité pour une fleur, c’est l’image d’une rose qui rayonne en lui comme la flamme d’une lampe, même quand il dort… » (24)

王子様の少し開いた唇がほのかな笑いをかたどったので、私は次のように考えてしまった。「ねむる王子様のなにがこんなに私を感動させるのかといえば、それはある花への忠誠心なのだ。あるバラのイメージが王子様の中にあって、彼が眠っているときでさえ、ランプの炎のように光を放っている。」

ここでは、語り手は王子様のバラをアプリヴォワゼしていないので、バラは定冠詞ではなく不定冠詞になっている。

あと、王子さまは「僕」キツネは「俺」、語り手は「私」、バラは「あたし」という感じで、一人称を使い分けると訳しやすくなる。日本語は、ある意味で、この点でとても便利であるとも言える。




⑺【研究書(年代順)】
研究書はフランス語でも日本語でも死ぬほど出ていて、そのほんの一部は以下の通り。他にも、怪しいものまで、無数にある。

ルネ・ドランジュ著、山口三夫訳『サン=テグジュペリの生涯』(みすず書房)、1963年。
内藤濯著『星の王子とわたし』(文藝春秋)、1968年。
山崎庸一郎著『サン=テグジュペリの生涯』(新潮選書)、1971年。
内藤濯『未知の人への返書』中央公論社、1971年。
アンドレ・ドヴォー著、渡辺義愛訳『サン=テグジュペリ』(ヨルダン社)、1973年。
Yves Monin. L'ésotérisme du Petit Price de Saint-Exupéry (Nizet, Paris, 1976)
内藤濯『落穂拾いの記』岩波書店、1976年。
内藤初穂「童心の日記―序に代えて」、1984年。
山崎庸一郎『星の王子さまの秘密』彌生書房、1984年。
稲垣直樹『サン=テグジュペリ 人と思想』清水書院、1992年。
ジョン・フィリプス著、山崎庸一郎訳『永遠の星の王子さま』(みすず書房)、1994年。
山崎庸一郎監修『星の王子さまのはるかな旅』(求龍堂)、1995年。
山崎庸一郎訳編『サン=テグジュペリの言葉』(彌生書房)、1997年。
ルドルフ・プロット『星の王子さまの心』(パロル舎)、1997年。
小島俊明『改訂版 おとなのための星の王子さま――サン=テックスを読みましたか』近代文芸社、2000年。
柳沢淑枝『こころで読む「星の王子さま」』成甲書房、2000年。
山崎庸一郎『『星の王子さま』のひと』新潮社、2000年。

水本弘文『「星の王子さま」の見えない世界』大学教育出版、2002年。
内藤濯『星の王子 パリ日記』グラフ社、2003年。
内藤初穂「『星の王子さま』備忘録その一」岩波書店、2003年。
片木智年『星の王子さま学』慶應義塾大学出版会、2005年。
藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』八坂書房、2005年。
三野博司『『星の王子さま』の謎』論創社、2005年。
塚崎幹夫著『星の王子さまの世界』(中央公論社)、2006年。
加藤晴久『自分で訳す「星の王子さま」』三修社、2006年。
内藤初穂『星の王子の影とかたちと』筑摩書房、2006年。
鳥取絹子『星の王子さま 隠された物語』ベストセラーズ、2014年。
安冨歩『誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠』明石書店、2014年。
yass
1.0
漫☆画太郎の星の王子さまを読みました。5巻まで。
本当に苦痛でした。
永遠とも思える程無駄な時間を過ごしましたが何とか読み終わりました。
6巻でラストらしいですが、仮にラスト1ページ手前まで読んでその後放置したとしても全く気になりません。
ただ話の中にあらゆる元ネタがあり数多のぱくり方をしているので少し感心しました。ここまで駄作にできるのかと。
そんな訳で漫画の星の王子さまを知り合いの全員に勧めていきたいと思います。
映画は見てません。

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上映時間:

23分
3.5

あらすじ

何もないと思っていた場所に、ずっとそこにいたくなる風景があり、言葉に出さなくても多くのことをわかりあえる存在があった。世界で一番となりの木と離れている木の話、砂漠の深い深いところに眠る大き…

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