ミュウツーの逆襲 完全版の作品情報・感想・評価

「ミュウツーの逆襲 完全版」に投稿された感想・評価

オリジナル版よりもミュウツーの誕生を詳しく追加されてた部分の闇が良かった
窓

窓の感想・評価

2.5
初期ポケモンのかわいさたるや、、
ストーリーはめちゃくちゃあっさりしてる。
やっぱりこういう絵じゃないと…!
19.7.29 *家

わりとあっさりしていた…?
ミューツーかっこいい好き。
個人的には前作に完全に劣る作品という感想。




子供向けの映画、という視点で見れば、

今作はダイナミックなアクションや、ポケモンの描写の美しく、フル3DCGとしての見所は多々あると思う。







しかし、子供向けのポケモンが劇場版第1作にして、

重すぎるテーマ、重厚なストーリー、大人が楽しめるポケモンを作り出した部分が薄くなっているように感じた。




セリフもほとんど同じなので、ほぼ物語は同じだけど、

どうしても最初の子供ミュウツーが涙を知るシーンは入れて欲しかった。







この映画のすごいとこは、

人間が悪だ。

とはっきり言わせているところ。




ロケット団が悪ではなく、

人間こそが悪だ。

と、まとめて表現してる点。




人間というのは、傲慢で、怠惰で支配欲に塗れた存在だと、ここまではっきり言い切るのはすごい。

だからこそミュウツーの言葉には重みがあるし、ポケモンと思えない。







そしてさらに物語を重厚にしてるのは、

「同じ種族はどちらかが消えるまで戦いをやめない」という言葉。




ポケモンの殴り合いを見るのも心が痛むけど、

この言葉が連想させるのは人類の戦争の歴史だろう。







生物も人間も同じで、どちらが上でどちらが下もない。

みんな「生きている」のだ。




生きている、それだけじゃダメなのか。

「なぜ生きているのか、自分は誰なのか」を知らないと生きてはならないのか。




難しいテーマだと思う。

事実、この質問をされてバッチリ回答できる人はそんなに多くはないだろう。







生きていること自体を肯定し、

生きていること自体を受け入れる。




なぜならもう確かに「生きている」のだから。







力強く生きていこう。と思える映画でした。

「自分が何のために生きているのか」にぐるぐる悩んでいる人に見て欲しいです。
ポケモン好きの友人に勧められて何カ月前かに鑑賞、記録し忘れていました。

劇場版に追加されたアヴァンタイトルシーンの催涙っぷりにやられました。
そこで傑作を予感するも、その後は問題提起に対してわりと規定路線に沿ったままで少々残念。
とはいえ、この作品がファンに根強く支持されている理由はよくわかりました。
POCKY帝

POCKY帝の感想・評価

2.5

このレビューはネタバレを含みます

ミュウツーの逆襲 EVOLUTIONの予習として鑑賞!

む?こんな話だっけ?
夢オチ?
何がしたいのかよく分からない内容だった(^_^;)
20年ぶりに見てもピカチュウ同士のところで戦うシーンで泣きかけた
tetsu

tetsuの感想・評価

-
最新作公開に先駆け、希少価値もつきつつある本作のDVDを探していると、知り合いの映画サークルの部室で、まさかまさかの発見。これこそ灯台下暗しってやつですね…。

本作の違いは本編開始30分に追加されている物語の前日譚ともいえる映像。ミュウツーが生まれる前、彼の精神世界で繰り広げられるコピーポケモンやクローン少女との交流が描かれており、より作品の深みやミュウツー誕生の経緯が明確になっています。

ちなみに、今回は当時公開された海外版(英語音声・日本語字幕)で鑑賞したため、登場人物の名前が異なっていたり(サトシはアッシュ、カスミはミスティーなど)、OPテーマからEDに至るまでの音楽がすべて英語版になっていたため、謎にかっこよさが増しました。笑
(ちなみに音楽は海外版オリジナル楽曲!)

開始30分、サトシが一向に登場しないのは玉にキズですが、何はともあれ史上最強のポケモン映画ですので、通常版を観た方や、リメイク版を観た方には必見の一作です!
SOYA

SOYAの感想・評価

4.4

このレビューはネタバレを含みます

コピーと本物が戦う場面でロケット団のニャースとコピーニャースも戦おうとするが「この爪がでひっかくと痛いだろう」と戦わずに月を見るシーンに哲学を感じる。

このレビューはネタバレを含みます

私は誰だ?
ここはどこだ?
誰が生めと頼んだ?
誰が作ってくれと願った?
私は私を生んだ全てを恨む…。
だからこれは、攻撃でもなく宣戦布告でもなく、私を生み出したお前達への“逆襲”だ…!


ポケットモンスター、かく言う私も夢中になった時期が少年時代にあります(アドバンスジェネレーション世代で、ルビー、コロシアム、ファイアレッドを楽しく遊んでいました)。
それが今では世界各国にたくさんのファンを構え、ハリウッドでの実写映画が製作されたり今でもシリーズが続き、世界観やポケモンの種類が数えきれないぐらいに存在したり…。
気付けば世界に誇るビッグコンテンツとなっていましたね、本当に凄い…。

原点にして頂点、と謳われるほどにポケモンの歴史において神格化されている本作、遂に今年CG映画としてリメイクされるという事もあってか、キッズステーションにて無料放送されていた本作を鑑賞。
実を言うと子どもの時に一度見た記憶はあるのですが、具体的なテーマはあまり覚えておらず、誰もが刺激を受けた印象的なシーンを薄らと覚えている程度の記憶しかありませんでした。
そんな私が数十年ぶりに鑑賞したものですから、懐かしさを味わうのは勿論の事、それ以上に本作が描いた“命の存在意義”に唸らされました。
なるほど、確かにこれは感銘を受ける人が多いのも頷ける…と見終えた後の余韻は非常に心地よかったですね。

そもそもポケットモンスターという生命は、当たり前ですがフィクションの産物です。
我々が生きるこの世界においてそんな生物は存在しませんし、逆にポケットモンスターの世界観においては動物は絶滅している…とかそういうのを小耳に挟んだことがあります。
なので、我々の世界における動物=ポケットモンスターとして成り代わっているわけですね。
そんな世界に一矢報いらんとするイレギュラー、それが本作のメインキャラクター・ミュウツーです。
空想上の生き物と言えど、ポケモンという種族が人間にとって支配されている・飼い慣らされているという現状への追及を行うわけです。

伝説のポケモン・ミュウの手掛かりから遺伝子データを採取し、人間がクローン技術のような装置でミュウツーを作り上げた。
ミュウツーは生まれると同時に、己の存在意義について疑問を抱くようになしました。

「私は誰だ? 何故この世に生まれてきた?」

いざそう言われると言葉に詰まります。
誰かに「何でこの世に生まれたか分かってる?」とか言われても「知らんがな」で一蹴してしまいそうなぐらい、返答に困る無理難題。
我々からしたら答えの出ない難問なので、そんな疑問は右から左へ受け流すほかありません。
が、ミュウツーはこの疑問に終始苛まれる。
まるで呪いのように、自分が生まれた理由を、この世に生を受けた意味を探し続ける。
何故ならば、人間のエゴによって作られたクローン人間・アイツー、コピー体ポケモンが目の前で消えてしまう事実を彼が感情を持って間もない時に知ってしまったから。
更に言うなれば、人間が勝手に生み出しておいて「失敗作」だの「ポケモンは人間の手駒」といった人間の醜い部分を感じて浴びてきたわけですから、そりゃもう黙ってちゃいられない。
その上で安定剤を打たれたりして己の感情を抑制され、いつ明けるか分からない暗闇の中で一人きりのまま成長していった…。

「私はまだ、この世に生まれてすらいない…」

人間から作られた人工的生命体である以上、ポケモンですらない。
ポケモンとしての能力や遺伝子を持っている以上、人間でもない。
自分とは一体何者なのか、何故この世に生まれたのか?
生まれた意味を追い求めるミュウツーの思想は、一見我々人間には中々掴みづらいところがありますが、これらを見ると物思いに耽ってしまいますね。
何のために生まれ、何のために生きるのか。
それを意識せずにはいられない生い立ちの元に生きる以上、避けては通れないジレンマ。
そんな彼に擦り寄ってくる人間達の私利私欲さに憤り、己が誰でもない己として存在する証明を、事実を欲する。
これは、身勝手なエゴによって生まれたコピー体による、自分の存在意義を人類に叩き付けるための逆襲なのです。
更に言うなれば、ポケモンという存在が人間によって支配されている、という現実が彼にとっても許せなかった。
サカキ達によって「この世で別の命を作り出せるのは、神と人間だけだ」とか「お前は人間に作られたポケモンだ。他に何の価値がある?」という言葉を聞き、ポケモンという種族そのものが人間にとって駒となっている、その実態が許せなかった。 
あくどい人間達の下で飼い慣らされているポケモンという種族の在り方に腹を立て、彼は計画を実行します…。

ここからサトシ達にようやく焦点が当たり、彼らの冒険が展開されていきます。
映画の冒頭でポケットモンスターという世界観とサトシとピカチュウの出会い、カスミとタケシと三人で旅をしているといった解説が入りますが、そこから10分以上かけてミュウツーの誕生とその動機についてじっくりと描いている、これが素晴らしい。
他にも、コピー体ピカチュウからの攻撃にされるままのピカチュウや、石となったサトシを目覚めさせようと電撃を浴びせ続けるピカチュウ等、ここぞという場面においては時間をかけてたっぷりと見せてくれる場面が、この映画には多く存在しています。
ともなれば、必然と視聴者は皆「このシーンは大切な所、重要な場面なんだな」というのが感覚的に理解できますよね。
描かれる時間が多い分、その場面を見続ける事で子どもも大人も自然とその場面を見続ける事となり、その場面を時間をかけて映す意味を何となくでも理解できる・探るようになる。
そういった人間の感覚を理解しているからこその手腕が光っていました。

また、序盤でミュウツーによる悲哀っぷりをたくさん描きながらも、その後は主人公・サトシとピカチュウ達による冒険譚としての楽しみがしっかりと備わっている、そのバランスも見事。
ミュウツーによるあれこれがメインではありますが、かといって本来のポケモンらしさである、ポケモンバトルやポケモンと人間達が手を取り合って困難を乗り越えていくエンターテイメント性を忘れずに発揮させていくので全編通してシリアスになり過ぎない、コミカルに傾き過ぎない、いい塩梅に仕上がっていましたね。
私としてもポケットモンスターと言えばやはりポケモンバトルが醍醐味だと子どもの頃から感じていましたので、本作でもポケモンバトルを合間に挟んで飽きさせないようフォローする様がハッキリしていたのは好感触です。

ミュウツーによってたくさんのコピー体ポケモンが生まれ、サトシ達による“オリジナルポケモン”と“コピー体ポケモン”による戦いが勃発。
オリジナルvsコピー、と言えば数々の創作物において幾度となく展開されてきた王道展開。
本物vs偽物、という戦いは一般的な流れで言うなら本物による「偽物なんかに俺達は負けねぇ!!」となり偽物の撃破…がテンプレでしょう。
しかし本作では、このオリジナルvsコピーという戦いがいかに虚しく不毛であるのか、その理由をキャラクターの台詞やBGM、場面の物悲しさを通して視覚的にも聴覚的にも攻めてくる、正に本作が“名作”として謳われるのも頷ける感情が押し寄せてきます。
勿論本作でも、最初はこのオリジナルvsコピーの戦いを盛り上がるBGMを駆使して熱い展開として描きます。
しかし、途中で瞬く間にBGMは変わり、各ポケモン通しの戦いがスローモーションで描かれ始めると感触が真逆のものに。
自分で自分を傷つけている不気味さ、痛々しさ、悲しみ…。

「なんなの、この戦い…。本物だって、コピーだって…今は“生きている”…」
「みんな、生き物…」
「作られたと言っても、この世に生きている生き物…」
「本物とコピー、同じ生き物同士、勝ち負けがあるわけ…」

「なんだかんだと言われたら、なんだかなぁ…」
「なんだか気の毒で気の毒で…」
「自分で自分をいじめてる…」
「昔の自分を見るようで…」
「今の自分を見るようで…」
「「やな感じ…」」

そもそも、何故オリジナルとコピーが戦わなければならないのか、その理由は何なのか。
それは生物としての生まれ持った本能に準していると言えます。

「生き物は、同じ種類の生き物に、同じ縄張りを渡そうとはしません。相手を追い出すまで戦います、それが生き物です」

ミュウツーがミュウと戦おうとするのも、自分の存在を証明するためであり、“自分は作られたコピーではない”という結論を掴み取るための戦いなのです。
同時にミュウは、「本物は本物だ。技など使わずに体と体でぶつかれば、本物はコピーに負けない」といった台詞を介してこの戦いを引き起こした。
いくら伝説のポケモン、ミステリアスな存在であるミュウも、またポケモンであり生き物。
自分のコピーともなれば戦って勝利したい、自分こそが本物であるという確信、そこからなる安心を得たい。
生き物が戦うその根本的な理由の下で展開されるこの戦い、見入らない方が無理ってもの。
トドメにピカチュウと、そのコピー体ピカチュウによるあのビンタのやり取りです。
オリジナルピカチュウは戦おうとはせず、コピー体にひたすらビンタされるがままです。
ですが、次第にコピー体ピカチュウは涙が溢れ始め、ビンタの勢いも収まり、泣きながらオリジナルに自分の体をもたれさす…。
戦って勝たなければ自分を証明できない、でもオリジナルである相手は戦おうとしない…。
そんなオリジナルを一方的に攻撃している自分の情けなさに、こんな思いをしないと自分を認められない不甲斐なさに、何よりこんな事をしないと自分で自分を認められないジレンマに…。
己を証明するための戦い、オリジナルvsコピーという戦いがこんなにも心に深く刺さってくるのですから本当に凄い。
当時も子どもながらに、このピカチュウ同士の戦いに悲しみを覚えていたのですが、大人になって鑑賞すると一層このシーンの魅力が伝わってきました。
子どもの時に見た作品を、今になって見返してみると思っていた以上に深いテーマだった事に感銘を受ける…というのは何度も体感しましたが、やはり何度味わっても面白い物は面白いです。

更にこれだけでは終わらず、同じ生き物同士が戦い合う事への悲しみを描きながらも、ロケット団のニャースがこれまた本作でも中々にインパクトの強い、己のコピーとの対話を展開してきます。

「これ(自分の爪)痛いだろうニャー…。ポケモン同士戦ってるのに、おみゃー(コピー体ニャース)はズルいニャ! なに、“おみゃーの方がズルいニャ。 何故ニャーと戦わニャい”だと? “その爪痛いだろう”って? おみゃーの爪の方がもっと痛いだろう。 “今夜の月は丸いだろう”って? そうだニャー。きっと満月だろニャー…。おみゃー、こんな時にお月さまのことなんて…風流で、哲学してるニャー…」

ピカチュウ達が戦ってる一方で、ニャース二人は戦おうともせず互いに達観しているんです。
戦ったら、傷付いてしまうから。
自分の爪、見るからに痛そうだし…これで攻撃したら相手が痛がるよなぁ…と、相手が何であれ、戦ったら相手を傷付けてしまう。
だから戦わずお互いにボーっとしてる。
すごく、いいですよね…この場面…。
本当は戦う必要なんかない、更に言うなれば自分が本物かとか偽物かとか、そんなのもどうでもいい。
相手を傷付けないと得られない証明なんていらないし、そんなやり取りをしなきゃいけないのも傷付けるのも嫌だ。
その果てに、お互いに時に身を任せている達観振り…真理ですよね。
戦わなくてもお互いにちゃんとここにいて、ゆっくりと月を見上げられる、生きているじゃないか…と。

戦いも佳境に入り、オリジナルvsコピーの戦いも互いにボロボロになり、相打ちでしか決着が付かない状況。
ミュウとミュウツーによる戦いだけが続いていましたが、二人のエネルギーが接触する場にサトシが「もうやめてくれ!!」と訴えかけながら直行、まともにそのエネルギーを受け石化してしまいます。
この状況にミュウツーは驚愕、ミュウも首を傾げ困惑している様子。
そんなサトシにピカチュウが駆け寄り、何度も電気を流すもサトシは一向に戻らず…。
その悲惨な光景を前に、ピカチュウは涙が溢れ出す…。
同時に、傷付いた全オリジナル、コピー体ポケモンがみんな涙を流し始め、その涙がエネルギーとなりサトシは元通りに!

この場面、“オリジナルもコピーも泣いている”のが堪りませんね。
人間が自分達の為に身を挺して止めようとしてくれた、その果てに石化してしまった現実に互いに泣いている…。
そしてその後、サトシが元通りになりオリジナルもコピーもお互いに安心しきった顔で見つめ合うのですから…。

しかもこの場面、よくよく考えるとまたもや人間におけるエゴがある事が分かります。
サトシはポケモントレーナーであり、ポケモン同士を戦わせるポケモンバトルの頂点・ポケモンマスターを目指している。
更に、本作での冒頭で1話の回想があるのですが、大量のポケモンに襲われたサトシが「俺はポケモンマスターになるんだ! お前らみんなゲットしてやる!」と叫んでいるんですよね。
戦う事でしかなれない夢を思い描いている、ポケモン=ゲットする事で自分のパートナーとしようとする姿勢は、今にして思えば人間の立派な私利私欲ではないか。
戦う事でしかポケモンマスターになれない、存在を証明できない。
ならばこのオリジナルvsコピーの戦いを「もうやめてくれ!!」と止めに行くのは不可思議な事ではないか…。
その結果、サトシは石化してしまった=何も喋れなくなった…。

更に、今にして思えば序盤でアイツーが「涙を流せる生き物は、体が痛い時以外は涙を流さないって。悲しみで涙を流すのは、人間だけだって」と告げていましたが、この場面への布石だったのですね。

「ありがとう、あなたの涙。でも泣かないで、あなたは生きてるの。生きている、ってね。きっと楽しい事なんだから」


物語もクライマックス、サトシを軸にして描かれた光景を目にしたミュウツーは、一つの結論を出します。
「たしかに、お前も私も、すでに存在しているポケモン同士だ。この出来事は誰も知らない方がいいのかもしれない…。忘れた方が、いいのかもしれない…」
既にこの世に存在している事、それは確かな事実。
オリジナルであろうとコピーであろうと、“生きている”事に変わりない。
ならば、そこに答えを見出す必要性はないはず。
「我々は生まれた…生きている、生き続ける…。この世界の、どこかで…」

敢えて言うなれば、ミュウツーの根本的な原動力であった“憎しみ”が半ば強制的に納得させられたような締めである事が少々気がかりでした。
ヒトカゲ、ゼニガメ、フシギダネのコピー体ポケモンが消滅した事は勿論、生まれて間もない自分に色々な事を教えてくれたアイツーの消滅等…。
彼女達にように生まれたばかり、もしくは今後生まれるかもしれなかった生命が人間によって弄ばれている事にも憤りを感じていると思っていたので…。
コピー、クローンを生み出しているのは人間ですが、その人間の匙加減で簡単に人工的に作られる命が左右されている…その現実にもミュウツーは何らかの思いを込めているのではないかと感じていましたので、この一件でミュウツーが納得してどこかへ旅立っていくのはちょっと掘り下げ不足かなぁと。

何はともあれラストシーン。
極め付けはあの激闘の、ミュウツーにまつわる出来事が記憶から消されたサトシとカスミによるやり取りです。

「なんで俺達、こんなところにいるんだ?」
「さあ? “いるんだからいる”んでしょうね」
「ま、いっか!」
「うん!」

いるんだからいる、それだけでいいんですよね。
何故自分が生きているのか、何故生まれてきたのか。
その明確な答えは分からないし、誰かが唱えてくれるわけでもない。
だから、“ただそうなっているだけ”なんだ、と。
これはM・ナイト・シャマラン監督による“ハプニング”という映画でも一つの答えが出ていましたね。

「自然界で発生する出来事に明確な理由を当てはめるのは難しい。予期せぬ事態の全てを把握するのは不可能。人間がその状況を理解するために、人間が生み出した、人間による人間のための理論をその事例に当てはめて結論付けている、納得しているに過ぎない。正確な答えは人間の物差しでは決して出ない。真実は人間以外が知っている」

本作を見終えた後なら、誰かに「何でこの世に生まれたか分かってる?」と言われたらある程度の答えを用意できそうな気がします。
わからないけれど、今こうして生きている事には違いないのだから…。
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