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アロンサンファン/気高い兄弟
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『アロンサンファン/気高い兄弟』に投稿された感想・評価

reb
3.1
「新文芸坐シネマテークvol.56 権力の不条理、革命の幻滅ーイタリア70年代チネマ•ポリティコ」で鑑賞。

1816年、ナポレオン失脚後の修復期イタリア。投獄の末ようやく釈放された、革命組織「崇高な兄弟たち」メンバーのフルヴィオは、疲れ果てて気力を失っていた。
彼の妹の密告で、仲間の多くが殺される。

マルチェロ•マストロヤンニ演じるフルヴィオは革命への意欲も薄れ、組織から抜け出したいと、仲間を裏切り自由を求めてひたすらもがく。
こういうみっともない役が、マストロヤンニは実によく似合う。

ダマされ、フルヴィオの愛欲の虜になってしまうミムジー•ファーマーは、さすがの脱ぎっぷり。でもやっぱ金髪ショートの方がいいかも。

コレラが蔓延する南イタリアの地で、悔い改めのためか、釘のついた器具で胸を叩く苦行者たちの行列に出くわす。
麻の紐を束ねた道具で自らを打つ宗教的行為は映画で観たことあったけど、さすがにこの釘は痛そう。

大寺さんの解説によると、タヴィアーニ兄弟はずっと仲良しで、監督業はいつも共同作業。演出はワンシーンごとに順番こにやって、それぞれの仕事っぷりには口出ししなかったとか。
すごいなぁ。編集の時もめたりしなかったのかなぁ。

兄ヴィットリオが88歳で亡くなって、パオロが初めて1人で監督を務めた2022年の「遺灰は語る」は、なんとも深い余韻が残る心にしみる作品だった。
パオロ監督も2024年に92歳で亡くなる。「遺灰は語る」の上映後オンラインQ&Aで、兄の思い出をしみじみと語ってくれた優しい笑顔を思い出す。
菩薩
-
ハマグチェの後に観たせいもあってかめっちゃつまんなく感じてしまった…十中八九私が悪いのだが…。革命に飽き飽きしたヤン兄が弟を殺し仲間を裏切り自分だけ助かろうと頑張るのだが結局革命の幻想にぶっ殺されて完みたいな。確かに68年以降の映画として捉えれば…だし、敗北主義おじさんのだっせぇ自己欺瞞として見れば笑えなくもなく、日本で言えばヘルメット被ってゲバ棒振り翳して奴等もいつしか企業戦士としてビシッとスーツを着込み24時間戦えますかし出したんだよなぁ…みたいな事も思うのだが、どうも展開の鈍さとクドさに途中で集中力が切れたらしい、なんか苦手でしたすいません。
備忘のために

○イタリア版のDVDで鑑賞。タヴィアーニ兄弟のインタビューが特典映像。これはありがたい。

○マストロヤンニは最初、舞台でやるような19世紀風の演技を始めたらしいのだけど、パオロとヴィットリオは恐る恐る「すいません、現代のポポロ広場で演じるような気持ちでお願いできますか」とリクエスト。それを聞いたマストロヤンニは、ぱっと閃いて「ポポロ広場だな」とウィンクをすると、みごとな演技を披露したのだという。

マストロヤンニのそれは、ヴォロンテが見事に常軌を逸したものを演じるのに対して、あくまでも普通なのだけど、そのなかに常軌を逸したものを垣間見せてくれるような演技だったという。

○そのマストロヤンニが演じたフルヴィオは、ナポリの貴族にして革命家のカルロ・ピサカーネ (1818 – 1857)がモデル。 ピサカーネはマッツィーニ主義者などの義勇軍とともに、ブルボン朝の支配から農民を解放しようと、1857年、サレルノ県のサプリに上陸するが、ブルボン朝の軍隊に捕らえられ、ピサカーネらはかろうじて逃亡するが、サンツィオで農民たちに殺害されたという。

映画のなかのフルヴィオ(マストロヤンニ)とその「崇高なる兄弟たち」と呼ばれる仲間たちは、この、ピサカーネと義勇兵から直接の着想を得ているが、タヴィアーニ兄弟は、ただの歴史劇を描こうとしたのではない。この兄弟監督にとって「歴史とは現代を描くために使うもの」なのだ。

興味深いことに、この映画が数年後にアメリカで公開されたとき、米国の批評家は「崇高なる兄弟たち」を「赤い旅団」に重ねようとしたという。映画のイタリア公開は1974年であり、赤い旅団によるモーロ元首相誘拐殺人は1978年だから、直接的には関係がない。しかし、パオロによると、この映画が作られたときの空気のなかで、その赤い旅団も生まれてきたことは確かだという。実際、公開されたとき、左派のなかには、この映画に拍手する者と、「裏切り者」と叫んぶ者たちに別れたという。そして、映画の後での討論の壇上にあがってきて、兄弟に唾をはいた若者(その多くは女性だったという)は、どうやらのちに旅団に入ったと聞いたというのだ。

○この映画のもうひとつの主役は、エンニオ・モリコーネの音楽であり、映画そのものはオペラを念頭においたもの。なにしろ、オープニングクレジットではオーケストラの音合わせが聞かれるし、劇場の赤い幕が開くように、クレジットの赤い背景が左右に開いて、フルヴィオが階段の上から降りてくることになる。実にオペラ的ではないか。

そして、ラウラ・ベッティの歌う幼い頃の思い出の曲「ディンディンディンディン」の調べが、赤シャツの男たちの歌う「ラ・マルセイエーズ」と対置され、さらにはモリコーネらしい主題曲『Rabbia e tarantella』のリズムに合わせてステップを踏む男たちの姿は、ユートピアへのステップであるとともに、祭りが終わったあとのポスト・ユートピアの時代に現れる亡霊のステップでもあるわけだ。

ちなみに、この『Rabbia e tarantella』、タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』のラストシーンに見事に引用されている。
https://www.youtube.com/watch?v=FNcxj54qtyk

○タイトルの「アロンサンファン Allonsanfan 」は、登場人物の名前でもあるけれど、もともとはフランス語の Allons enfants であり、これは「ラ・マルセイエーズ」の冒頭の一節「 Allons enfants de la Patrie」(立ち上がれ、祖国の子らよ)だ。


追記:2026.6.19 新文芸坐シネマテーク

あれは誰だったのか。何が起こったのか。映画と大寺さんのトークのあとで、シノさんに尋ねられた。まっさきに思い浮かんだのは人権だ。ちょうど地中海の東方で苦しんでいる人がいる。家が破壊され、子供たちが殺されている。だから船を出す。船団を組んで、防衛軍たちの裏を描いて手を差し伸べる。「グローバル・スムード・フロティラ」(国際海上船団)の人々を動かしていたのがピエタ(惻隠の情)であり、まもろうとしたのは「人権」(diritto umano)だ。

1816年という王政復古の時代に、マルチェッロの演じるフルヴィオと、その仲間たちの気高い兄弟たちが目指したのは、イタリアの独立だ。重要なのは、そのときイタリアという国は存在していない。イタリアは地理的な名称にすぎなかった。しかし、その地理的な名称が重要なのだ。その地で生まれたものが、その地で国を作るという革命がフランスで起こったばかりだった。そしてその革命の影響は、イタリアの地の知識人たちにも影響を与える。フランスのようにやろうじゃないか。イタリアの地にも、イタリアの地で生まれた民族による、イタリアという国を作ろう。

これがイタリア独立運動なのだけれど、その内実は複雑だ。マッツィーニはこう考えた。イタリアの人々はローマ帝国を建て、キリスト教を信じてきた。そして今、近代民主主義への道を歩もうとしている。かつて世界を導いたイタリアは、再び人類を導く使命を持つ。そういう意味でイタリアの使命の復活を訴えよう。

復活つまりリソルジメントは、ジェベルティにとっては「中世イタリアの精神的覇権の回復」だったのかもしれない。そしてガリバルディにとっては、イタリアの地の人々が置かれている奴隷状態から自由への再生だったのだろう。

19世紀のイタリアとは、教皇領とオーストリア帝国やスペイン王国の支配に引き裂かれ、いくつかの公国に分断されていた地で、人々がひとつのまとまりをめざし、フランスのような民族国家として独立しようとする時代だ。

そこで用いられるリソルジメントという言葉は、だからこそ現実化されえないものを内包している。ローマ帝国も、中世のキリスト教的な権威も、そして完全な民族的な自由も、理念としては立てられても、現実化するには常に何処か不可能なものがある。

それは夢なのだ。タヴィアーニ兄弟が描いたのは、おそらくその夢が夢である限りで、実現不可能であるその有様だったのではなかったのか。

だからこそフルヴィオは、そんな不可能をめざす時代の象徴的で寓話的な人物となる。黄金のマントを纏う貴族でありながら、やがて赤シャツ着せられガリバルディの赤シャツを思わせながら、一度は命惜しさに赤を脱ぎすてる。それでもなお、あの、イタリアの人々が自由になって大地を踏み鳴らす夢に魅せられると、ふたたびその赤を身にまとう。

赤をまとえば撃たれることはわかっていたはずだ。それでもなお、あの赤をまとってしまうところがイタリアの19世紀の夢の強度。それが左翼が混迷をきわめてゆくイタリアの1970年代イタリアに召喚さらる。

それはたしかに、いっぽうでは敗北なのだ。けれど、もういっぽうで夢はまだまだ続いてゆく。なにしろ、その敗北のむこうに現れるエンドクレジットの赤いバックに、モリコーネの音楽が力強い持続を立ち上げてくれるのだから。

そうだ、ぼくらは夢を見たし、これからも夢を見続ける。そう思った瞬間、落涙してしまった。


追記の追記:

前見たと気は気が付かなかったけど、ラストシーンに登場したのは、マテーラの街並み、カステッロ・デル・モンテの前の平原。パゾリーニが『奇跡の丘』のために発見したロケ地なのだよね。

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