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Nouvelle Vague(原題)
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『Nouvelle Vague(原題)』に投稿された感想・評価

2025カンヌ公式コンペティション上映にて鑑賞。

公式のログラインによれば、
「これは、『勝手にしやがれ』のスタイルとスピリットによって語られる、ゴダールが『勝手にしやがれ』をつくる物語である」
とのこと。


ヌーベルバーグの象徴として神格化される前のゴダールあらためジャン=リュック。25歳。
映画批評の究極の文体は、映画を撮ることだといってのけるジャン=リュック。
トリュフォーが『大人は判ってくれない』でカンヌの監督賞を、シャブロルが『いとこ同志』でベルリンの金熊賞を受賞したとき、短編映画を一本撮ったのみでキャリアが遅れていたジャン=リュック。
批評以外にろくなキャリアもないのに、プロデューサーから頼まれた脚本を途中で放棄してしまうジャン=リュック。
長編を監督する前から、膨大な知識と反骨心、独自の映画論で脳みそを埋めつくしたジャン=リュック。
映画としての定型を求めるプロデューサーに反発し、自らの首を絞め続けるジャン=リュック。
ラウル・クタールのカメラを覗こうとせず、スタッフを困惑させるジャン=リュック。
盟友ベルモンドにはなぜかやたらと信頼されているジャン=リュック。
一緒にスパーリングに興じるジャン=リュック。
セバーグやスタッフの前では一丁前に格好つけるが、内心は不安に駆られ、偉大な先輩であるメルヴィルやロッセリーニにアドバイスを請わずにはいられないジャン=リュック。
反面、小さなプライドを守るために、助監督の提案はハネがちなジャン=リュック。
テイクは重ねないジャン=リュック。
セバーグには最後まで好かれていないジャン=リュック。
今日はアイデアが尽きたと言って、開始2時間で撮影を終わらせるジャン=リュック。
ジャン=リュック、ジャン=リュック、そしてゴダール。


自分はゴダールの、あるいはリンクレイターの、熱心なファンではないけれど、よくある安直なゴダールの形態模写 (キャラクターの唐突なメタ的語り、カメラの境界侵犯、ジャンプカット等々) のみに陥ることなく、初期ヌーベルバーグの (特にゴダールの) スタイルを軽やかに現代に再現できていたのではないかと思う。(もちろんそれは表面上のルックの話で、リンクレイターは執念じみたリハを繰り返すタイプらしいので、実際の撮影手法はかけ離れたものだろうが。)
というか、本作を通して改めて、ヌーベルバーグのスタイルや精神が常に新しく、普遍的で、ただの局所的かつ偶発的な過去の前衛運動として片付けられるものでは決してないということを再発見できた。そのきわだってユニークな現場には、今でも…いや、今こそ、たびたび立ち返るべきなのではないかとさえ思わされる。
言ってしまえばヌーベルバーグとは、すべてのアマチュア創作に対する提言であり、ラディカルな哲学の実践なのだと思う。当時としてはそれは、スタジオ映画が長らく引いてきたプロとアマの境界線に楔を打つ、民主的な映画の解放運動であった。あるいは、半世紀以上の歴史を経て停滞と閉塞を迎えつつあった古典映画文体へのアバンゲールな挑戦でもあったろう。本作を見れば明らかなように、ヌーベルバーグはその最初期から、挑発的で転覆的な政治的アティチュードを内包していた。
しかもそれは、彼らが崇めた先人たちの功績や導きがあったにせよ、まだ年端もいかない若者たちの日常的な交流、交雑、お喋りと遊びの中から生まれた。その実践は、あらゆるストリートを現場に変え、通行人をエキストラと見なし、友人のアパートを生きたセットに変貌させた。プロフェッショナルな脚本とリハーサルをつうじて育まれる演技の再現性よりも、一度限りの即興が愛され、映画のナラティブは、単なるストーリーを伝える以上のものになった。映画は、絵画や音楽、小説など、先の時代に生まれたあらゆる文芸に代わる最先端のアートフォームとして安住していた時代を抜け、映画とはいったい何者なのか、その定義を自らに問い始めた。その自己言及的かつ回帰的な批評精神は、今日こそすべての映画、もしくは映画作家 (であると自負するもの) が立ち返るべき根拠地である気がする。

カンヌでのプレミア上映後の早足のレビューはそのほとんどが、本作はリンクレイターからヌーベルバーグひいてはフランス映画へのラブレターであると解釈している。
とはいえ多分リンクレイターは、心の底からゴダールやヌーベルバーグを崇拝しているタイプではないだろう。本作のつくりも、ゴダールの伝記映画というよりは、初期ヌーベルバーグ風にヌーベルバーグを解釈したコメディの色が強い。早い話、ゴダールとヌーベルバーグをかなりイジっているのである。特に、ゴダールが後々インタビューや作品の中で語っている発言の数々を、結構無作法に引用しまくる構成や、その神性を大胆にはぎ取るようなキャラクター造形には、否定的な意見もあるに違いない。しかし、少なくともひとつだけ言えることは、カンヌ映画祭のグランド・シアター・リュミエールは上映中終始笑いにあふれていた。そして個人的には、それで充分なんじゃないかとも思う。
『勝手にしやがれ』で瞬く間にその才覚を世に知られ、後にヌーベルバーグの象徴的存在となったゴダールの若き日の冒険を、うやうやしく描こうと思えばいくらでもできるだろう。しかし、そうした大真面目で仰々しいコンサバ的態度を、軽やかに嘲り、逃げ去り、遊びの場に変えてしまう実践こそが、『勝手にしやがれ』の本質的なスピリットだったのではないだろうか。
ヌーベルバーグという現象、そのスタイル、スピリットを現在の視点から見直したとき、歴史的意義なんていう堅苦しい言葉よりも、端的に「面白さ」が勝る。リンクレイターも多分その立場。ただ純粋に面白がっている。そこには映画作家としての、表面的なリスペクトとはまったく異なる類の、親愛の情と愛が見え隠れする。

そうして映画は、その大部分を『勝手にしやがれ』の撮影シーンに捧げ、クランクアップからその後はあっさりしたものであった。
ふつうに考えたら、『勝手にしやがれ』が封切られ、ゴダールがヌーベルバーグの中心人物として一躍時の人になるまでをクライマックスに持ってくるのが定石だろうが、そうではなくて、なんともパーソナルで一見中途半端な、だからこそ洒脱なシチュエーションと会話をもってこの映画は終わりを迎える。
つまりは、そういうことなのだ。
たまたま本作には、カンヌ映画祭という権威的な舞台でのプレミアが用意されたが、作品に内在する精神は、もっとパーソナルかつアンチ・エスタブリッシュメントなものなのだと思う。

なので、正直これがコンペに入るような作品かと言われればよくわからないけれど、軽妙なフレンチコメディとして楽しむなら素晴らしい一本となりうる。
日本での興行は苦労すると思いつつ、リンクレイターだし一応公開はするのかな。でもカンヌの場で見られてよかったと思える作品ではあった。

そして私は、若き日のゴダールは逆立ちが得意だったという、真偽の曖昧な、たとえ真だったとしても特に役立つ場面のなさそうな豆知識を得て、カンヌからの帰路についた。