ゴルゴダの丘の作品情報・感想・評価

「ゴルゴダの丘」に投稿された感想・評価

kazu1961

kazu1961の感想・評価

3.5
▪️JPTitle :「ゴルゴダの丘」
ORTitle:「Golgotha」
▪️First Release Year : 1935
▪️JP Release Date : 1936/11
▪️Production Country : フランス
🏆Main Awards : ※※※
▪️Appreciation Record : 2022-116 再鑑賞
🕰Running Time : 99分
▪️Director : ジュリアン・デュヴィヴィエ
▪️Writer : ジュリアン・デュヴィヴィエ
▪️MusicD : ジャック・イベール
▪️Cast : ジャン・ギャバン、ロベール・ル・ヴィギャン、アリ・ボール、エドウィジュ・フィエール
▪️Review
キリストの受難と復活をテーマにした映画としては初めての本格的な作品ではないでしょうか。
ストーリー展開は、福音書に書かれている事をそのまま忠実に再現する方法がとられています。なのでキリスト教を知ってる人もあまり知らない人も教養がてらに鑑賞するのも良いかも知れません。
エルサレム入城に始まって、群衆の支持を受け、集議所員たちの陰謀とユダの買収、そして最後の晩餐、十字架の道行、ゴルゴタの丘での十字架磔刑、復活などなど一連の流れが明確に伝わってきます。
また宗教的、政治的な理不尽な群衆の扇動が描かれていて、この辺りは現代も通用するメッセージではないかと思います。
さらにデュヴィヴィエ監督の作品らしく、美術、セット、エキストラの数など登場では壮大なスケールを感じる作品です。
個人的にはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画にもなる『最後の晩餐』のシーンが印象的でした。また、イエスの顔が常に陰影に纏われ神秘性を出してる演出も好きですね。

物語は。。。
ローマ歴786年、ティベリウス帝時代。ガリラヤの領主はヘロデ王。ローマのユダヤ総督はピラトでした。イスラエルの民に自由はないが、聖都エルサレムは栄えていました。広大な神殿、その中の最高法院=議会は聖職者、知識人、貴族、名士で構成されていました。そんな時、噂の人物ナダレのイエスは、エルサレムに向かっていました。付き従う民衆が増えていきます。神殿から見下ろしながら、議員の一人が言いいます「生意気な青二才め」。 彼は救世主なのか?。。彼の扱いを巡り、大司祭は、そして議会は、またローマの総督ピラトはどう動くのか。立場の違う人々の色々な思惑を絡ませながら、イエスの運命が決まっていきます。。。

▪️Overview (映画. comより)
「白き処女地」に次ぎ「地の果てを行く」に先んじて製作されてジュリアン・デュヴィヴィエ監督作品で、脚本はデュヴィヴィエが僧会会員ジョゼフ・レイモンと協力して書卸した。出演者は「罪と罰(1935)」のアリ・ボール、「地の果てを行く」のジャン・ギャバン及びロベール・ル・ヴィギャン、舞台出身の人気女優エドヴィージュ・フィエール、「白き処女地」のアンドレ・バッケ、「商船テナシチー」のユベール・プレリエ、「栄光の道」のジャン・フォーレ、「地の果てを行く」のシャルル・グランヴァル、舞台から来たリュカ・グリドゥー、ジュリエット・ヴェルヌイーユ其の他で、撮影は「地の果てを行く」「白き処女地」のジュール・クリュージェが主任として当たった。音楽は「ドン・キホーテ(1933)」「母性の秘密」のジャック・イベールが担当している。
色々な事を端折り過ぎて、いきなりイエスが現れて、裁判にかけられ、磔に処されたようにしか見えない。

この映画の制作費は、カトリック信者からの寄付で賄われた為、こうせざるを得なかったのかも知れないが、例えばいきなり磔のシーンから始めて、そこに到るまでの経緯を、前日譚的回想で追う形でも良かったのではないか?だが前述の通りカトリック信者の寄付で作られている為、聖書に忠実に拘ったようだ。

本作はマタイによる福音書の二十六章から二十八章までを中心に描かれているが、なるほど、確かに再現度は高い。しかし、聖書にはそこまで仔細瑣末な所まで記述されていないし、これはあくまで商業映画なのだから、もう少しキリスト教関係以外の人にも楽しめる工夫が必要だったのではないか?歴史物としても、宗教物としても中途半端と言うか、消化不良な出来栄えの作品となってしまったのが惜しまれる。
pier

pierの感想・評価

3.0
キリストの磔刑から復活まで。
かなりざっくりと進む。
映画としてはあまり面白くない。
モブシーンの迫力は劇場鑑賞必須ですが当然DVDで鑑賞。話は誰でも知ってる内容なので残念ですがあまり面白くありませんでした。ジャンギャバンも少ない登場で勿体ないです。
Sashiwo

Sashiwoの感想・評価

4.3
イエスがスクリーン越しにこちらを見ているとしか思えなかった。結末を知っている物語の映画をみると時間感覚が変わることに気づいた。誰もが知っている強烈なあの画に向かってストーリーが進行する。この主題はカメラとの相性が良い。冷めた目で再び見直したいけど、そんなことできる?
KAYU

KAYUの感想・評価

-
ローマ帝国支配下のイスラエルにイエスが現れ救世主として歓迎されるも、帝国側に処刑される。総督ピラトは妻の意見もあってイエスを無罪にしようとしたが、部下や民衆がそれを許さなかった。イエスの死から復活までの話。

このレビューはネタバレを含みます

惜しいっ!実に惜しいっ!
[聖書]の福音書をなぞってはいるけどね。
全く[聖書]に忠実では無いね。残念!
まあ映画なんで、オッケー(*^ω^)ノ

ティベリウス・カエサルの治世。
ユダヤの総督はピラト。
ガリラヤの領主はヘロデ・アンテパス。
あと宗教指導者たちね。パリサイ人とかサドカイ人とかエッセネ派とかは、着ている装束や付けているモノを見れば一目瞭然。分かりやすいね。

物語はニサン9日から始まる。
イエスの磔刑がニサン14日だから5日前からだね。
[聖書]で言えば、マタイ21章の記述からね。
イエスがエルサレムに勝利の入城をされるんだけど、スタスタ歩いてっちゃう。いやいや、雌ロバに乗って入城しなきゃダメでしょう?!
それにイエスの母マリアはこの時は一緒にいなかったんだけどね(笑)

さらにマタイ21章12節と13節。
イエスが『神殿の中で商売』している者たちや(捧げ物用の)動物を追い出すシーンも説明が足りていない。[聖書]に精通している事が前提なんだろうけどね。イエスの行動の理由は、私は分かるが[聖書]を知らない人だと誤解しかねないな...多分。

宗教指導者たちが、イエスをひっかけようとして「人頭税に関する質問」をするのはマタイ22章17節~21節の通り。

そこから、ずーーーっと、はしょって、いきなりニサン13日にとんでるし(笑)

で、過ぎ越しの食事 と イエスの死の記念式の制定 とを混同してますね。これは痛い。

過ぎ越しは、モーセの時代にエジプトに対する『十の災厄』の十番目「初子の死」の時に、災厄がイスラエルの家だけを過ぎ越したことの記念として毎年行っていた祝いのこと。

イエスの死の記念式の制定は[聖書]の主題と関連していて、イエスが地上に遣わされた理由であり、成し遂げるべき事柄の一つでもあるんで、ものすごく大切なわけですよ。
神 と 使徒たちを初穂とする人間たち との間を仲介する《新しい契約》なんだから。

また、知っておいた方が良いのは、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』も[聖書]の通りではないってこと。

当時は椅子なんか使ってなかったんですよね。低い机に右肘をついて、体の右側を下にして横たわって食事してたんで。

さらに、過ぎ越しの時は、苦菜と葡萄酒と無酵母パンだけじゃなきゃダメだし、死の記念式は、無酵母パンと葡萄酒だけなんだよね。それが、鳥の丸焼きとかがドーンと乗ってんの(笑)どんだけ[聖書]を無視しているんだ?!って感じ。

ぺテロが三度否認する場面、
イエスが笑われ、嘲られ、蔑まれ、イバラの冠を被せられる場面、
復活したイエスが、ぺテロに羊を委ねる場面、
など、全部、時系列と背景が[聖書]とは違う。

「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」はどうしたんだσ(^_^;)?なぜ言わないのか。

まだまだあるけど、もういいや。
最後のマタイ28章19節と20節が、そのまんまだったから(台詞としてだからね。当たり前)良しとしておこう。映画だもんね。

※ちなみに、2019年のニサン14日は、4月19日(金)だよ。もうすぐだね。
 スタイルやジャンルに余りこだわらない量産ぶりが逆に災いしてか、今では忘れられた感のあるジュリアン・デュヴィヴィエ監督のなかでも、さらに忘れ去られた感のある宗教映画の1つ。イエス・キリストのエルサレム到着から処刑・復活までを、聖書に忠実ながらもダイナミックに描く。
 豪華なセットと膨大なエキストラを使った大作であり、流麗なカメラワークなどの美点も光る隠れた良作だった。有名な台詞や場面がたくさん出てきて楽しめる。
 
■空間の連続性
 冒頭、ローマ時代の地図「イスラエルの民は自由ではなかった。だがエルサレムの都は栄華を極めていた」というナレーションとともに、町の遠景を描いた書き割りを延々とドリーで映していく。なんと100秒間もの長回しだ。
 終着点の大神殿で画面がディゾルブし、同じ背景をもったセットにショットが切り替わる。ディゾルブの使用は、カットを意識させないことを狙っている。その次も、カットのときに障害物を利用することで、あたかも単に我々の視界が壁や柱に遮られただけであり、カメラ自体はそのまま移動しつづけているかのように見せかけている
 やがて現れる、おびただしい群衆は、その後も画面を支配しつづける。カメラは流れるように、彼らと石造りの背景を画面に収めていき、空間の連続性を保つことで、実在感を与えようとしている。
 
■主役は群衆
 本作の主役はイエスではなく群集なのではないかという印象は、おそらく正しい。奇妙なことに、始まってから当分のあいだ、イエス・キリストの姿がはっきりと見えることはない。品物の並んだテーブルをイエスがひっくり返していくシーンにしても、彼の身体の一部が映り込むことはあっても、映画が見せたいのは浅ましい商人の反応のほうである。
 エルサレムの民は当初イエスを歓迎するが、司祭らに扇動されたり買収されたりして、すぐに掌を返して罵倒の嵐を浴びせるようになり、彼を死刑へと追い込む。劇中における群衆描写は苛烈である。全体のうごめきのロングショットと、個々の醜い嘲笑のクロースアップとを往還することで、その表情は個人でなく群衆全体の表情であることを映画は印象づけようとしている。トーキーの導入がこの演出を強化する。絶えることのない罵声がこの往還に重ねられると、その罵声の主体もまた、個々人というより群集全体に帰属される。理性は失われ野蛮へと退行してしまったかのようだ。
 「その血と責任は我らとその子孫にかかってもよい!」という聖書にもあるセリフは、その後長く続くヨーロッパのユダヤ人差別を予告している。もし本作がドイツ映画だったら、戦後は間違いなく反ユダヤ主義の烙印を押されていたことだろう。
 この頃の映画にはよく群衆が出てくる。エイゼンシュタイン的な革命的群衆か、本作のように権力者にたやすく操作される従属的群衆を描くかに大きく分かれており、作り手の政治的イデオロギーが伺える。本作のペシミスティックな宿命論的世界観は当時の映画によく見られる傾向で、時代的思潮といえそうだ。群集というテーマは、現代では、ネット炎上やポピュリズムの蔓延によって、再クロースアップされている。
 
■イエス
 さて、結局イエスの顔がはっきりと拝めるのは20分以上経過してからだ。
 かの最後の晩餐のシーンである。本作は、ダ・ヴィンチの作品に倣ってシンメトリーの構図でこれを捉えている。ただ、おそらく画面に全体を収めるのが難しかったためだろう、コの字型のテーブルを用いている(それと何故かイエスでなくヨハネが中央にいてイエスはその左手。ユダの位置はイエスの左手だが、これはパンを手渡せるようにしたためだと思う)。イエスにパンを渡されたユダは思わず身を引くが、このポーズもダ・ヴィンチからの引用か。その後も、桂冠のイエスや磔刑などで絵画的な表現を用いている。
 劇中では、何度かイエスの起こした奇跡への言及があるが、彼が実際にこれを行う場面は出てこない(預言はするが)。その意味ではリアリスティックであり、人間としてのイエスを描こうとしたのかもしれない。しかし、イエスの全く動揺しない佇まいや詩的で深遠な物言いは、彼がただ者でないことを表している。ソフトフォーカスはイエスの顔に神聖さを付与するのに役立っている。イエスの神性/人性の描写の相場が分からないので、本作がイエスをどう表象したかったのか自分には判断できない。
 
■聖書の映画化について思ったこと
 本作にはセリフ数の抑制や、表情・演技の大仰さなどに、サイレント時代の名残がまだ窺える。セリフの多くは聖書から引用された、やや芝居がかった言い回しである。
 このようなほとんど神話や伝説のような歴史的事件を描くうえでは、むしろ様式性を前面に出したアプローチのほうが自分にはしっくりくる。というのも、それは本質的に表象不可能なので、「あくまで後生の人間が想像力で再構成したに過ぎませんよ」という体を保つべきだと思うからだ。
 もっと言うと、近代的な意味でのリアリティがなくても、その人物や出来事の実在感が伝わるという確信があるから演劇は成り立つのだと思う(あるいはアイドルのライブを想起されたい。そこで演技しているのはファンも同様である)。つまり、送り手と受け手との間には紐帯があることが信じられており、しかもそれは、あえて「私は信じている」と宣言してしまえば、ただちに失われるようなシロモノである。つまり、両者はエートスを共有している仲なのだ。
 さて、個人がバラバラになった近代社会に生まれた映画は、不特定多数に実在感を抱かせなければならない。この映画は、全体としてみればリアルさを目指している。しかし逆説的なことに、結局そのようなリアリスティックなアプローチでは、聖書の物語を「大して面白くもないフィクション」として扱うことしかできないのではないか。聖書の物語は、最初から信じている人間にしか意味がなく、そういう人たちは信仰というエートスでつながっているがゆえに、表現が拙くても通じるのではないか(むしろ拙いほどよいとすら言えそうだ)。
イエス・キリストの伝記映画はずっと昔に『偉大な生涯の物語』を観たきりだと思う。まだ子供だった。
(いやいや、パゾリーニの『奇跡の丘』を観ている。好きすぎて別物扱いしてしまった。追記。)

1935年と古い映画だが、聖書の記述については当然知っているものとして描かれているので、観る前に福音書を読んでおいたほうがいい。ちなみに、この映画はキリストの受難〜復活(復活の場面は添え物程度。。。)を描いているので、最低限福音書の該当箇所には目を通す必要があるかと。
個人的に原作を読まないと映画が面白くないというのは好ましくないと考えるが、さすがに聖書となると知っていて当然となるのも仕方がない。
歴史映画でいちいち「この人物は〜」「この台詞は〜」「この出来事は〜」と説明しないのと同じようなものか。

序盤、キリストはなかなか画面に映らない。ようやく映ると、照明が当たりすぎていてひとりだけ異様な輝きを放っていたり、陰影がお化けみたいで怖かったりする。神聖さを表現するための工夫だと思うが、逆にこの映画はあくまでも神の子キリストを描こうとしていて、人間イエスを描くことが目的ではないことがわかる。あとカトリックの国フランスだからか、イエスの母マリアの出番が多い。ほとんど語らないが。

何故か宮清めのシーン(神殿で商売人たちの台を倒したりする場面)がいちばんぐっと来た。まるで狂人、そこまでするとはイエス様どんな気持ちだったろうと胸を痛めた。
鞭打ち、磔刑等、痛めつけるところは直接に描かれていなかったものの(窓から見ていた女性は卒倒する)、音だけでも辛かった。この後『パッション』を観る予定だが、耐えられるだろうか。。。
青二歳

青二歳の感想・評価

4.1

このレビューはネタバレを含みます

デュヴィヴィエのイエス伝は受難週。映画の比重がユダヤ人側に置かれているのが特徴。反ユダヤが最も前面に出ている受難劇はメル・ギブソンの“パッション”('04)でしょうが、これは35年フランス製作なので観ていて緊張する。フランスも反ユダヤの機運が高まっていた頃…メル・ギブソンほどの明確な意図があるのかは迷うが、少なくとも“イントレランス”('16)の影響は間違いなくあるでしょう。人間の不寛容を普遍的に描こうとしたのか、それとも時勢に合わせて明確な意図のもとの反ユダヤなのか…

すごい上手い映画。カメラワークはお手本のようでカットもモンタージュが上手い。ユダヤ人の集団心理に熱せられた群衆をパンで撮ったり、ユダヤ人指導者の撮り方も陰謀めぐらせて故意にイエスを誘導する悪どさが明確だし、ローマの権力者はローアングルでわかりやすく“上”に立つように撮影されているし。もちろんイエスも後光さすように効果つけたり苦悩するシーンは横からのショットだったり印象的ですが、何よりイエスを断罪するユダヤ人群衆とイエスをおとしめようと画策するユダヤ人指導者が大迫力。ヘロデなんかのいやらしさもいいんだけど、名もなきユダヤの群衆の狂乱に比べたらオマケ程度。
一方ピラト(ジャン・ギャバン)は法に忠実な統治者として明確に対比されるよう映される。聖書でもピラトは磔刑に消極的だが、そこをとても丁寧に描いている。そのためユダヤ人指導者たちの遵法精神の欠如、ユダヤ群衆の法治主義から外れた人治主義あるいは弾劾主義の愚かさが否応なく強調されていく。

イエス受難におけるユダヤ人による迫害に比重を割いている映画はグリフィスの“イントレランス”('16)、デュヴィヴィエの“ゴルゴダ”('35)、ギブソンの“パッション”('04)の3作でしょうか。ちなみにこの“ゴルゴダ”、フランスですのでカトリック教徒からのドネーションで製作されているようです。
イエスを演じた俳優も戦後親ナチとして投獄されてるしなんとも不穏…
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