というのも、高度な隠喩と象徴や「含み」「におわせ」が随所に張り巡らされているとも取れる作品であるがために、そういう比喩が何を匂わせているのかが、まだ分からないような子供は、むしろ締め出されているようにさえ感じる。(たとえば、塚崎幹夫氏は、『星の王子さまの世界』(中央公論社)の中で、ウワバミの背後にドイツの軍事行動を見ていたり、3本のバオバブの木を放置しておいたために破滅した星が出てくるが、あれは、1.ドイツと2.イタリアと3.日本の枢軸側の3国(=それぞれ1.ナチズムと2.ファシズムと3.日本の全体主義)に適切な対応をしなかったことが背景にあるのではないかとしている。また、王様の星(第10章)で、王が、星の王子様を大使に任命したところで章が終わっているが、あれはサン=テグジュペリ自身が、ナチスドイツの傀儡政権ヴィシー政府から文化大使に任命されていたことが背景にあるとしている。この作品が書かれた戦時下で、ニューヨークに亡命中の作者から見えた特異な世界状況がこの作品内に反映されている可能性は大いにある。同氏は、「現下の世界の危機にどこまでも責任を感じて思いつめるひとりの「大人」(une grande personne)の、苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書」であり、「この本が素晴らしいのは、単に詩的、哲学的、文学的に素晴らしいというだけではなく、この本の中には作者の死の決意と、親しい人たちへの密かな訣別が秘められているからなのだ。死の決意に裏付けされた人類の未来への懸命な祈りの書だからだ」としている。他にも、「花」はサン=テグジュペリの妻コンスエロだとか、王子の星にある第一の活火山は愛で、第二の活火山は希望で、第三の休火山は信仰だという説さえある。この作品全体をサン=テグジュペリの「遺書」だと取ることさえ可能。)だから、王子の対話シーンなんか、むしろ禅問答みたいなのだ。例えば、次の一文を読んでほしい。
Et, avec un peu de mélancolie, peut-être, il ajouta : – Droit devant soi on ne peut pas aller bien loin.(第3章) そして多分、少しの憂鬱をこめて、王子様は付け加えた。 「まっすぐ目の前にとはいえ、人はそんなに遠くへは行けるもんじゃないんだよ。」
– Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est un peu seul dans le désert… – On est seul aussi chez les hommes, dit le serpent(17章) 「人間たちはどこ?」王子はやっと口を開きました。 「砂漠にいると、少しさびしいよね。」 ヘビは答えて言いました。 「人間たちのところにいたって、やっぱりさびしいさ。」
−Je me demande, dit-il, si les étoiles sont éclairées afin que chacun puisse un jour retrouver la sienne. Regarde ma planète. Elle est juste au-dessus de nous… Mais comme elle est loin ! – Elle est belle, dit le serpent. Que viens-tu faire ici ? – J’ai des difficultés avec une fleur, dit le petit prince. Ah ! fit le serpent. Et ils se turent.(17章) 王子様は次のように言いました。「星たちが輝いているのは、みんながそれぞれ自分の星をいつか見つけられるようにするためなのかどうかを僕は考えているんだ。ねぇ、僕の星を見てみてよ。僕の星は、僕たちのちょうど真上にきている。でも、あの星(elle)は、なんて遠いんだろう。」 「その星(elle)、綺麗だね。でも、ここへは何をしに来たんだい?」ヘビは聞きました。 「ちょっと花とトラブルがあってね。」 王子様はそう言いました。 「あぁ!」とヘビは言いました。 それからふたりは、黙りました。
『星の王子さま』の出版部数は日本だけで600万部、全世界では8000万部にのぼる。Le Petit Princeというフランス語に対する「星の王子さま」という訳語は内藤濯の1953年の岩波書店版の翻訳における発明だ(野崎歓訳だと『ちいさな王子』になっている。ただ、アプリヴォワゼすると定冠詞になるという構造を考えると、この原題に定冠詞が付いているのは、何かしらの深い意味があるのではと考えることもできる。つまり、王子様と飛行士との間にうまれた絆をこの定冠詞が表しているのではという可能性がある。)。
Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est très simple: on ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.(21) 永遠にお別れだな。最後に、これが俺の秘密さ。とてもシンプルなんだ。心で見たときしか、よく見えない。大切なものは、目に見えないんだ。
↑ここが、英訳だとどうなるかというと、It is only with the heart that one can see rightly.というように、強調構文になってしまって、on ne voit bien qu'avec le cœur.というフランス語の8単語が、英語だと11単語になってしまっているからだ。しかも理屈っぽい。フランス語のシンプルさがない。
他にも致命的な翻訳による欠陥がある。それは、une fleur とla fleur の決定的な違いが出せないという点だ。ここは『星の王子さま』という作品にとって本当に致命的である。なぜなら、この作品のタイトルはle petit prince であって、定冠詞がついているからだ。つまり、実はこの作品中で、既に話者がアプリヴォワゼしている対象を表現するときには定冠詞が使われ、まだアプリヴォワゼされていない対象を表現するときには不定冠詞が使われているのである。次の箇所を参照してほしい。
Comme ses lèvres entr’ouvertes ébauchaient un demisourire je me dis encore : « Ce qui m’émeut si fort de ce petit prince endormi, c’est sa fidélité pour une fleur, c’est l’image d’une rose qui rayonne en lui comme la flamme d’une lampe, même quand il dort… » (24)