戦後75年目の残留。生き別れた者が伝える、日本という国の今。「私を日本人と認めてほしい!」-フィリピン残留日本人 。「私は日本人。でも言葉がわからないの!」-中国残留孤児。太平洋戦争以前、…
>>続きを読むカンボジアの首都プノンペン。女子大生のソポンが廃墟のような映画館で見た古い恋愛映画。何とその主演女優は母だった!美しく輝いていた母の知られざる女優時代…。40年間も母を慕い続けている映画館…
>>続きを読むノーベル平和賞候補になり、朝日賞や埼玉県民栄誉賞などを受賞した水墨画で風景画家の丸木位里(1901‐1995)と人間画家の丸木俊(1912‐2000)夫妻は、「日本人側から見た記憶を残して…
>>続きを読む男は、ガジュマルをこよなく愛した。「どんな嵐にも倒れない。沖縄の生き方そのもの」だと。那覇市を、かつてたった11ヶ月だけ率いた、その男が好んで使った言葉がある。それは「不屈」。 1945…
>>続きを読む今までマスコミなどで被爆体験を話したことがない被爆者の方々の新たな証言※1をドキュメンタリー映画化。今までも多くのアーカイブが残され、もう語ることができる体験者はいないだろうと言われて久し…
>>続きを読むすでに日本の敗色濃厚だった1945年1月31日、一人の男が沖縄の地を踏んだ。戦中最後の沖縄県知事となった島田叡(しまだ・あきら)である。 沖縄戦を生き延びた住民とその遺族への取材を通じ、こ…
>>続きを読む枯葉剤の後遺症で亡くなった祖父は自らを「参戦勇士」だと称したが、戦争については何も語らな かった。韓国はベトナム戦争の特需で豊かさを手にした。 私は沈黙の世界を知るために旅をし、思考し、そ…
>>続きを読む1989年から沖縄戦に連行された朝鮮人「慰安婦」と軍属の実相を追い、『アリランのうたーオキナワからの証言』(91年)で「慰安婦」問題を提起した在日朝鮮人2世の朴壽南は、90年代、立ち上がっ…
>>続きを読む