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愛と怒り
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『愛と怒り』に投稿された感想・評価

ティンプトンと言っているだけじゃダメだ!!!ティンプトン映画をみまくるのだ!!!

訳が分からない詭弁かもしれないが、割と真面目にそう思っているし、訳の分からなさは本作の監督のほうがそうなので開き直っている。本作はイタリア・フランス合作映画で、5人の監督のオムニバス作品となっている。監督はカルロ・リッツァーニ、ベルナルド・ベルトルッチ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ジャン=リュック・ゴダール、マルコ・ベロッキオと錚々たる顔ぶれ。しかし本当に意味が分からない(好き)。でもかなり勇気をもらえる。大好きな『ドリーマーズ』をつくったベルトルッチなんて完全にいかれていて嬉しいし、面白い。そして5人の監督の尖りをみていると、まだまだできることがたくさんあると思える。

本当に無力感に苛まれてはダメなんです。政治や社会に無垢ではダメなんです。そうでなければ神に殺されてしまうんです。

以下、各話ごとにレビューする。ネタバレを含みます。

第1話「無関心」監督:カルロ・リッツァーニ

今では使い古されている劇と記録の混交ではあるが、この時代にやっているんだから凄いとしか思えない。しかも今よりかなり生々しいし、政治的だ。テレビから流れる野球中継の声と団地近くの道ばたで女性が襲われていることをクロスさせようなんて普通は考えないし、道ばたに転がる半裸のホームレスは何度も映し出され現実の窮状を訴えている。

そしてなんといっても交通事故を起こして血まみれになった女性を助けるシークエンスである。この出来事は「善きソマリア人のたとえ」の反転であることは、遠山純生さんの作品解説で知った。その反転の不条理さは現実にもまた反映されている気もするし、彼女を助けた青年が実は指名手配犯であり、病院に送るも警察から逃走して街に溶け込むことは、その後の展開のなさといい、セリフの皆無さといい劇物語が街の記録風景に放擲された印象を受ける。ここまで斬新にやるのはさすがだし、第1話から衝撃を受けた。

第2話「臨終」監督:ベルナルド・ベルトルッチ

死後の世界をこのように想像しているなんていかれているし、思い描いているのは地獄だ。でも、これを観たかどうかで映画観が大きく変わると思う。それぐらい衝撃的だった。

新興宗教の儀式で意識を完全にキメている彼らは、60年代後半にイタリアで前衛演劇で人気を博したリヴィング・シアターのメンバーであることは同じく遠山純生さんの作品解説で知ったが、臨終を迎える老人を演じたジュリアン・ベックも凄まじい存在感だ。彼らに担ぎ出され、曝されるジュリアン・ベックの臀部は、美しいとは言い難いが、剥き出しの身体、生の有り様を呈している気がする。

キリスト教的儀式を反故にして、唯の死よりもっと惨いものを描くベルトリッチ。その後に『ラストエンペラー』を発表するのは宗教観的には分かるが、あんな大作の前に本作があるなんてことは絶対に分からない。

第3話「造花の情景」監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ

多分、リチェットは幸せな人物なんだと思う。真っ昼間に道ばたをるんるんと歩き、街ゆく人に声をかける。煙草をふかして、女性にキスを求める。造花を手に入れたら喜び、電柱を一回転。あまりにも無垢で無邪気な存在。だから罪深いし、神に殺されても仕方がないと思う。

リチェットのお散歩にオーバーラップされるイメージがある。それは戦争や虐殺、チェ・ゲバラ、学生運動などの記録映像である。克明に記録される現実の惨状、暴力、死。それならリチェットのように現実を知覚せずに無邪気でいるのはダメだし、無邪気であろうとするのなら現実を直視していないのと同義である。

では私たちは散歩することも許されない?そんなわけはないし、その応答がゴダールとベロッキオの物語なのだと思う。

第4話「放蕩息子たちの出発と帰還(愛)」監督:ジャン=リュック・ゴダール

カミソリ跡が分かるほどに人物にクローズ・アップしないと何も語れないことに気づいてしまった。

本作はこれまた使い古されている、というかゴダールも使用したから無限に模倣され続ける映画内映画である。サングラスをかけて映画そのものに言及する彼はゴダールの化身のような気もするが、彼が立ち会う「真の」映画では愛が語られる。

マルクス主義に傾倒し革命を志向するアラブ系の男性と、西洋の民主主義をよしとするユダヤ系の女性。彼らの婚姻が叶うのであれば幸せではあるのだろうけれど、その成就しがたさは現在のパレスチナをみれば明らかだ。しかも彼は労働者階級で、彼女はブルジョワ。始めから破綻しているのである。

「真の」映画では愛が語られているのに、愛の成就は存在しない。このことは劇中、彼≒ゴダールが言う「映画そのものはまだ存在しない」と共振する気がしてならない。

第5話「議論しよう、議論しよう」監督:マルコ・ベロッキオ

こんなにリベラリズムと共産主義の一致しがたさや保守主義、権威主義との対立を、戯画として簡潔に描いているのが凄い。さらに、本作の議論の「おままごと」を50年経っても、何ら変えたり解決したり、いやその「おままごと」を「おままごと」とさえ理解したり受け入れることもできない現状に絶望するしかない。

「(…)あなたが文化と呼ぶものは ブルジョア的意識の塊よ」
「(…)ブルジョアが政治的暴力を非難する時 道徳的非難で恐怖を覆い隠す 
 “政治の話はしない”ってね」

さて、どうしたものか。議論をしたいと思うけれど、その先送りが現在なのだと思う。

以上、各話レビューしてきた。どの作品も野心的だし、68年当時の世界情勢が反映されているはずだから興味深い。しかも当時にアクチュアルに迫った作品にも関わらず、今みても見劣りしないし、むしろ現在への批判的な視座を有しているから驚くしかない。

そして悲嘆にくれるなら、訳の分からないものを世界に遺せ。
そう言われている気がするから、私もそのスタンスでありたいと思う。
河
4.6
実際どうなのかわからないけど、おそらく五月革命の終わりについてのオムニバスなんだろうと思う。マルコ・ベロッキオが直接的に五月革命渦中について、ゴダールの短編が五月革命もしくは愛の終わる瞬間について、ベルトリッチがより大きく愛のある世界の終わりについて、パゾリーニとカルロ・リッツァーニはそれ以降の愛の失われた世界についてなので、全体としてみれば五月革命を軸として作品が進むごとに時間が遡っていく形となっているように思う。五月革命=愛というわけではなく、愛、和解の可能性を信じられた最後が五月革命と言う方が近いのかもしれない。ゴダールの短編が最高に良く、『気狂いピエロ』の語り直しのようなものになっている。

カルロ・リッツァーニ『無関心』

逃げ回る女性、それを追いかける男達が動き回るのに対して、それを窓から他人のように眺める人々は全く動かない。事故に遭い助けを求める男は動けない、しかしその姿はダイナミックに捉えられる。それを無視して通り過ぎていく車は対比的に動き続けるが、逃げ回る女性の無軌道な動きとは違い、その動きは規則的なものとなっている。その二つが、規則的に歩いていく歩行者達共にモンタージュされる。規則的と無軌道的な動き、動的と静的が対比的に置かれる。助けを求める人々が動いている場合には周囲の人々は動かず、動かない場合は動き続ける。動かない人々は第三者的な視点、俯瞰的な視点から助けを求める人を他人事として長め、動く人々は主観的な視点にあるからこそ、助けを求める人々が視界に入らない。助けを求める人々がダイナミックに映されるのに対して、大衆の動きは規則的に映される。そして、画面から奥行きが消されることによって、飛行機、車、歩行者の行き交う町は異様な圧迫感を持ち、轟音が鳴り続ける。それによって大衆の規則的な動きが巨大な一つの重機のように感じられ、規則的であるのに調和していない、凄まじい摩擦が発生しているような感覚がある。
筋としては、事故に遭った男の元に現れた警察が、走行中の車を止めて病院に送ることを指示するが、その男は警察に追われる身であり、警察の誘導から離れ怪我人を乗せながらも逃げようとする。しかし、怪我した男の嘆願によって病院まで送り届け、そこで警察に捕まりそうになるが逃げ切り、冒頭に映された群衆の中に紛れ込むというもの。
男は群衆の一部であり、群衆からランダムにピックアップされた存在、つまり群衆を代表する存在となっていて、その男は何かしらの罪を犯している。冒頭のレイプの犯人なのかもしれない。一方で、捕まるリスクを犯しながら怪我人を病院に送るというギリギリの良心をも持っている。そして、男は警察の指示を逸脱することによって初めて群衆の一部ではなく犯罪者として監視機関から認識される。いわば、群衆の一部として動いていれば、つまり助けを求める人々に応じなければ犯罪者として認識されることも、捕まることもない。事実、男は群衆の一部となることによって逃げ切る。
群衆は何かしらの加害者であり、しかし群として動くことで犯罪者とは認識されない。そして、助けに応じることは群衆から個人となる行為であり、監視機関によって犯罪者として認識されるリスクを持つ、だから助けようとしない。そしてそれら群衆は調和せず摩擦を生みながら動作しているため、常にどこかの部分で歪みが発生し続けている、群衆の一部である誰かが事故、犯罪に遭っているということなんだと感じた。

ベルナルド・ベルトリッチ『臨終』

病床にある男が死ぬまでを映した作品。男=社会としてみれば、社会が死にゆく過程が映された作品となる。ここで社会は西洋社会にも、より広くグローバルな社会にも取れる。その男の中には多くの属性の異なる人間が住んでいて、初めは全員で一つの儀式を行なっている。そのうちの一人がキリストの「いちじくの喩え」を読み上げる。いわばその男がキリストであり、その男は異教徒だろう人々を実らないいちじくの木として殺していき、カトリック社会に至る。その後、人々が自分の願いを社会=病床にある男に伝えていく、しかしその願いは叶えられずそれら人々は互いに殺し合う。殺し合いを最後まで生き残ったキリストはその社会=病床にある男によって殺される。そして、社会のうちの全ての人が死んだことになる。それは社会=病床の男の死でもある。そして、それら人々の声は社会の外に聞かれないまま男と共に消えていく。
単純に病床にいる男をそのまま個人だと考えれば、男がこれまでに触れてきた他者の声と共に死んでいくような話に感じられる。男は何かしらのカルト的な宗教の長であり、その宗教はカトリックに転向した男によって崩壊させられ、その後構成員の願いを叶えられないまま内部崩壊に至る。これが構成員ではなく男が過去に触れてきた死者や殺してきた人々を比喩的に描いていると考えてもいいのかもしれない。しかし、男はそれら声を外に発せられない死者達の声を、自分の周囲に伝えていくということはしない。つまり、それら死者を自分の中で殺す。それによって、男もまた死んでいき、彼らの声は聞かれないまま男と共に消える。
呪術的な調和に始まり、死者達の苦しみが人々の発する声、異音、それに合わせた舞いによって不協和音のように表現される。何かが死にゆく過程、その断末魔を捉えた短編として凄まじい完成度の作品。

ピエール・パオロ・パゾリーニ『造花の情景』

ニネット・ダヴォリ演じる青年が無邪気にスキップして人々と交流するその街の姿に、戦時中の映像、人々の犠牲になる姿や権力が確立する瞬間が重ねられる。その少年に対して、天上の人々(戦争による死者達、もしくは神)が語りかける。天上の人々はベルトリッチの作品と同じくイチジクの喩えを持ち出す。ここで、イチジクの実は知恵と意志のことだと語られ、その二つを行使することが天上の人々によって求められる。しかし、青年はそれらの声を聞こうとしない、もしくは聞こえてすらいない。青年含めた街の人々は無垢であり、そのために知恵も意志も行使しない。彼らは実らないイチジクの木であり、街に溢れるのは造花である。彼らに街に存在する過去の声は聞かれない。

ジャン=リュック・ゴダール『放蕩息子たちの出発と帰還』

『気狂いピエロ』のラストに繋がる、一瞬と永遠についての短編。劇中では「放蕩息子たちの出発と帰還」というタイトルのゴダールによる作品が撮られており、その映画の生成過程と、それを見るフランス人とイタリア人男女についての話となっている。
「放蕩息子たちの出発と帰還」は革命主義者のアラブ人と、民主主義者のユダヤ人という、本来重ならない二人の恋人の愛について、いわば重なることのない二つの和解が持続する間を撮った映画となっている。それを見る男女によって、この映画は二人が愛し合い続ける限り永遠に続き、別れれば終わると話される。男女は、永遠に続くか有限なものとして終わるかわからない映画の生成過程に立ち会っている。そして恋人達は、男がキューバ革命に向かうために別れる。それによって映画の生成は終わり、一つの作品として完成する。『気狂いピエロ』はアンナ・カリーナとゴダールの関係性が終わったからこそ完成した映画であり、五月革命の終わりによってゴダールの60年代の連続的な映画の生成は終わり、政治的な映画へと舵を切るようになる。
繰り返される「時間は永遠にある/ない」という言葉は、この和解の時間についてであり、それは有限的なもの、いつか終わるものである。しかし、「(個別的で一瞬である)人生に(普遍的であり永遠)である寓話が入り込む」ように、その一瞬は永遠にもなり得る。和解という行為はそれ単体で見れば個別的なものであるが、歴史上普遍的に行われてきたものでもある。
それは映画に置き換えれば、ムルナウやドライヤーの映画にある、映画の光る瞬間、一瞬であるのに永遠であるような瞬間である。そして、この映画には直接的に光のショット、映画が比喩的ではなく物理的に光るショットが差し込まれる。ゴダールは異なるもの同士が愛し合った一瞬を、作り物の映画の光によって永遠に変えようとする。それが作り物であるのは、引用によって何かの紛い物のような映画を作ってきたゴダール自身への言及いうよりは、今、社会も映画も作り物としてしかその光を生み出すことができなくなっている、永遠を作り出すことができなくなっているということなんだろうと思う。

マルコ・ベロッキオ『議論しよう、議論しよう』

五月革命の時なんで大学でデモしてたんだろうっていう疑問が解消される短編。脚本が非常に良くできていてさらにわかりやすいけど、他が良すぎるので霞む。
大学に通う9割はブルジョワ支配階級であり、支配階級が全体に占める割合は1割でしかない。その卒業率が9割なのに対して、それ以外の階級の卒業率は1割。その大学の講義中に共産主義を望む人々が参加する。大学は教育によって支配階級による秩序を維持する機関であり、教育された生徒達は革命に反対する。教授はナチスによって弾圧された経験を持つ。そこに権威である学長が入り込み、資本主義の中で共産主義を実現する方法を語る。しかし、資本主義下では、共産主義の大学、政党もまた権威的な構造へと変化してしまう。短編の前半では、革命運動の人々が暴力的な存在であるが、最後には権威側の秩序を維持する機構として警察が乱入する。警察は運動家達を整列させ、反抗しない運動家達を殴り続ける。その音はエンドロールが始まってもなり続ける。タイトルにある「議論」は行われず、互いに糾弾しあったまま制圧される。
そもそもこの短編は若者達によって演じられている。運動が秩序によって制圧されている、議論が果たされないことのは何故かをその運動の当事者達がこの短編を通じて訴えている、もしくは議論できなかった理由を内省しているような作品。
mrhs
3.5
ユーロスペースで鑑賞。

実は渋谷のTSUTAYAでVHSが借りられるはずなのだが(以前はゴダールのコーナーにあった記憶が)、自宅でVHSで観ても途中で挫折してしまいそうな青臭い前衛性はかえって貴重。各監督20分前後だから耐えられる実験(実験映画とはまた違う感じ)だが、ゴダールは大体いつもこんなノリ。BGMのブツ切りはこういうオムニバスでも異様に聞こえる。

そしてベロッキオ、なんかメチャクチャ恥ずかしい作品だけど、この恥ずかしさを潜り抜けて『夜よ、こんにちは』があるのかと思うと感慨深い。『中国は近い』の本邦初上映が望まれる。パゾリーニの次はベロッキオ特集を!

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