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ムクドリと人生とレモンパスタの作品紹介

ムクドリと人生とレモンパスタのあらすじ

恋人との些細な口論の末、突然ひとりになった高校教師マルタ。がらんとした部屋で、食べ物の味も、光の色も、世界の輪郭さえも失われていく。そんな彼女が始めたのは──三つのボウルに食材を丁寧に盛り付ける、奇妙で静かな“儀式”。K-POPスターの等身大パネルとの対話、キッチンの光に気づく瞬間、ローマの街を自転車で駆ける時間。小さな行為の積み重ねが、やがて彼女を再び世界へとつなぎ直していくー。

ムクドリと人生とレモンパスタの監督

イザベル・コイシェ

原題
Tre ciotole/Three Goodbyes
公式サイト
https://child-film.com/films/treciotole
製作年
2025年
製作国・地域
イタリア、スペイン
上映時間
122分
ジャンル
ドラマ
配給会社
チャイルド・フィルム

『ムクドリと人生とレモンパスタ』に投稿された感想・評価

26-52。オンライン試写。落涙。歳をとったのかもしれないが、それだけじゃない。

ミケーラ・ムルジャの最後の小説『Tre ciotole. Rituali per un anno di crisi(3つのボール —— 危機の一年のための儀礼の数々)」のみごとなアダプテーション。

ミケーラ・ムルジャはずっと気になる存在だった。その最後の小説は、余命宣告を受けたムルジャ自身が最後を迎える直前に発表したもので、フィクションと自伝的が半ばする作品といえるのだろう。

余命を告げられた主人公が登場する作品といわれたら、ぼくは少し身構えてしまう。大筋が予想できそうだということもあるけれど、なんだろう、ある種の「感動商売(ポルノ)」を感じてしまうからだ。

「ポルノ」というのは、ギリシャ語でπόρνη (pórnē)「娼婦」なのだけど、語源はπέρνημι(pérnēmi)「売る」という動詞に遡り、その受け身で「売られたもの」ということだという。だから「苦しんでいるもの・死んでゆくもの」を商売にしてしまうのが「感動ポルノ」なのだろう。

ところが、とんでもない。イザベル・コイシェの作品はそんな予想を超える出来栄えなのだ。おそらく、ぼくがまだ読みきれていない小説もまた、予想を超えるものが記されているのだと思う。原語で読むと時間がかかるから、誰か上手い日本語に訳してくれないかな。出版社探しが難航しているというけれど、この小説はきっと、そして映画もまた、ぼくたちがいつか直面するはずの危機を前にして、何ができるかを、いくつかの小さな儀礼を通して、じつに清々しく描いてくれている(はずなのだ)。

小さな儀礼のひとつが、イタリア語でバルツェレッタと呼ばれる短い笑い話。寝る前に話して聞かせてもらう儀礼として登場するのだけれども、それが中断するところに危機が訪れ、物語が転がりはじめる。その小話は、マルクスをめぐるよく知られたもの。それが宙吊りにされて始まった物語は、エンドクレジットがかかるときに、ぼくたちはどんなものだったか耳にすることになる。そしてぼくたちは、それまで繰り返されてきた小話が、危機をやりすごす儀礼としていかに意味深く、大切なものかを、胸に刻むことになるわけだ。

その小話は、原作小説の作者のひととなりを浮き彫りにしてくれるものでもある。笑いのなかでマルクスの宗教批判がネタになっているのだけれど、それは単なる無神論ではなく、ミケーレ・ムルジャという人の信仰のありかをもさし示しているように聞こえる。ムルジャといえば、アンチ・ファシストであり、LGBTQ+ の権利や安楽死の問題をめぐる政治的な言動で知られるのだけれど、彼女はぴったり形容するのはクイア・カトリックという表現なのかもしれない。制度としてのカトリックには批判的だが、信仰としては常にカトリックだったという。

そうミケーラ・ムルジャは心底からカトリックなのだ。カトリック教育を受け、学校で教師をしていたころは宗教科を担当し、名前が知られるようになってからも、とりわけの最後の年月には宗教者との対話を続けていたのだという。

だからこそ、2023年8月12日のローマのポポロ広場にあるサンタ・マリア・イン・モンテサント教会の葬儀では、宗教的な対話を重ねてきたマッテオ・ズッピ枢機卿からの私信が読み上げられたのだろう。

ズッピ枢機卿は2023年5月にフランチェスコ教皇からウクライナ紛争終結に向けた和平ミッションの担当者に任命された人。彼がムルジャに宛てた手紙には、そんな枢機卿自身に向けての彼女の言葉が引用されている。

「わたしは(ステージ4の癌を告知された)微妙な日々にもずっと、枢機卿さまのことを考えていました。わたしは、あなたの平和の使命のために祈り、困難な時に人命を救うあらゆる道を探ろうとされていることに感謝するのです。私の祈りは、枢機卿さまと、今夜も避難所で子どもたちと恐怖に怯える人々のためのものです。どうか、枢機卿さま、あなたにできる最善を尽くしてくださいますように」。

日本語で収まりがよいので「枢機卿さま」と訳したけれど、原文では親称の tu が使われている。それだけ親しく話しかけていたのだろう。

枢機卿の手紙は、そんなムルジャの言葉に続けて、病気になってから体調はどうかと聞かれたときの彼女の返事が引用されている。彼女はこう答えたという。

「生活の質は高いですし、痛みもありません。それに愛されているのです。ですから、あとはネズミの仕事ですね。毎日を一日ずつ齧(かじ)ってゆくだけなのです」

なんとう表現だろう。末期癌により残それた日々を、「毎日を1日また1日とかじってゆく(rosicchiare ogni giorno un giorno in più)」というのだ。小さなことでも難しい。その難しさにも負けず、その硬い歯でガリガリと砕いてゆくというのだが、なんという悲しい決意に満ちたユーモアなのだろうか。

彼女の最後の小説『Tre ciotole』は、そんな「ネズミの仕事」にまっとうな表現を与えたものなのだ。イタリア語のチョートラ Ciotola とは丸い器のことで、「ボール」とも訳されることがある。けれど小説を読めばチョートラは日本のものだというから「お椀」とでも訳すべきなのだろう。それは、あるいは禅宗の修行僧が使う「応量器(おうりょうき)」を連想させる。そんな箇所を、小説から訳出しておこう。

「三つのお椀は、胃と頭の間のあらゆる序列を整えてくれた。食べ物は、そのうちの一つだけから取ってもいいし、三つ全部から取ってもよい。決まった順番などなかった。一気に空にしてもいいし、好きな時間に少しずつ食べ進めてもいい。ただ一日の終わりには三つとも空になっていること、それだけが条件だった。なぜならそこに入っているのは、必要最小限のものだったから」(Michela Murgia, Il senso della nausea, in Tre ciotole)

その小さな決まり事をムルジャは「儀式 rituale」と呼ぶ。じっさい小説の副題は「Rituali per un anno di crisi (危機の一年のためのいくつかの儀式)」だ。そして、小説を構成する12章は1年を12の月に分けたようにできている。それは、彼女の「ネズミの仕事 il lavoro del sorcio」という表現を思い起こさせる。

映画の脚本家たちは、この「儀式のかずかず」あるいは「ネズミの仕事」をひとつひとつ一本の糸で紡いでゆく。その糸が、アルバ・ロルバルケルの演じた主人公の名前マルタだ。小説では主人公に名前はない。ところが映画ではマルタと呼ばれる。偶然だろうか。マルタという名前は、ズッピ枢機卿からの手紙のなかにも聖書の引用として認(したた)められているのだ。引用しよう...

「マルタとマリアが迎え入れ愛した師は、彼女たちの家のひとりとなりにきたのです。そしてその家が愛の輪となるようにしたのです。その輪は、すべての人を包みこみ、すべての人に価値を見出せるようにするものでした。イエスが彼女たちのもとを訪ねたのは、客人としてではありません。家族として、魂の兄弟としてやってきたのです。こうしてイエスは私たちに魂の絆というものを信じさせてくれました。そもそも私たちは血によって生まれたのではありません。霊(スピリト)によって生み出されたのです。それゆえ教会は神の家族です。それはまず神ご自身が創り出された愛の絆によって結ばれています。神は、私たちとの関係の中にあるご自分を思い描き、私たちがその絆を生きるようにお求めになったのです。だから私たちは、私たちの間にあり、隣人との間にあり、そして他者の間にある、その愛の絆を生きなければなりません。それは、誰との間にもあるものなのです。マルタとマリアはイエスに言います。「もしあなたがここにいてくださったら、あの人(兄弟のラザロ)は死ななかったでしょう」。するとイエスは、彼女たちと共に涙を流します。その死を前にして、私たちと共に涙を流してくださったのです」(https://www.centrobalducci.org/eventi-e-news/in-ricordo-di-michela-murgia/)


どうだろう。聖書のなかのマルタとは、キリストによって復活するラザロの姉妹の名前なのだ。マルタとその妹マリアは、兄のラザロの死を嘆くのだが、魂の兄弟となって家族の一員となったキリストもまた、共に涙を流したという逸話。それがミケーラ・ムルジャの葬儀の言葉の中に引かれているというわけだ。

そんな引用に続いて枢機卿は、生きているときは議論を交わしたムルジャが、すでに彼岸にわたってしまってはいても、きっとわかってくれるだろうと続ける。その部分を引用しておこう。

「ミケーラはその終わりにあって — それは彼女の始まりでもあるのですが― 彼女が全身全霊で探し求めていたものを完全に《理解する capirà 》のでしょうし、すべての答えを見出すのでしょう。もちろん議論も続けるはずです。けれどもそれは全き愛のなかで、何ひとつ留保なく、恐れもなくなされることでしょう。彼女はきっとイエスの教えを理解するはずです。私たちが何のためにこの世を生きるのかといえば、それは愛し合うためなのです。イデオロギーによってではなく、イエスの愛の掟のうちで、愛し合うべきなのです。そのためにはまず、最も小さき兄弟たちを愛し、貧しい人々を愛し、犠牲者を愛し、孤独な人々を愛することから始めなければなりません。そして彼女はきっと理解することでしょう。《それは絶え間ない、途切れることのない交わりとなるだろう》という(ムルジャ自分の)言葉が本当だということを。そして《まだ non ancora 》から《すでに già 》への移行を生きることになるのでしょう。安らかに。ミケーラ、私たちのために祈り続けてください」(Ibid.)

枢機卿が引用したミケーラ・ムルジャの言葉は、コリエーレ・デッラ・セーラ紙の最後のインタビューにも見出すことができる。

―あの世をどのように思い描いていますか?
「それは場所ではなく、ひとつの感情の状態だと思います。神とはなんらかの関係性のことなのです。わたしは死後の人生が、今とそれほど違うものだとは思いません。きっとここで生きているのとそれほど変わらない関係を生きることになるのではないでしょうか。この世のコムニオーネ la comunione (交わり)はとても強いものですが、あの世でのそれは、きっとどこか絶え間のないコムニオーネで、途切れることのないものになるのではないでしょうか」

―他者とのコムニオーネ(交わり)ですか、それとも神とのコムニオーネ(交わり)ですか?
「同じことです。それは《まだ non ancora 》から《すでに già》への移行になるでしょう」

―では、死は怖くないのですね?
「ええ。ただ願わくば、ジョルジャ・メローニが首相でなくなってから死にたいですね」

みごとなアンチ・ファシストぶりだけれども、注意すべきは「《まだ non ancora 》から《すでに già》への移行」という表現かもしれない。これは「神の国」をめぐる考え方なのだけれど、キリストの到来によって神の国は「すでに(già)」始まっているが、その完全な成就はまだ「訪れていない(non ancora)」とするもの。だから、彼岸にわたってしまえば、そこは神の国への移行が果たされているということになるのだろうか。

こうしてみると、クイア・カトリックと呼ばれたムルジャの、信心深く、論争的で、愛に溢れる宗教的な側面を浮き彫りになってくる。けれどもミケーラ・ムルジャというひとはそれだけではない。むしろ、よく知られた K-ポップ好きで政治的で激しくユーモアに溢れる人となりについては、友人のキアラ・ヴァレーリオによる追悼演説が伝えてくれる。それがこれだ。

https://www.youtube.com/watch?v=cJA5ngdynyk

ぼくはむかし、この演説には心うたれたので、むかしブログに訳出しておいた。ご笑覧。

https://note.com/sngnr88/n/n017333494644?app_launch=false
ヨラ
3.5
主人公にぎりぎり共感できないけど、ヌーヴェルバーグみたいな瑞々しさがあってよかった。ローマの街並みよすぎる。再会シーンの後ろで鏡もって運んでるとか一見へんな演出がちょこちょこあっておもしろいし、元体操選手とかほぼ語られないけど語るべきものがありそうな設定もおもしろい。川べりでだきあうシーンはぐっときた。世の中にはもうもとにはもどれないことがある。エンドロールの小咄よかったです
イザベル・コイシェ監督作品。ミケーラ・ムルジャの遺作が原作。ステージ4の末期癌で51歳で亡くなる著者の半自伝的短編小説。『死ぬまでにしたい10のこと』でも末期癌を取り上げていたが、両作とも暗くない。人生の見つめ方、再出発を取り上げている。
高校教師のマルタと、シェフのアントニオは、7年目にして些細なことから別れを迎える。教育者と料理人。マルタの友人は舞台女優。人生を演じている。そしてマルタはK-POPのアイドルの等身大パネルを抱え、クローゼットに収納している。一方通行の思い入れ。彼女は、スーパーの景品で貰った3つのボウルに食材を盛り付ける「儀式」により、日常を維持している。「食」のエピソード。レストランの客を見て、「あの人、コロッケの衣を剥いで食べている」。「衣がおいしいのにね」という会話。そして簡単な料理としてレモンパスタを教わる。どれも人生の警句のようだ。
ステージ4まで進んでいた病。薬の効果も限界。「アメーバは病気にならないが、自分の存在すら知らない」。そして「人生に理由を求めても意味はない」と悟る。アントニオに小噺を求める冒頭。彼の小噺のラスト。重く、哀しいはずなのに、至福感に包まれたエンディング。暗喩とキーワードに彩られているのに、意味を求めるなと言いたいのか。