さとにきたらええやんのネタバレレビュー・内容・結末

さとにきたらええやん2016年製作の映画)

上映日:2016年06月11日

製作国:

上映時間:100分

4.2

あらすじ

「さとにきたらええやん」に投稿されたネタバレ・内容・結末



ドキュメント72時間っぽい。

西成のことをもっと知りたくなった。

自転車乗れてよかったよかった。
20160905
年に数回は西成に行くが子供をあまりみかけた記憶はなかったので、こんな素晴らしい場所があることに驚いた。
冒頭から自転車目線のカメラワークが速くて狭くてかっこええ。
序盤にさとにきた男性の迫力が凄かった。
前半はまあ普通のドキュメントの印象。
終盤以降は割とウルッとキまくった。
夜回りの時の路上生活者への声かけ、デメキンの突然のクモ膜下出血、女の子の門出、中学生の卒業式、ラストの自転車。
娘の金をクスねる糞みたいな鬼畜母親はよく映画出演オッケーしたなと思った。
SHINGO西成のラップが映画にメチャクチャハマっていてヤバかった。
発達障害のあるジョーくんがいちばん輝いて見えた。もしも僕が、この映画のカメラを通さずに彼に出会ったとして、彼に何か価値を見出だせるかな。自信ないや。

マサキくんがついに自転車に乗れるようになり、オープニングでジョーくんが目にしてた釜ヶ崎の街並みを駆け巡る。「次は僕の番だ」と語るかのようなその背中に、心が奮います。
大阪市の西成区で、様々な事情を抱える子供達を預かり休息の場として活動を続ける施設「こどもの里」の生活に密着したドキュメンタリー。

「心とフトコロが寒いときこそ胸をはれ」
西成区を中心に活動するラッパー・SHINGO★西成の唄う歌のどストレートな歌詞がこころにスッと入り込むように想いを伝えて来る。
産まれ育った環境を恨むでもなく僻むでもない。
現状を精一杯生きようとする真っ直ぐな心の豊かさが、厳しい冬を耐え抜くような暖かさを生む。
生きているだけ、ただそれだけで幸せだとも言うけれど「ただ生きている」事ほど辛いものはない。
そんな生きることの難しさが染み渡って来る。

大阪市西成区は釜ヶ崎にある施設「こどもの里」では 「誰でもどんな子でも受け入れる」という方針のもと、虐待によって親と一緒に住めなくなった子や、知的障害のある子達の一時預かりや宿泊を引き受けている。
障害の有無や肌の色の違いに関わらず誰でもウェルカムな姿勢は「みんなの学校」を思い出した。
施設の責任者であるデメキンこと荘保さんの滲み出るような人柄の良さが惹きつけている部分はあるが、他の職員達はやや言葉遣いが荒めで人情味がありフレンドリーといえば聞こえは良いが「その態度どうなの?」と思うこともしばしば。
子供の親や街の環境を見るに舐められたら終いな所があるので其処に暮らす人達にとっては逆にそんな接し方が心地良いのかもしれないが。

映画の中では主に、マユミちゃん、ジョウくん、マサキくんの三人に焦点があてられる。
高校三年生のマユミちゃんは里で暮らす内に家事を覚えて熟すようになり、老人ホームへの就職が決まる。
小学校、中学校、そして高校生とその全ての時代を里で過ごして来たマユミちゃんの故郷はもはやこどもの里であり、里親は荘保さん。
実の母親はマユミちゃんと暮らす事の出来るような精神状態ではなく、その癖ギャンブル等に嵌りマユミちゃんのお金をこっそりと本人に引き出させて横取りするというロクでもない人。
実の母親であるが故に繋がりを断つことは出来ず、しかし身を守る為には離れて暮らすしかない。
小学校を卒業する時こそは、中学校を卒業する時こそ、そして高校を卒業する時こそ家に帰って母親と暮らせたらいいねと言いながらも平行線を辿る現状。
そんな状態からマユミちゃんが大きくなり里を巣立っていくラストは感慨深かった。
「できればもう戻って来ないでね」と思いたいが、心の故郷であり心の拠り所である里の存在を彼女には忘れて欲しくないと願うのだった。

知的障害がある中学三年生のジョウくんは、学校でのイジメや家庭での父の暴力に悩まされながらも、明るく愛嬌のある性格で皆の人気者。
施設の職員を交えて頻繁に家族会議を行い家の中でのルールを決めたりもするが、言葉に詰まり中々自分の想いを口に出せない事に悩む。
そんな彼が憧れるラッパーのSHINGO★西成。
彼の歌を聴くジョウくんの瞳はキラッキラに輝いていて「いつか自分の想いを歌にして届けたい」と願うその心の内が痛い程伝わって来るような真っ直ぐな目をしていた。
そんな想いが結実するかのようなラストの作文を読み上げるシーンは、すらすらと言葉が出て来る度にスタンディングして褒め称えたくなる程の感動を覚える。
「周囲の人々に支えられながら生きている」事を誰よりも実感し、それを感謝の言葉で表す素直さにもまた感動。
ありがとうの気持ちを照れ隠さず伝える勇気を見習いたいと思った。
街を夜回りする場面でも、路上生活者達に率先して「おっちゃん、頑張ってな」と声をかける一時の躊躇や偏見も感じさせない姿は、同じ助けを受ける者同士の強い共感や説得力を感じさせた。

幼稚園に通う泣き虫のマサキくんは、母親からの暴力に怯え逃げるように里へと頻繁にやって来る。
マサキくんの母親もまた父から暴力を受けて育っているという事実。
この街で生きている限り、そこから抜け出さない限りは止められない暴力の連鎖。
我が子を愛する余り、そして自身と同じような育ち方をして欲しくないという願いの裏返し。
虐待についての講義を受ける場面で堪えきれず外に飛び出してしまう姿が強く印象に残る。
暴力で恐怖心を植え付けても、それが教育には良いはずが無いというのはもちろん分かっていても、言葉で上手くコミニュケーションが取れない故に手や足が出てしまう。
何世代にも渡って受け継がれ、繰り返されて来たDNAに組み込まれた本能は第三者の手によって絶つしかないのか。
カメラが目の前にある状態でも思わず手が出そうになってしまうくらいだから、家の中ではどうなっている事やらという恐怖が頭の中に描かれる。
日常的に虐待を行っているような人というのは、後ろめたさの表れか人前では気の良い人を無意識に演じてしまう事が多いという。
怖いのはそれを本人が自覚していない所にあると思うのだが、マサキくんの母親は重々承知の上で関われているという部分に救いの道があるような気がした。

オープニングでは気怠げに自転車を漕ぐジョウくんの後ろ姿を写していたカメラが、エンディングでは街を疾走するマサキくんの姿を捉えている。
後ろ向きに進むか、前向きに進むか。
現状を変えようなどと大それた事は言わない。
ただ、生きているという事、この街に生きている事に堂々と胸を張れ。
けれど、疲れたり苦しくなったりした時は一旦立ち止まって休んだらええやん。
そんなメッセージを感じる作品だった。
「さと」とは里であり、故郷である。
それは人であり、頼れる存在そのものだ。

社会はピラミッドで、その施設は最底辺を支える最後の砦に違いない。子どもたちは様々な事情を抱えた親や境遇の下で暮している。

単身、夜勤、やむを得ない事情を抱えた家庭もあるが、様々な境遇によって「崩壊した」としか言えない家庭もある。

生活保護でパチンコ、タバコ、スマホ。
貰った金はすべて使い果たし、娘の初任給のすべてを勝手に奪い取る実母。娘が一緒に暮らせないのは、なんてことない母親がどうしようもないからだ。

軽度の知的障害の少年、おそらく発達障害だろうが、彼は底なしの明るさで明確な夢を持ち、中学に上がっても算数を復習している。自ら特別支援学校を探し、子沢山の母親の下で暮らしたり、里に行ったりしている。
彼ら兄弟の目標は「学校に通うこと」だ。

きっと悪い流れは断ち切れる。
負のスパイラルのように回りまわる環境の連鎖。

父親から虐待された母親の子どもは、どう見てもPTSDで、泣き叫んでは自我を通そうとする。母親は手を出してはいないというが、息子は家に帰りたがらない。彼もまた幼い心のどこかに何かを抱えているに違いない。

焦点は三人の子どもと、施設職員に当てられている。クモ膜下出血で倒れるデメキン。ほぼ働き詰めの職員たち。

この大阪の深い闇たる西成区の釜ヶ崎は、日雇労働の浮浪者が未だに多数横たわり、暮している町だ。

どう考えても治安は悪いし、描かれていない闇がさらに深く存在しているだろう。

描かれていない闇。

おそらく、火傷を負った知的障害児がいたし、耳の聞こえない女の子、暴力団らしき親、語られない物語には、さらに深い闇が存在しているのだろう。

だが、本当は別に珍しくもなければ、彼ら彼女らは不幸ではない。帰る場所があるということは幸せなことだし、相談できる相手もいる。

そうやって生きることは、別に誰も望みやしない。好きでそうしているわけではないからだ。たぶん、この砦がなかったら容易に格差の下位では犯罪、貧困から来る社会的な負担の増大、更なる格差の拡大が蔓延するだろう。

つまり、すでに各地で問題となり、始まっているに違いない。

その意味で映画自体は子どもたちの説明の付かない前向きさと、志や将来性を感じるのに、得体の知れない不吉な恐ろしさがあった。