我らが門の内にての作品情報・感想・評価

「我らが門の内にて」に投稿された感想・評価

No.9[「國民の創生」への黒人の回答、不必要なシーンのオンパレード] 57点

グリフィスの問題作「國民の創生」よりも先に見てしまうあたりは非線形天邪鬼の本懐といったところか。ただ、それによってこの映画の持つ意味のようなものも理解できて興味深い。

物語は米南部で黒人用学校の教師をやってる主人公シルヴィアが北部に行ってお金を集めようとした時に慈善家の男に惚れられ、再びシルヴィアが北部にやって来たとき男がシルヴィアの従姉妹の家を探し当て、彼女にシルヴィアの家族がリンチ殺人に遭っていたことを告げられるというもの。関係のない登場人物や挿話が多く、ミショーの最も言いたかったであろう"黒人の差別"に付随する問題提起が多すぎる気がする。

映画史的な価値はあるのかもしれないが、単純に映画として見た場合"言いたいこと"のフォーカスがブレブレ。でも、トランプは本作品を見るべき。

追記
やはり、この手の映画の問題点は扱っている内容のデリケートさによって"映画"としての評価を盲目的にしてしまうことでしょ。
世界初の黒人映画監督オスカー・ミショーの映画を初めて見た。『我らが門の内にて』は婚約者に捨てられたインテリの黒人教師シルヴィアの、南部の黒人向け学校での奮闘を描く。映画自体が教育的というか。黒人リンチシーンが有名。

そのあと見た『神の継子たち』は、こちらも人種問題が引き起こすメロドラマ。孤児であるナオミは黒人の子供だが肌が白い。(黒人)学校でのイジメ。黒人に対する嫌悪感から問題を起こし、彼女は修道院に入れられる。数年後、成長し、修道院を出たアンナは、久しぶりに会った義兄に恋をするも実らず、彼に紹介された別の男性と結婚する。アンナは子供を授かるも、肌の黒い子供を義母に預け、ひとりで生きることを決意する。時が流れ、アンナの息子は元気に成長していた。ふと子供が家の外に目をやると、女の姿が見えた。アンナである。しかしアンナは成長した自分の子供の姿をみたあと、どこかへ消えてしまう。映画は川に浮かぶアンナの帽子を写して終わる。
極めて陰惨な映画だが、ホールでダンサーたちが踊るシーンは、物語に関係なく無邪気でエンタメしていた。
紫色部

紫色部の感想・評価

3.0
2018.5.24 アテネ・フランセ文化センター

歴とした事実として動かし難くそこに横たわっているかのような回想シーンの挿入に圧倒される。モノクロームの残酷性と思わず口走りそうになる前半部の白と黒のコントラストもえげつない。リンチシーンの白煙と、逃走/生存のための馬!
AS

ASの感想・評価

3.2
『我らが門の内にて』『神の継子たち』2本立て@アテネ・フランセ
併映「神の継子たち」原題 God's Step Children (1938)
映画としても悪くはないが、それ以上に國民の創生なんかとか比べ物にならないくらいしっかり黒人の置かれた立場というものを描いたという点に歴史的価値がある作品。
國民の創生のアンサー映画、納得
ストーリー構成が、ん?ってなるけど
それよりもこの映画自体に価値があるのだと思った
イワシ

イワシの感想・評価

5.0
超面白かった!オスカー・ミショーの『國民の創生』に対するアンサーとも言われる今作は、様々な社会階層の黒人が登場し、黒人に対するステレオタイプを打破するだけでなく、白人達の黒人へのスタンスの違いも明確に描き分ける。しかし同時に、白人に頼らざるをえない社会的弱者としての黒人という面も炙り出しており、グリフィスの『國民の創生』の内容(技法でなく)がいかに時代錯誤のものだったのだと実感できる。『我らが門の内にて』(Within Our Gates)は一貫して教育についてが物語の焦点になっている。南部の学校の支援を決めた白人の婦人に、友人が反対するのだが婦人は意思を変えない。ここにはオスカー・ミショーの明確なメッセージがあるとともに、教育を受けれるかどうかの決定権も白人に委ねなければならないという諦観も漂う。

イヴリン・プリーア扮するシルヴィアの過去が、本編にスピンオフドラマを接続するかのように回想されるのにはたまげた。彼女の養父母のリンチとシルヴィアが白人男性に強姦される様子がクロスカッティングで並列されるも、ひとつのシークェンスとして統合されずにそれぞれが結末してしまう。
加藤幹郎は著者『映画とは何か 映画学講義』において、「並行編集は正しく使用されさえすれば、いついかなるときでも万人に正しい意味(勧善懲悪)と効果(普遍的秩序)をあたえる映像言語とみなされる。しかるにオスカー・ミショーの名が検討はれねばならないのは、まさにこの点においてである。ミショー映画においては、こうした支配的言説(正統的映画史)に地殻変動が生ずるのであり、それこそグリフィス以降の映画史家たちが長らく記述しそこねてきたものだからである。」(p238)と語っており、事実『我らが門の内にて』の回想シーンにおいては、勧善懲悪も普遍的秩序も存在しない。
リンチと原因となるシルヴィアの養父による裕福な白人の誤射事故は、そもそも別の貧乏白人が犯人であり、養父も目撃者も誤解したまま事態は進行していく。結局、誤解は解けず、犯人に裁きも与えられないままシルヴィアの養父母はリンチの犠牲になってしまうのだが、白人達のリンチを煽るかのように挿入される新聞記事による字幕処理が凄い。この字幕によって、単なる事故が野蛮な黒人による殺人事件に変貌してしまう。まるで、加害者によるリンチを正当化する心のメカニズムを見せられたのよう。ゾッとする。