三度目の殺人のネタバレレビュー・内容・結末

三度目の殺人2017年製作の映画)

上映日:2017年09月09日

製作国:

上映時間:124分

あらすじ

勝利にこだわる弁護士重盛(福山)が、やむをえず弁護を担当することになったのは、30年前にも殺人の前科がある三隅(役所)。解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけた容疑で起訴されている。犯行も自供し、このままだと死刑はまぬがれない。はじめから「負け」が決まったような裁判だったが、三隅に会うたび重盛の中で確信が揺らいでいく。三隅の動機が希薄なのだ。 彼はなぜ殺したのか?本当に彼が殺したのか?重盛…

勝利にこだわる弁護士重盛(福山)が、やむをえず弁護を担当することになったのは、30年前にも殺人の前科がある三隅(役所)。解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけた容疑で起訴されている。犯行も自供し、このままだと死刑はまぬがれない。はじめから「負け」が決まったような裁判だったが、三隅に会うたび重盛の中で確信が揺らいでいく。三隅の動機が希薄なのだ。 彼はなぜ殺したのか?本当に彼が殺したのか?重盛の視点で絡んだ人間たちの糸を一つ一つ紐解いていくと、それまでみえていた事実が次々と変容していく―。心揺さぶる法廷サスペンス。

「三度目の殺人」に投稿されたネタバレ・内容・結末

 罪を罰する法律があり、その最大級が死刑。というのはつまり「死んだほうがいい人間がいる」と言っているも同義であり、合法化した殺人なのです。しかし命を奪う許可とはいったいなんなのでしょう。人間を裁く人間とはなんなのか。「意志とは関係ないところで命は選別されている」とは、自らが知る真実とは裏腹に他人が形式的に他人の命のやり取りを行うことへの疑問がひとつあったのでした。しかし死刑の是非はあれど現実として法律に則って刑罰を判別していく客観的な視点や合理性が無ければ、きっとこの世は無法地帯でしょう。人は時として機械にならなくてはならないのです。大多数が納得する妥協点が無ければ人の命など扱える代物ではないのですから。

 「死んだほうがいい人間がいる」という思考を持つ人間が必ずしも殺人の一線を越えることができる人間というわけではありません。しかしそれを越えるか否かは時として境遇に左右されるものです。人一倍苦労と不幸が重なり信用も無いまま朽ちていく人生もあれば、裕福な家庭で育ち人の上に立ち続ける人生もあります。「生まれたころから死んだほうがいい人間はいる」とは境遇が故に間違いを犯さざるを得なかった人生のことでしょう。命の選別は言わば境遇のランダム性。誰もがそこに辿り着く可能性があります。三隅と重盛の顔が窓の反射で重なるシーンはそんな"私のもしも"として心理を重ねたシーンだったのかなと。もともと少し似てるなと思っていた役所広司と福山雅治の顔ですが、表情から動きまで似てくるのがとても印象的でした。しかし三隈の中の他者に触れたときに重盛はそっと身を引きます。彼と自分では線引きが違うのです。最後、十字路に立つ重盛は殺した三隅を胸にどう進むのか。その無常観には唯一の正しさなど無いのでしょう。
謎がたくさん残るけど、それがよいもやもやでよかった。
現実は綺麗な結末なんてないのだろうなと感じる。
画面のざらざら感が、生っぽくていいと思っていたけど、内容にもそれがあったというか。

三人目じゃなくて、三度目、の殺人は、スタッフロールの時に、自分を殺したのかと思ったけれど、本当にそうなんだろうか。
殺された(殺される)のは誰だったのか。
彼は本当に殺したのだろうか。
十字架は裁くということだったんだろうか……。
色々と考えられる空白が心地よかった。

それから、映像がとても綺麗で気持ちよかった。
空に電線が走っている画面が好きだった。
ハイライトが美しい。


映画が終わった頃に三度目の殺人が終わるところにこの映画の趣旨を感じられた。
三度目が自分を殺すことだったことを感じる空間のシーン。
あの空間のシーンが多かったのも、
三隅の心情を投影したかったのか

「あなたは、器ですか?」というセリフで締められたこの作品。
最初も途中までも終わっても
犯人は分かっていても
劇中では明らかにされず、
モヤモヤと終わった後に感じずには
いられなくなるものになっているのも
この作品の一つの醍醐味だと思う。

心理が好きではない人には
オススメはしない。
久しぶりの邦画にワクワクが抑えきれなかったことはさておき、これは「我こそは読み解けたぞ!」と猛々しく叫びたい映画厨のネタバレレビューがめちゃくちゃ多い作品やろうなあと観ながら思った。(とか言いながら自分もネタバレ注意)
当の本人である被告人が最後まで真相を語らないので、見た目上、答えの出ない終わり方になっている。死刑を求刑する検察官、減刑させたい弁護士、早く裁判を終わらせたい裁判官、大切な人を守りたい被告人。真実を語るべきはずの法廷に一体真実はあるのか。
解雇された工場の社長を殺害した罪で起訴されている被告人、三隅(役所広司)の弁護を担当することとなった弁護士の重盛(福山雅治)。真実を知ることよりも勝利を優先することを信条とする重盛であったが、会う度に変わる三隅の証言を聞くうちにその意図を探ろうと深入りし始める。事件の調査をしていく中で被害者の娘、咲江(広瀬すず)と三隅に交流があったことが明らかになっていく。


真相は、見るものの心情・思考によって形を変える。この映画の本質はそこを明らかにすることで、決して殺人事件の真相を追うためのものではない。
最後に面会室のガラスに映った重盛の姿が三隅に重ね合わされていく映像。それは、三隅=真相が自分自身の眼で見ているものでしかないということを表す。

本質を伝えるという面で成功していると言えるものの、一方でそこに導くまでの過程としては引き込む魅力が薄く、恐らくこのまま何一つ明らかにはならないだろうという予測のとおりに終わっていく。魅力が欠如している理由のひとつは、観客が自らを投影する重盛という存在の希薄さによるものだろう。勝利を最優先する敏腕弁護士の彼が、何故それ程までにこの事件にのめり込んでいったのか、彼が何を求めているのかが分からないのである。その心に寄り添うことが出来ないので、せっかくの幻想的な雪の中の映像なども機能していない。具象と抽象が別々に存在してしまっているようだ。そして、三隅にもこの男のことを知りたいと思わせる魅力がない。彼は何を求めているかを明らかにしてはいけない存在ではあるものの、その心の内に隠された欲望を知りたいと思わせることが大事なはず。是枝監督の映画はプロットらしいプロットが無くとも登場人物たちの生き生きとした表現が素晴らしいが、本作では人物たちが全く生きていないと感じた。
タイトルを含めて、いろんな考え方が出来る映画。
本当のことはさして重要な事ではないのだろうけど、やっぱり気になる。

三隅は本当に神の如く殺されるべき人間を殺しただけのからっぽの器だったのか。
1匹のカナリアを逃がしたように、咲江を解放するためにした美しい殺人だったのか。

死刑判決が出た後の重盛との面会のとき、三隅に後光が刺してるような光の使い方をしてた。
この辺でこの人は神の様にただ裁いただけなのかなと思ったんだけど、、
ううん、難しい。

タイトルの三度目の殺人の意味、これ考えるのが一番怖いなぁ。
きっと三度目は三隅の死刑なんだろうと思うけど、これを殺人とするととても恐ろしい。
死刑制度は司法の名の元に合法的に行われる殺人であると言ってるってことだよね。

考えてみれば確かにそうだ。
三隅の発言からもあったように、裁判官にソの人間の命が委ねられている。裁判長という立場の人は日本で唯一合法的に人を殺すことを決定できる人達だ。
殺されるべき人間を殺すことを決定するのもこの人たちだ。

私達は神じゃないから人間を司法でしか裁けない。
この映画では司法そのもののあり方とかについて本当に考えさせられる。
映画見てこんなに何日も考えたことないってくらい(笑)


あと一つ、最後にいうことはみんな演技めっちゃ上手くて引き込まれる。
役所広司は全く何を考えているのか分からない三隅でしかなかった。
最近はマルちゃん正麺の役所広司しか見てないから余計にね(笑)

あとは広瀬すず!
ほんとにこの子は目の説得力がすごい。
目で語る演技。素晴らしかった。
見たいと思っていた作品。

まずは題名の意味について。
三度目の殺人とは、つまり死刑判決のことだと思う。法廷にいる人間たちは結局真実に目を背け、自分たちの都合を優先させた。その行為が被告人の死へとつながったのだ。それは、一種の殺人的行為といえる。

法廷に参加している人たちにとっては真実を追求することは第一のことではない。しかしながら、広瀬すずや満島真之介らは真実の追求に向き合っているようにみえた。
検事は最後の最後に、そこから遠ざかってしまったかな。

被告人の次から次へと変化する供述により、いろいろと考えさせられた。

全体の雰囲気はとても好きな映画だった。

結局だれが殺したのか、そして真実がどんなものであったのかは明確には明かされない。そこにモヤモヤは感じるが、それも含めて多くのことを考えさせられる作品だったといえる。

もう一度見たい。

「この世界には人を殺せる人と殺せない人がいる」

「ここではだれも本当のことを話さない」

過去に起きた殺人と今回の殺人、三度目の殺人はいつ起きるのかと思いながら見ていました。三度目の殺人は三隅の死刑。さらに、結局、三隅が人を殺したのか殺してないのかは分からないというのがこの映画の大切なところ。

3人とも頰についた血を拭うシーンが印象的で、三隅は当然、重盛と女の子は三隅の死刑に少なくとも加担してしまったからでしょうか。

だれが裁くのか。だれが裁くことができるのか。人の命の重さ、司法、いろいろ考えさせてくれる良作でした。個人的には、最後の面会のシーンでのカメラワークと三隅と重盛の会話に少しゾッとしました。器という表現がいい。
ラカン的な現実界がなぜ到達不可能なものなのかと言うと、人間は言語によってしか現実を語れないのに、しかし一主体の言語という断片性によっては、現実の全貌を捉えることが不可能だからである。ならば現実を語る主体を増やせばどうかと思うけど、たとえ100万の言語によって多角的な情報が集まったところで、たったひとつの核心は依然として言及されないまま埋もれているかもしれない。

真実はあるし、現実もあるが、そこへ真に到達する事は不可能なのである。そんなアプローチをまともに続けていたら気が狂ってしまうと思うんだけど、我々は我々自身の認識と意志と表象によって、各々の世界を、各々の想像界を構築しながら生きているのである。この辺の事はWikipediaにも書いてある。

本作ではそうした現実界の、つまりは真実の到達不可能性に対して、それぞれの人物がそれぞれの想像界を構築しようとしていて、役所広司はひたすらその営みに寄与する存在として配置されていると思ったのです。それぞれの思い描く想像界が、その通りに実現されるような言語を提供する存在。(すべての描写はないけど)検察も弁護士も、ガラス越しに役所広司を見ていたのではなくて、ある意味ではガラスに映る自分を見ていたのではないか。終盤、福山雅治と役所広司の顔がガラスの反射によって同一平面に共存するワケだけど、この表現なんてモロにそれっぽい。

ただし各々が好き勝手に想像界を構築しているワケではなくて、その営みは我々の意識を左右する領域に沿って行われている。その領域こそが象徴界であり、劇中で言うところの「司法の舟」であり、より一般的には「社会」だとか「共同幻想」と考えてもいいのではないかと思う。意識的にも無意識的にも、我々はその領域に従って何かを求め、あるいは何かを見て見ぬ振りをして、想像界を構築しながら生きているワケである。

役所広司は、法廷においても福山雅治の想像界構築に寄与する言語を提供したワケだけど、その後殺人を否定してしまう行為というのは、それは福山雅治の構築しようとする想像界もさることながら、さらには共同幻想の枠組みからも限り無く逸脱したものであろう。だからこそ福山雅治は物凄く動揺すると思うんだけど、僕が心底感動するのは、役所広司が彼自身の(あるいは誰かのための)想像界を構築し始めるに当たって、共同幻想に対する強烈な"NO"を突き付けている点なのです。

僕自身、仕事においては、「真実なんてどーでもいいから、事を上手く進めればいい」なんてかなりのシチュエーションで思っている人間なんだけど、「事を上手く進める」という概念は、仕事的な共同幻想を拠り所としているワケで。どんなに反体制だパンク魂だなどと思っていたところで、結局のところ僕は仕事という実利的関係性の場においては、共同幻想に対する"YES"を前提として想像界を構築していたのである。

しかしながら役所広司は、「共同幻想も真実もどーでもよくて、オレという一主体の想像界にお前は乗っかんのか、乗っかんねーのか」と言っている。ハッキリ言って滅茶苦茶である。滅茶苦茶なんだけど、この力強さは一体何なんだろうと思う。そしてその後、福山雅治も裁判官に向かって"NO"を突き付ける事になるワケで、彼は実利的な利害関係を捨て去ってでも共同幻想を逸脱し、一主体の想像界を支持するのであって、そこにはプリミティブな人間存在が浮かび上がっているように見えたのです。

到達不可能な真実と、それでも折り合いを付けなければならない想像界の間で、必然的に浮き彫りにされていく共同幻想。それに対して"NO"を宣言するという実利性を超えた選択に、僕は思いっきり殺されてしまったのです。すげーよコレ。すげーッスよ。是枝監督こそ殺人罪確定だけど、僕は殺された事によってなお一層生きれると思いました。


last but not least
供述をコロコロ変える役所広司が、各自の想像界構築に寄与する存在である事は示されているワケなんだから、「器」とかわざわざ台詞にして言わないでいいのに。言わないでいいのに!その点だけ超残念。面と向かって「器」とか言ったり言われたりして無事に済むのは、それはもうシャアの亡霊であるフル・フロンタルぐらいやないですか…。
結局真実は、法律の文言だけではなく人と人との触れ合い、営みの中で”自ら進んで”求めていかなければ掴めないということ。伏線はいくつかある。例えば福山演じる弁護士重盛が役所演じる三隅と面会室で手を合わせるシーン。あの場では、三隅のサイコな側面かと思っていたが、『じっくりと手の温もりが伝わる』というのは人との人との心の交わりに通じる。 被害者の娘である咲江(広瀬すず)も儚くも三隅と身体を交えた際、彼の奥にある真実を感じたのであろう。

…しかし、物語は都合良くは進まない。間違いに気付きながら、結果的に長いものに巻かれた検察の女性(市川)、重盛の部下の川島(満島)をはじめ、咲江の思いまでも虚しく紙一重のところでコトの真実から逸れてしまう。

今思うと「食品偽装」や重盛の娘の「嘘泣き」だってそうである。万引きを捉えたスーパーの店員も弁護士である重盛の「名刺」をみて彼を"品定め"したであろう。

三隅『私は器でした…。』

死刑が確定したその後の面談。面会室では重盛と三隅の影が重なり、重盛が三隅の真実に辿り着くことになるが…。三隅は敢えて応えないことで、重盛を真実から突き放した。それは三隅がこれまでに受けてきた『理不尽』に対する彼なりの反発だったのかも知れない。
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