福島は語るの作品情報・感想・評価

福島は語る2018年製作の映画)

上映日:2019年03月02日

製作国:

上映時間:170分

4.3

あらすじ

ナレーション

「福島は語る」に投稿された感想・評価

N

Nの感想・評価

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ここまで「その人」によって真正面から語られた福島を聞いたことは、未だかつてなかったかもしれない。「誰にも言ったことないんだけど」に続く言葉を、聞けて良かった。誰にも生まれ育った故郷があって住み慣れた町が家があってよく知った人々がいてかけがえのない思い出があって、そんなものが一瞬にして奪われたのだと思い知った。どこか自分とは遠く離れた場所の話だと思っていたのかもしれない。「その人」によって語られたことによって具体性を急に帯びて、震えた。
福島の原発事故が原因で自宅を離れた14人のインタビュー集。1人10分から15分のインタビューとなる。記録としては貴重だと思うが、それぞれの取材日を記してほしかった。

このレビューはネタバレを含みます

監督の土井敏邦さんは記者でありながら2005年から13本の映像を撮ってきた人で、キャリアもかなりある人にもかかわらず私は全く知らなかった。

これ、決定版(と上映会では銘打たれていた)も170分と大尺なのですが、完全版にいたっては330分(5時間半!)という長さなのです。が、多分、もっともっと尺を伸ばすことは可能なつくりになっている。

というのも、この映画はほぼ3.11のときに福島に住んでいた人へのインタビューだけを章立てている単純な形式だから。ちなみに決定版においては第一章から最終章の全八章で構成されている。

そして、この章立ての数字は観た限りでは明確なストーリー(物語という意味ではなく)ラインを描いているわけではなく、個々で完結していると言える。

章立てというこの形式は、そのまま断章であることをも意味している。断章、つまりそれぞれの章に登場する人物(一章に一人というわけではない)はそれぞれに(未)完結した断片なのでせう。
だからこそどれだけ盛り込んでもこの映画は破綻しない。なぜならこの映画に存在するのは各々の「語」りだけだから。

一方で、この映画は「語」りを増やすことをせずとも、この映画の目的とするものを表現できてしまっている側面もあるように思える。

なぜなら、インタビューされる人々の誰もが、自分自身がインタビューされているにもかかわらず自分以外の人たちのことをも語るからだ。

たとえば大河原多津子さんは夫と一緒に農業に従事していた自身たちを語りながら、放射性物質によって汚染された作物を売れなくなり、自殺してしまった、しいたけを栽培していた知人のことを口にする。

たとえば当時双葉町の小学校で教師をしていた小野田陽子さんは劇中に登場しない生徒たちのことを嬉々として(内容自体は必ずしも喜ばしいことばかりではないけれど)「語」る。

その語りはあまりに滑らかで、彼我の区別はあっても自他の区別はないそのナラティブは、ある種「我が事・丸ごと」的な相互扶助の関係性を思わせる。

そのナラティブを引き出す手腕こそが土井さんの力なのだと、同じく中東ジャーナリストの川上泰徳さんは語る。その通りだと私も思う。なぜなら、ドキュメンタリーとしてはあまりないことだけれど、カメラを回す土井さんの声がそのまんま一緒に入ってしまっているから。
それはとりもなおさず彼の声もこの映画の一部分であることの証左として受け取れる。

その判断は、土井さんが己の問いかけをしっかりと背負っているということでもある。いまだに「ソニータ」というドキュメンタリー映画について思うことなのだけれど、あれは被写体であるソニータという少女に制作側が積極的に介入・支援することによって、それ以外へのすべての責を放擲してしまっている点で、あまりにその視線の無自覚さが露わになっていて好きになれず、対置してみるとその自覚の差が露わになる。


話を戻しますと、その、他者たる隣人を「語」る彼女彼らの表情や声、すなわち身体を通じて当時福島に住んでいた人々の「個」が観えてくるのです。

依り代であるその身体のディティールを映すためか、インタビューはすべてアップに近いバストショット(というか杉下さんにいたってはほぼアップなのだけれど)である。それがより「語」りを強くし、強く語られる顔も名前も知らない他者の「個」的なものが浮かび上がってくる。必ずしもポジティブなものではないけれど。

無論、これは錯覚に過ぎない。しかし、それこそが映画ではないだろうかとも思う。



3.11という概念には、様々な要素がある。それは原発という極めて人為的なものが招いた問題と津波という自然災害が招来したもの。特に小野田さんの背負ったものは自然災害によるものが大きく、はっきり言ってしまえば「仕方のなかったこと」なのだと思う。そこには人為の介在する余地はなかったのだから。だとしても、彼女の生徒が避難せざるを得なくなったのは原発という人為の介在したものによることであり、それは登場する人たち全員に言えることではある。


ところで、すでに土井さんが中東を専門に扱う記者だったことは述べたのだけれど、そんな彼がどうして福島を題材にしたのか。

その理由を川上さんは、福島の問題も中東の問題もつまるところ「難民」であり、その難民の痛みを伝えることがジャーナリストとしての土井さんの自責なのだと考えているからだという(意訳)。成程、両方ともに人災であることに疑いようはない。

人災が自然災害と違うのはそれが「避けられたかもしれない」ということだし、それがたとえ尋常ならざる力を必要にしたとしても「解決できるかもしれない」問題であるということだ。

けれど、インタビューを受けた元朝日新聞支局の記者であった村田弘さんは水俣病を取材していたときの経験と原発における国家の隠蔽体質の不変さを指摘する。星ひかりさんは、福島の人たちの間に生じた分断を国家による目くらましであると感じている。

現在の政治の状況を見るにつけ、本当にこの人災は「避けられるかもしれない」ことなのだろうかと首をひねりたくなってくる。

多分それはシステムの問題なのだろう。他者を他者として、その痛みを認識しないでいること。あるいは、その痛みを「敵対者」のものとして積極的に圧殺すること。そうして自分だけが甘い汁をすすること。これらの人災はそういった非人間的・・・というか非人道的な原理によって駆動し加速する。

それは資本主義にも言えることだろう。企業経営者にサイコパスが多いというのは知られた話だ(いや、個人的にはリベラル左派もどうかと思ってはいるけれど)。

福島の問題は福島だけの問題ではない。日本の問題であるし、それよりもまず中心としての東京の問題だ。そもそも福島原発と呼ばれるが、それは「東京」電力福島原子力発電所の「東京」を隠蔽している。

それは「福島」という「他者」の問題なのだと。ひいては「中東」という遠い国の「他者」の問題なのだと。それはテクノロジーによって加速している(抗おうとするものも当然いるが)。

だからこそ土井さんは「痛み」を伝えようとするのだろう。臆面もなくいってしまえば、たぶん、平和のために。
inuko

inukoの感想・評価

3.8
2013〜2017年くらいにかけてインタビューが実施されている。その間亡くなったり、住む場所や状況が変わっていくのも同時に追えていて、その変化もやはり原発被害後の状況に影響されていて、改めてこの国の政府や東電の冷たさ無責任さに怒りが湧く。
訴訟の原告団代表をしている方のインタビューで、「怒りの成熟」という言葉にハッとした。戦中、戦後ずっと踏み付けにされてきた沖縄の話。「自分たちはまだ浅い」と。どちらがエライということではないが、もっと沖縄に学ぶべきことがあるのだ。
国はこのまま踏み付けにし続けるつもりだろう。
一人一人が抱える葛藤が解決する日は見えない。自分にできる事はなんなのか。
Osamu

Osamuの感想・評価

4.2
170分間のほぼ全てがインタビュー映像だが、全く飽きることがなかった。登場する全ての方の話に感じるところがあった。聞き手の聞き方がうまいのだと思う。兎に角おもしろい。

特に3.11の黙祷から逃れる話には不意打ちを喰らった。毎年あの日、あの時刻に日本中が黙祷することに嫌悪感を抱くという話だ。あの日を忘れられる人々が呑気に行う行為なのだと(実際にはそんな悪い言葉では語られていない)。

あの日理不尽に痛めつけられ、今も痛めつけられ続けている彼らに対して私は「たいへんでしたね」と心を寄せることしかできないのか。そう迫られる。
この映画は本当に日本に住む全員に観てもらいたいと思った。

震災と原発爆発によっておきた人間関係の変化や複雑な感情にフォーカスして人々の語りによって映画は成り立っている。
ひとりの生活に密着した映画ではないし、政治批判を目的としたドキュメンタリーではないと私は感じた。
土井監督がトークで「反原発運動の映画にはしたくなかった。」と言っていた。人々の葛藤や苦しみを写すことで、観る人に考えさせる映画になっていると思った。
一人ひとりの話をじっくり聴いてまとめたのがこの映画だった。質問の仕方が恣意的だったり、何か行動を促すような発言は一切なかった。
淡々と話している様子を収めた映像を観ると色々な視点に気づかされるし、被災者や避難生活をしている人や移住した方の精神がまだ癒えてないことを知った。
色々ありすぎてくたくたになっているので休みを取って一日中寝てやろうとしたのですが、早朝目が覚めて二度寝も出来ずにいたので、ふと思い立ち尊敬する柴田監督が絶賛していた「福島を語る」を下高井戸シネマに見に行きました。3時間途中休憩ありの大作ドキュメンタリーです。飾り気なし長回しのインタビューが中心の映画ですが、暮らしを奪われた人々の悲痛の声たちが見終わった今頭から離れません。衝撃が強すぎてこの映画を評する言葉を私はいま持ちませんが、こういう映画こそ色々な人に見てほしいと切に思います。私の中での良い映画とは決して万人のためのエンターテイメントではなく、この「福島を語る」のように何か言葉にできない感情を喚起するような、なんだかよくわからないけれどどうしても気になる重要な何かをはらんだものの事なのです。今週中なら下高井戸シネマで見れます。ゴールデンウィークは吉祥寺ココマルシアターにて。ともかく見てください。(2019.4.15)
Rosalie

Rosalieの感想・評価

4.5
福島の声が、届いた。
一人ひとりの生活が少しだけ見えた。
観て良かった。
多くの人に観てほしいと思う。
メタ壱

メタ壱の感想・評価

4.3
4年もの期間をかけて制作された、福島で震災に遭われた方々のインタビューがベースの170分のドキュメンタリー映画。

震災のあった頃、僕は福島から遠く離れた福岡に住んでいました。
だから揺れの被害も放射能の影響もありませんでしたし、その他直接的な影響もほとんどありませんでした。

当時テレビの番組編成が変わったり連日の報道を何度も目にしましたが、ちょっとした節電傾向があったくらいで、正直震災そのものに対する実感はあまり湧いてきませんでした。

それは東北地方とほとんど縁のなかった自分にとって同じ日本での出来事でありながら、どこかテレビの向こうの出来事のような、海外での事件事故の報道に近い感覚で、震災発生・原発事故以降も日本中が震災に対し向き合っている中僕はやっぱりそれが自分事として身近に感じる事が出来ずにいました。

そんな自分だからこそ『福島は語る』の公開を知った時、この作品は観なければならないと思いました。

本作では原発事故による影響に関するインタビューがメインになっていて、14人の方々が震災が起きて8年経った今なお抱え続ける苦悩をそれぞれの立場と環境から語ってくれました。

この作品を観てとにかく感じたのは、彼らも自分と同じ一人の人間なのだという事。

メディアでも僕たちの普段の会話でも彼らは‘“福島の人”とか“被災者”とか“避難民”といった総称で呼ばれる事が多いと思います。

それはしょうがない事ではあるのですが、そういったカテゴライズが僕の中で彼らを一括に抽象化してしまっていたように思います。

しかしこの映画を通して一人一人の顔と表情を見て多くの言葉で体験や辛い思いなどを聴いく事で、本当は当たり前の事なのですが遠く離れた所にいる彼らが自分と同じ一人の人間だという事を痛感し、そういった方々が今も耐え難い苦しみの中にいるんだという事実に胸が苦しくなりました。

また僕の出身地も田舎町なのですが、作中に映し出される福島の風景がなんだか自分の故郷と重なってしまい、彼らの語る故郷・福島への思いのほんの一端かもしれませんが感じる事が出来たような気がしています。

いまだこの国が抱える放射能や原発の問題、そしてそれらを通して見えてくる人間にとっての故郷、人との関わり、生きる意味といった本質的な問い。

この作品は、福島や被災された方々の苦痛や苦悩は彼らだけが抱えるべき特殊で限定的な問題ではなく、決して僕にとっても無関係じゃない、日本に住む全ての人が向き合うべき問題なんだという事を教えてくれました。
まさと

まさとの感想・評価

4.3
地元限定上映にて鑑賞。
想像を絶する状況にずっと涙。
福島からフクシマへ。
全ては子供の為と思っての別居や避難による夫婦や親子、親友との絆の崩壊。
売れない農作物。
自分の出身地を言えない子供達。
必要なのは次の世代に事実をありのままに伝えていくこと。
福島県民へのせめてもの償いは原発廃止。
自分の生まれ育った故郷に勝る場所など何処にもない。
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