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七月の雨/夕立ち
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『七月の雨/夕立ち』に投稿された感想・評価

[モスクワを歩く横移動の魔法] 100点

人生ベスト。フツイエフといえば半年くらい前にMUBIで「私は20歳」を上映してたが、2時間半とか私のような老人には厳しいので途中で諦めたという過去がある。本作品は104分と比較的見やすい上映時間なので先にこちらから片付けよう。60年代モスクワの情景をモノクロで切り抜く上手さと言えばダネリア「私はモスクワを歩く」という最強の映画があるわけだが、本作品はそこに手持ちカメラによるロケ撮影や大胆なジャンプカットなどヌーベルヴァーグ的な側面が加わって、更にパワーアップしている。横移動の長回しとか本当に街でゲリラ撮影したんじゃないかという感じで、歩行者が若干カメラを気にする姿を"主人公レナもカメラに気付いている"という設定に組み替えることで観客が彼女を追っているかのような錯覚に陥らせる、これを魔術と呼ばずして何を魔術とするか。

物書きのヴォロージャと付き合っている若い女性レナの日常を丁寧に切り取り、彼女とその周りにいる男たちの生活を描写する。20代も終わりに差し掛かり、ヴォロージャとの関係が何にも発展しないと気付いてしまったレナは、周りにいる人間との関係も見直し始める。「私はモスクワを歩く」が人間喜劇であったのに対して、本作品は人間の内面を見つめ、同時に当時のソ連の内面を具現化した人間を配することで同時代をつぶさに記録している。男に従属する人生より自身の独立性を重んじたレナが街に出掛けるラストは涙なしに語れない美しさを持つ。ただ一つの難点は私にとっちゃ少し時期尚早だったことかもしれん。

卒論のせいで精神状態がイカれてきているのは心配だが(昨日なんか同期に絶対零度って何Kだっけとかいうアホみたいな質問をしてしまった)、本作品のような美しい作品に出会えたから良しとしよう。最近は採点が甘い気がする、昔に戻ってるじゃないか。
私は二十歳よりもインパクトは薄かったが、流れるようなカメラワークや他愛ない描写の良さとかイオセリアーニと黒澤を混ぜたようで良かった。

特に良かったのがキャンプのシーンだが、送られなかった手紙といい僕の村は戦場だったといいロシアの森は神秘的なものが感じられて良い。
マルレン・フツィエフ監督の「私は20歳」(1965公開)の次作。ロシア・ニューウエーブ時代(雪解け時代)の終わりを予感させる女性実存映画。原題「Июльский дождь(7月の雨)」。

1966年頃のモスクワ。印刷会社で翻訳家として働くレナは、将来有望な科学者ヴォロディアと婚約していた。ある日、土砂降りの横断歩道列でジェーニャという男性がレナにレインコートを貸したことから二人は電話友達になる。レナは母親から結婚の時期を問われ内省を深めていく。。。

前作「私は20歳」に続いてソ連の同時代精神を描こうとしていた。同作は脚本シュパリコフと同世代の20代前半の若者たちを描いていたが、本作は30歳の女性が主人公。とりとめのない会話劇が増えた点にはヌーヴェルヴァーグのインテリ気取りの風潮が感じられたが、女性を主人公に実存について考察するのはアントニオーニ監督を(前作とは違った意味で)想起させる。

一方、劇伴の選曲とフィラー使用は印象深かった。中でも終盤手前、自分の大好きなスウィングル・シンガーズの「バッハ・パルティータ第2番」(1963)をまるまる4分間も使ってモスクワの風景を映し出すシークエンスには痺れた。序盤にはルイ・アームストロングによる「バラ色の人生」(1950)が流れ、“雪解け”によってソ連に入って来たアメリカ音楽が既に同時代を懐かしむかのように使用されているのが興味深かった。

フルシチョフ首相時代(1953~1964)に始まった“雪解け”は、次のブレジネフ首相によって新たな締め付けが行われ、本作公開の翌年にチェコ「プラハの春」(1968)鎮圧をもって終焉を迎える。ラストシーンで映し出されるモスクワの若者たちの顔、顔、顔のカットからは、彼らの不安な未来に対するフツィエフ監督の祈りが伝わって来た。