アレッシオ・リゴ・デ・リーギ&マッテオ・ゾッピス長編二作目。元々はドキュメンタリー作家だった二人が初めての劇長編である前作『The Tale of King Crab』は、アリーチェ・ロルヴァケルな20世紀初頭イタリアの農村風景からリサンドロ・アロンソすぎるパタゴニアの原野に至る二部構成で観客の土肝を抜いたわけだが、本作品はその第一部とも共通する時代と質感を持っている作品だ。物語は20世紀初頭の北イタリアの農村部に、バッファロー・ビル率いる"ワイルド・ウエスト・ショー"の一座がやって来たところから始まる。主催者は暴力的な地主の親子で、彼らはイタリアを縦断する鉄道の敷設を進めていた。地主息子の若妻ローザはビルに"暴力での勝利に栄光はあるか?"と尋ねるがはぐらかされ、"真実よりも良い物語が好まれる"と返される。やがて、なんやかんやあってローザは牧童の男サンティーノの目の前で夫を射殺し、二人は逃避行に出る云々。四部構成になっており、語り部は胡散臭いバッファロー・ビルなので、"ワイルド・ウエスト・ショー"の一部のような扱いになっているが、物語の主人公は女性のローザであり、シッティング・ブルの娘を隣に置きながら沈黙を強いていた"ワイルド・ウエスト・ショー"の構造とは根本的に異なることが分かる。彼らが逃げるイタリアの農村部の風景は統一から少し経った安定期に入り、鉄道の敷設が進み、それに反対する反体制軍がいるというあまりにもアメリカ西部っぽいものであり、ローザとサンティーノが巻き込まれる物語は、ビルが脚色した"ワイルド・ウエスト・ショー"が実際に起こっていた世界そのものなのだ。地主を殺したのはローザのはずが、いつの間にか極悪非道なサンティーノがか弱いローザを誘拐したという物語にすり替えられ、サンティーノも最初は嫌がっていたが反体制軍の英雄とされたことでそれに乗っかるようになる。つまりは、自分自身の物語が自分の外側で勝手に形成され、ローザは女性であるが故に"囚われの姫"として主体性すら奪われてしまったのだ。ローザはそれを二重に奪い返す必要がある。そういう意味ではデヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』に似ているかもしれない。彼女を追いつめる人々の物語にも、彼女を利用しようとする人々の物語にも乗らず、自らの意思で"幻想から別れる決意をする"ラストは素晴らしかった。けど、現代にこの映画を作る意義を見出すには薄味な感じもする。物語を奪い返したなら、真実に塗り替えるとこまでやらないと不味いとこまで来てしまったと思う。