中華街には日本で最大規模の中国人コミュニティーがある。その歴史は160年前にまで遡り、彼らは団結することで街を発展させ、日本社会で独自の地位を築いた。しかし、その道のりは平坦なものではなかった。1952年、横浜中華学校で毛沢東を支持する教育が行われているとして、教師が学校から追放されるという事件が起きた。この「学校事件」の結果、横浜中華街は大陸系と台湾系に学校と華僑総会が分裂。長きにわたり対立が続いた。日中台の政治に翻弄されてきた華僑の苦難と葛藤の歴史。そして、共生の時代を歩む現在。映画は横浜中華街の観光地ではない知られざる一面を映していく。華僑四世の林隆太(37)は十五才の時に父・学文が中国人だと初めて知った。しかし、中国嫌いだった隆太は家族の中の「中国」を避けるように生きてきた。それから十年以上経ったある日、一枚の写真に出会う。「台湾解放」というスローガンを声にし、横浜中華街を練り歩く紅衛兵の写真。そこには若かりし日の学文の姿があった。日本人として育った隆太は、なぜ同じ日本で暮らす中国人同士で対立するのか理解できなかった。「台湾は中国の一部。毛沢東は親父のようなもん」と言う学文。中国籍のまま晩年を迎え、認知症になった祖母・愛玉。ずっと避けてきた家族の過去に触れたことをきっかけに、隆太は家族が過ごした横浜中華街と向き合う決心をする。中国・華僑のことを何も知らない隆太は、家族や父の友人・知人に出会いながら、時代に翻弄された華僑の複雑な想いに気づいていく。
沖縄石垣島の台湾移民の歴史は、1930年代、日本統治時代の台湾から約60世帯の農家が移り住んだことに始まる。その中に、玉木家の人々もいた。2015年春、88歳になる玉代おばあは、娘や孫たち…
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