彼が帰郷するのは、罪滅ぼしのために村の伝統的なダンスを踊り続けて自死するためなのだが、それまでの過程がかなりつらい。幼い頃から彼は奉公として家族から引き離されて先住民としてや家族とのアイデンティティーが形成されず大人になり、大人になって家族や村のために「軍人」になったとしたら、村の共同性を破壊する者として忌避される。さらに内務省に勤めてまともな職に就いたと思いきや、「共産主義者」というレッテルを貼って政府に不都合な人物を弾圧する汚職に加担することになる。それが嫌で酒浸りになってしまう。だが父の死をきっかけに村に帰り、都市での経験を生かして村長になり、妻を「もらう」まで出世する。しかし村長候補から妬まれ、さらに村のためと思った汚職ーそれも都市人からの唆しで彼の意志ではないーはバレて村から追放される。そこからの帰郷なのだ。このように彼の先住民としてのアイデンティティーは単なる西洋的価値観やアメリカとの対立ではなく、同じ先住民や「都市化」した人々とも葛藤したり抑圧されたりすることで形成されていくのがよく分かる。 印象的なのは彼の汚職がバレたときの村や村人の処罰の仕方だ。その帰結だけをみれば、彼は半裸にされて村人に罵声を浴びせられ、見世物にされた上で追放されるから極めて「野蛮」にみえるかもしれない。しかしその前に、彼の不正は「支援物資の不足」という客観的証拠によって事実性を確認され、その処罰も村人の合議によって決定されているのだ。そこにジェンダーの問題があることは留意しつつも、西洋を起源とし、西洋の独自的価値観とされている民主主義はすでに村にあるのだ。もちろん上述のように本作はドキュメンタリー作品ではないから一般的に言われる事実性はないかもしれない。けれど物語として十分あり得るし、理解できるといった「確からしさ」によって事実性は担保されていると思う。このようにボリビアのある村において民主主義がすでにあることを1989年時点で描写したのはとても凄い。なぜなら人類学者のデヴィット・グレーバーが、後に『民主主義の非西洋起源について』として出版されることになる論文「There was a West」を発表したのが2006年なのであまりにも早いからだ。