パターソンのネタバレレビュー・内容・結末

パターソン2016年製作の映画)

Paterson

上映日:2017年08月26日

製作国:

上映時間:118分

ジャンル:

4.0

あらすじ

ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン。彼の1日は朝、隣に眠る妻ローラにキスをして始まる。いつものように仕事に向かい、乗務をこなす中で、心に浮かぶ詩を秘密のノートに書きとめていく。帰宅して妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。そんな一見代わり映えのしない毎日。パターソンの日々を、ユニークな人々との交流と、思いがけな…

ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン。彼の1日は朝、隣に眠る妻ローラにキスをして始まる。いつものように仕事に向かい、乗務をこなす中で、心に浮かぶ詩を秘密のノートに書きとめていく。帰宅して妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。そんな一見代わり映えのしない毎日。パターソンの日々を、ユニークな人々との交流と、思いがけない出会いと共に描く、ユーモアと優しさに溢れた7日間の物語。

「パターソン」に投稿されたネタバレ・内容・結末

詩人の街の詩人…
何の変哲も無い一週間に詩の元素が漂っていて、それを主人公が感じ取り言葉を綴る。
ということは、この映画にはカメラに映らないものも映っているということだろう。
繰り返す日常は微笑ましいけれど、その中で七日間で数人の詩人や、数組の双子と遭遇するなんて、考えると実に神秘的だ。
面白い。所々で逆毛立った。

水中、それは苦しい のメンバー竹内さんが「谷川俊太郎は宇宙人である」と述べているのを思い出したら、何だかSFに思えてきたりして。
永瀬正敏演じる日本の詩人はゼットン(犬)に倒されたウルトラマン(A・ドライヴァー)を救いに地球(パターソン)にやって来たゾフィだ…と自分の中で勝手に解釈。

何てことが無いようで目を凝らすと奥深い映画だと思う。何てことないのもそれはそれでまた愛おしい。至福の時間でした。
『おまえなんか嫌いだ』

・傾いた郵便受け
・芽キャベツのパイ
・カップケーキ1個だけの弁当
・ギター高ぇよ…
・見るも無残な姿のポエムノート

闇堕ちする理由はいくらでもあった。
そう。これは1人のバス運転手がカイロ・レンになるまでのストーリー。前日譚である。
え、永瀬正敏必要?????
いや、別に永瀬正敏でもいいんだけど!誰だって何人(なにじん)だっていいんだけど!
何回パターソンニュージャージーって言うんだよ!しつけえ!!!!
わかったよ!ニュージャージー州のパターソンなのはわかったよ!!!!

最後の永瀬正敏の不自然なパターソンニュージャージーの連呼以外は、本当に丁寧に作られたいい映画でした。犬もかわいいし。
アダムドライバー、カイロレンみたいな弱い故に強くなりたくてもがく人間もハマってたけど、優しさ故に弱く見えてしまう人間っていうのもとてもハマってたな。カイロレンのときよりかっこよく見えた。犬もかわいかった。
彼はあの白黒の珍妙になっていく家とミーハーでパッパラパーな嫁さんとまた月曜日を迎えて、日々をこなしていくのだろうと思うと愛おしくってしょうがない。
曇ってる日曜日の午後にゴロゴロしながらビール飲みながら観たい映画でした。

あと、嫁さんカップケーキで儲けたならその金でギター代払えよ!!!というのだけは言っておきたい。
『パターソン』を観た

この映画全体に流れる雰囲気が美しい。
詩が何気ない日常に彩りを加えていく。

監督が永瀬正敏ありきで書いたという脚本は、最後に起こった出来事に対して、1つの意味を見出した。この日本人詩人に出会えてよかったと思える。

そして、なんといっても永瀬正敏の「a-ha」が良い。「a-ha」にいろんな解釈を与えてくれたような気がする。

何気ない日常を切り取ると、繊細で美しい刹那の連続であるとこの映画は教えてくれる。
冒頭、バスのおもちゃが2台積み重なっている映像で、ジャームッシュー!となってしまった。なんだろう、妙な違和感。毎日のルーティン。このルーティン外を乱すことを嫌うパターソンと、思いのまま暮らす妻。わたしはこんな夫婦になりたいかと問われるとそうは思えないと答える。だけどこの緩やかで穏やかな日常に憧れもする。まずは犬。犬を買わなくちゃ。
彼女の横で目覚めてコーンフレークを食べランチボックスのみ持って頭に詩を思い浮かべながら会社に行く。
上司との会話、乗客のくだらない話、帰宅して彼女との時間と犬の散歩、バーでの会話全て決まり切ってる日常に見えてもある時は双子が目についたりコインランドリーのビーボーイや詩を書く女の子と出会うなど同じ日なんて実は1日もない。
日々大きく変化を起こす彼女との対比のせいで代わり映えしない様に見えるだけで。
パターソンが彼女の趣味にぴったり合致しない感もリアルで凄くいい。
詩人になる事を諦めてるのではなく別にこれ以上の欲がないのだろう。ケータイを持たないのも昔は必要なかったって。
これで十分なのにこれ以上を人は求めてしまうよなー
口コミでクソサブカル野郎みたいのが多かったけどそこまでの傑作には感じなかった。
主人公の控えめさに比べ奥さんが自由奔放過ぎて、パターソンがブチ切れるんじゃないかと心配した。

でもノートがバラバラになった後の彼女の様子を見て、本当にいい二人だなって思った。私だったら、「だからコピー取っておけって言ったじゃない‼︎」って言っちゃいそう。でも彼女はただただ彼の気持ちに寄り添うことができる人なのね。

そしてアダム・ドライバーの顔をずっと観てられるだけで幸せ。素敵な映画でした。
心地よい、というか、すごく自分の温度やテンションにぴったり合ってる映画だった。なんかもう良いとかどうのこうのじゃない。温泉入ったときの、あぁ〜〜って感じというか。

繰り返す毎日、でも詩をかくことで見聞きするもの拾うものが面白いし、救われている。

アクションやドラマティックな展開ではない映画が、無理にそうしているかのような映画に反旗を翻し、反抗し、静かに皮肉しているかのよう。
その普通の、繰り返しの毎日を送る人間を肯定する、丸ごと包み込んでくれる温かな目線に涙が出そう。これを肯定してくれる映画ってなかなかないな、と思いました。

パターソン行きのバスを運転するパターソン。
日本だと東京さん?とか思ったけど、町田さんや川崎さんか。(田中千世子評論)
パターソンが運転するパターソン行きのバス自体が、丸ごと彼の身体かのよう。

最後は日本人の詩人との出会いにより、映画は幕を閉じる。
この出会いはとてもドラマ的で、ここまでの映画の流れからするとガタっと崩れたものがあるようにも感じた。けれどもそうでなければこの映画は終われない。

犬に秘密のノートを粉々にされてしまった悲しみやショックは計り知れない。
そこで日本人の詩人との出会いが相殺してくれるのだろうか。

シンクロや彼女の考えてることが波及していく様が印象的。
詩のことばかり考えているから、コインランドリーの詩人や小さな詩人との出会いが印象的で、そこが切り取られるのがさらに自然な感じがした。

ことばを綴る人は、みな詩人なのだ。
ふつうの生活を送る中でことばを綴る詩人を、丸ごと肯定してくれた気がした。
考えあぐねているうちに、頭が混乱している。
適切な単語の選択、整理整頓が出来ているとは思えないが書き記しておく。

『パターソン』は、この世界にある無限のディテールを、詩という言葉の形で捉えようとするパターソンを、詩的な表現で捉えた映画。

パターソン → 「詩で捉える」
監督 ーーー→ 「詩で捉える」を「詩的に映画で捉える」
僕 ーーーー→ 「詩で捉える」と「詩的に映画で捉える」を捉える

というメタ構造が、まず、頭を悩ませる。
それぞれ「捉える視点」の立場が違うからだ。
さらに重要な点は「世界を捉える手段」としての「言葉と映像の違い」だ。
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僕自身は、写真を撮ることを通じて「この世界はディテールとニュアンスで出来ている」という事を、自分なりに学んだ。
それには「意味は、この世界の本質ではない」という事も付け足される。
 
映画が好きで、こんなレビューで長々と“解釈”なんかを書いたりしてしまうけれども、映画の本当の楽しさは、言葉のレベルで捉えられる「物語」や「テーマ」ではなくて、言語化できない「ディテール」(顔・形・色・動き・テンポ…etc. 無限にある)にこそあると思っている。
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この映画自体が、詩のような構成で作られており、まるで「一日」が詩の「一行」のようだ。
そして、パターソンが発見する世界のディテール、例えば「双子」や「滝」や「白黒の丸」が、形を変えながら繰り返し登場するのは、詩の「押韻」のようだ。
「双子」や「滝」や「白黒の丸」は、「世界のディテール」としては、発見しやすい、かなり目立つものだ。
そして、映像として何度も繰り返すことで、さらに強調されている。
これらは、パターソンが一週間の暮らしの中で発見した「世界のディテール」として映像表現されている。
しかし、彼はそれらを詩に詠んではいない。
詩に詠んだのは「メガホン型ロゴのOhio Blue Tip Matches」や「祖父の唄の一行」などの、もう少し細かい「世界のディテール」だ。
彼は詩という言葉の表現を使って、それらに形を与え「世界のディテール」の不可思議を捉えようとしている。

……といった、本作における「世界のディテール」は、当然、監督が映画の中に作為的に「設置」したものである。
予告編に「IN THE SMALLEST DETAILS」というコピーがあったが、SMALLESTだとは思わない。
観客に解るように、大きく目立つように「設置」されたディテールだからだ。

詩が無駄な言葉を削ぎ落として洗練されるように、本作も無駄を排し洗練されている。
僕が、どうしても気にかかるのは「映画から削ぎ落とされた、もっと無駄なディテールこそが、もっと本質的な「世界のディテール」なのではないか?」という事だ。
「ディテールの発見」を観客に伝えるために、「ディテール」が大きく誇張されるというジレンマ。
監督自身も愛しているであろう「この世界のディテール」というものは、本来もっともっと細かいものであることは留意しておくべきだろう。
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「この世界の本質はディテールとニュアンスであり、意味は本質ではない」
と前述したが、「意味」は「≒言葉」といえるだろう。
詩作という行為は、不思議なものだ。
「≒意味」である「言葉」を使って、「意味」を超えた「ディテール」という「本質」を捉えようとする行為だといえるだろう。

「言葉」という手段に対し「映像」という手段は、世界の細密なディテールを捉えるのに際して、直接的で効果的な気がする。
例えるならば、捉える「アミの目が細かい」という感じだろうか。
しかし短絡的には言い切れない。
これを考えるには、「言葉」「映像」といった手段の持つ意味は、すべて自己の意識の中でしか通用しない事にも留意しなければならず、つまり認識論の話になってくる。

この世界はディテールとニュアンスで出来た、意味のない混沌であり、それを観察する意識もまた、意味のない混沌である。
圧倒的な混沌に対し、手の届く可能な範囲の少しだけを切り取り、形を与えることで、もっとよく観察するという行為が芸術制作である。
詩や映画だけでなく、例えば陶芸家なら、色や手触りや絶妙な曲線などに、それは宿るだろう。
そして、それは、芸術作品として形をあたえなくても出来ることであり、「芸術を制作しない芸術家」もたくさんいるだろう。
要するに芸術とは「混沌をよく観察する行為」であり、僕もそれを愛している。

パターソンは、詩を使って「混沌」を捉えようとしている。
ジャームッシュ監督は、パターソンという架空の人物を創造することで、「混沌を捉える」芸術への愛を伝えようとしている。
『パターソン』を「日常を肯定してくれる映画」だけで捉えてしまうのはもったいない。
観賞からずいぶん経っても、思考の整理整頓がつかず、自分の頭が混沌としてしまう。
特に「言葉と映像の違い」は、僕にとって積年の議題であるが、ここまでとする。
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