1953年、エベレストへの登頂は、地球上で偉大なる挑戦として、まだ達成されずにいた。 各国がエベレスト登場を目指していたが、陸軍大佐ジョン・ハント率いるイギリス遠征隊も史上初の快挙を狙っていた。イギリス最高の登山家10人とエドモンド・ヒラリーともう1名のニュージーランド人の登山家2名、そして荷物運び362名という遠征隊は、本国の希望と夢を背負って人類未踏の標高8,843メートルに挑んだ。ヒラリーは、登頂アタック隊に選ばれたい一心で、誰よりも役立つことをハントにアピールする。エベレスト登頂が人生を考えているシェルパのリーダーであるテンジン・ノルゲイとともに、積極的に仕事をこなし登頂アタック隊にふさわしいとアピールした。しかし、ハントは第一次アタック隊は別のイギリス人登山家を選び、第2アタック隊として選ばれたのだった。第一次アタック隊2人は南峰のもおり、頂点の屋根も見えたが、登り続ける体力と酸素がなく、敢え無く目前で登頂を断念。ヒラリーたちにその名誉が託された。酸素ボンベの残りが少なくなる中、人類未踏の8,500メートルに達した時、雪質と雪崩の可能性を予感するが、恐怖に打ち勝ち登り続けることを決意する。あと何時間酸素が持つかもわからない状況下で、テンジンの歩みが急に遅くなる。なんと酸素マスクが氷柱で覆われていたのだ。そんな困難を乗り越え、ついに標高8,800メートルに達した時、二人の前には稜線をふさぐほぼ垂直の岸壁が現れたのだった!「ここはエベレストだ。限界を越えても行け」と自分に言い聞かせ、ヒラリーはその岸壁を最後の力を振り絞って登ることを決意するのだが・・・。
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