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Sentimental Value(英題)
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『Sentimental Value(英題)』に投稿された感想・評価

Omizu
4.0
【第78回カンヌ映画祭 グランプリ】
『わたしは最悪。』ヨアキム・トリアー監督の新作。カンヌ映画祭コンペに出品される前から評判になっていた作品で、順当にグランプリを受賞した。

傑作。これはオスカーもいくでしょ。レナーテ・レインスヴェも素晴らしいけどステラン・スカルスガルドが思いのほかすごくてびっくりした。

父と娘の関係を変わったアプローチで見事に捉えている。女優の娘と映画監督の父、それ自体はありふれた設定ではあるが、トリアー監督のアイロニーに満ちた視線によってそれぞれの苦悩や葛藤を実にうまく描いている。

釜山映画祭で観たのだが、本編後に一回、エンドロール後に一回の拍手が起きた。ゲストもないのにこれは初めてのことだった。

トリアー監督らしい上品で美しい感性が貫かれている。「演じること」を通して家族というものを語っていく手腕は実に見事だ。アプローチは少し違うが『ドライブ・マイ・カー』を彷彿とさせた。

とにかくレナーテとスカルスガルドの演技合戦がすさまじい。主演女優賞や助演男優賞、さらには作品賞などアカデミー賞での健闘も期待できるのではないだろうか。
[ノルウェー、私たちを捨てた父親へ] 60点

2025年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。2026年アカデミー国際長編映画賞ノルウェー代表。ヨアキム・トリアー長編五作目。舞台女優のノラと歴史家のアグネスは幼い頃、映画監督の父親グスタフに捨てられ、セラピストの母親に育てられた。二人が成長し母親が亡くなったとき、父親は葬儀のために久々に家に戻り、十数年ぶりの新作映画の話をノラに持ち掛ける。それはノラが育った同じ家で育ったグスタフが見た母親の姿を題材にしたもので、既に世界的な名声もあるグスタフですら最高の出来と評する脚本が完成し、その主演をノラに演じてほしいというものだった。ノラは父親と向き合うことを拒絶して出演の話も断る。その後、パリでのレトロスペクティブを観に来た売れっ子アメリカ人女優レイチェルが新作の企画に興味を示し、旧知のプロデューサーの手腕でNetflix製作の英語映画として企画はスタートするが、グスタフもレイチェルも企画が全然腹落ちしていないので方向性を見失ってしまう。一方、断ったノラも父親に捨てられた経験からか、舞台に立つことを最も恐れながら、舞台に立つことしか出来ないという不安定な生活を続けていた。基本的な舞台となるのはオスロの閑静な住宅街にある古びた屋敷であり、物語はグスタフ、ノラ、アグネス、レイチェルを視点人物とした小さな物語の集合体として語られ、それぞれの物語はこの屋敷の中で交錯していく。そこは建ってから150年くらいの歴史のある建物だ(それだけ聞くと同じコンペに入っているマーシャ・シリンスキ『Sound of Falling』にも似ている)。グスタフの母親カリンもこの屋敷で生まれ、持ち主となり、ここで死んだ。カリンは二次大戦中にレジスタンスに協力したとして逮捕され拷問を受けた過去があったが、そのことについては生涯語ることなく、グスタフがまだ小さい頃に自ら命を絶ったらしく、その最後の記憶を脚本にしたのだった。カリンが視点人物になることはないので、彼女のことはグスタフの目を通した印象になるが、どうも彼女とノラを重ね合わせたのは、二人への印象が彼の中で重なるからではないだろうかとも思えてくる。一人で抱え込み、気丈に振舞いながら不安定な生活を続けるという共通点もありつつ、もしかすると屋敷には語られていない他の共通点があるのかもしれないとも思わせる闇深さがある。あれはIKEAのスツールだよwwという台詞は表面上コミカルに受け取られるが、住人や時代が変わることで家具や壁紙やらは更新されるかもしれないが、そこに宿る記憶は決して古びないということを暗に指摘しているのかもしれない。とはいえ、屋敷そのものの存在感はそこまで高くなく、互いに断絶した四つの物語が再び繋がりを戻す象徴としての空間として主に機能しているのがちと残念。というか、既に姉妹はこの屋敷から離れていて、姉妹がこの家についてどう思っていたのかは冒頭の作文でしか描かれていないので、屋敷が中心的なモチーフであるのに注目されないという変な感じになっている気がする。それは、最後の住人だった母親に全く注目が行かないのとも関連しているだろう。

単に映画監督と舞台女優の親子の似非ベルイマン的ぶつかり合いに終始しないのが本作品の良い点で、その軽やかさの多くをアグネスが担っている。彼女は幼い頃にグスタフの映画に参加した経験があって、今でもそこまで悪い関係ではない(そもそも葬儀に招待したのは彼女だ)。成長の過程で崩壊した家族を目の当たりにしながら、ノラとは違って夫と子供がいる。家族仲も良さそうだ。とはいえ、彼女も息子をグスタフの映画に出したくないとするのは、やはり自分の子供時代と重なってしまうからなのだろう。そんな共通点もありつつ、家族生活という点で決定的に違う生き方をしている姉妹は、ある瞬間に長年水面下で互いに感じていた引け目について語り合う。ノラが持っていなくてアグネスが持っていたもの、それはノラという存在である、という最大限の賛辞と共に。姉妹の似ている部分とすれ違う部分を丁寧に描いてきたからこその、決して仲が悪いわけではない姉妹が真に理解し合えた瞬間の美しさたるや。

しかし、一番悲しいのは、作中であれだけ傑作!と騒がれながら、最終的にグスタフの撮った作品が面白そうとは微塵も思えないということだ。妹との関係のとこで泣いちゃって高評価に流されてしまったけども、記事を書こうとして思い返せば思い返すほどに本作品が魅力的だったとは全然思えなくなってきて、映画祭マジックって怖いなあと。
UCOCO.
3.7
カンヌはこの作品にグランプリを与えていいのか、疑問が残ってしまった。

ストーリーといえば家族の不和が渦巻く系のありきたりだし、音楽や撮影にもインパクトがない。

強いて言えば、救いは私の脳裏になぜかこびりつき続けている映画『私は最悪。』のレナーテ・ラインスヴェという女優が光って見えたこと。
なぜここで、エル・ファニングが起用されたのかはよく分からない。

まだ見ていないパルムドール作品の『Un simple accident』(日本語タイトル不明)は、監督自身の状況と言い、作品的にもイランの社会問題と併せてかなり気になっている。
そういった世界情勢に疑問を呈している作品が選ばれるのであれば、本作よりもグランプリに輝くべきはロズニツァの『Deux procureurs』だったのでは。。

追記 : 本作を見て1度寝てから起きて思い出したこと。
冒頭で一見ただのコメディシーンにも見える男が主人公に軽く手を上げる場面(ビンタ)。男尊女卑がどうこうのという時代になっても、構造的に女より多く筋力を備えている男が女に手を挙げるのは普通に最低。
そんな男に振り回される主人公の描写は劇中で軽く描かれる程度だったが、それでも最終的にそんな男のことなど見向きもしなくなる主人公の様は今になって爽快に感じた。