ダイアリー・オブ・ザ・デッドの作品情報・感想・評価

「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」に投稿された感想・評価

流行りのモキュメンタリーをゾンビ映画でも。誰がやるって?やっぱロメロか〜!
攻めてるね。
新3部作と言われる中で1番好き!怖くはないけど(笑)!
みゆ

みゆの感想・評価

2.7
とにかくカメラを手放さない。仲間が襲われてもずっと撮ってる。助けてあげて~危機感を持って~って思いながら見てた。変わったゾンビ映画という印象。
小夏

小夏の感想・評価

2.3

このレビューはネタバレを含みます

大学生の一行が主人公。
ビデオで常に記録を撮り、それを世界に流すため、動画サイトにうpしようと頑張る作品。

途中軍の部隊に会いほっとするが、追い剥ぎに遭う。王道展開。

ラスト友人の豪邸に行くのが印象的。

シェルター付きの豪邸とはまた便利な友人がいたものだ。

*ゾンビメモ*
走らないゾンビ。
ぴのふ

ぴのふの感想・評価

1.0
テレビつけていたら始まったのでなにげなく見てしまった。。
YouTubeの映像に日本人設定が出てきたww
東京ももうダメです、だって。。
一人で車に乗っていった女の子はどうなったのかな、、、
しょう

しょうの感想・評価

3.5
POV撮影がメインとのことだったが、途中からカメラは二台になるは監視カメラの映像を使い始めるはでほとんど意味がない設定だった。映画のテーマは報道や映画の客観視点の問題を訴えるもので、そのためのPOVなのだろうがもっと活かせただろうにと思ってしまった。続編でサバイバル・オブ・ザ・デッドという作品があり、そちらを見たことがあるのだが、つまらなさ過ぎて内容を忘れてしまった。
ちょっと内容忘れかけてるけど、撮る事に執着してるアホにうんざりしたのは覚えてる。
そう思わせるのが狙いだろうね

2017
ゾンビ物は飽きたし、POVは酔っちゃうので苦手なんだけど、今さらながら「ロメロファンとしては観賞せねば」と思いたち、ブルーレイをレンタル。
主人公たち一行が友人の豪邸に籠城しながら、まるでドアや窓を補強しないため、ゾンビたちが邸内に入り込んでくる脚本は変。周囲はゾンビだらけだとわかっているのに危機感足りなさすぎだろ。
だが、さすがゾンビ映画の巨匠ロメロ監督だけあって、類似作品と一線を画す、いい雰囲気を出していた。
モキュメンタリー風ですか。
ウーン。ゾンビ映画でモキュメンタリーは余り好きではないかな?
まぁロメロ御大が好きなのでこの点数で。
ゾンビ映画。
この言葉が人々にポップな印象を与え、軽さすら匂わせるようになったのはいつからだろうか。言うまでもなく、その言葉の根っこにいるのは間違いなくジョージ・A・ロメロであることに異論はないだろう。
しかし、キッチュさや作りやすさから粗製濫造されることで「ゾンビ映画」がーー時にはその父の名すらが望むと望まないとに関わらず俗物化していく中で、しかし当の「ゾンビ映画」の父はあくまでストイックと言っていいほど真摯にゾンビと向き合い続け、その可能性を見極め続けていた。

モキュメンタリーの手法をホラー映画に持ち込んだのはこれが初めてではないし、全編通してこの形式のものがあったかどうかはともかく、ゾンビ映画においては部分的に使われていることもあっただろう。
しかし、ロメロがこの手法を選んだことには間違いなく「ホラー映画としての恐怖感・臨場感」ということ以外に理由がある。あるいは、その「ホラー映画としての恐怖感・臨場感」を使って現実の恐怖を投影させようとしていたのだろう。

はっきり言って、これを娯楽映画として観るにはあまりに真面目に作られすぎている。「新感染(やりたい邦題)」でもヨン・サンホは社会性を盛り込んではいたけれど、その映画の在り方はもっと大衆に目を向けたエンターテイメントのフレームに収まっていた。けれどこの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」は、それよりもむしろ観ている観客への疑義を呈しているようにしか思えないのだ。
無論、だからといってつまらないとか退屈だとか、そういうわけではない。


本編開始数分で「ジェイソンなる学生の記録した映像をその恋人であるデブラが編集を加えたものである」ということが説明され、そこに警句としてのデブラの行為があることからもうかがい知れる。
つまり、撮影るということの傍観者然とした佇まいに対する自己言及というか自責のようなものが、この映画にはある気がするのだ。もっとも、この自責が指し示すのはロメロ個人だけではなく、文字通り日本も含め全人類に向けられたものだのだろうけど。

たとえば人を殺すという行為について、ゾンビという媒介を置くことで殺す側の人間を相対化する。そして「人を人と思わないと殺せない」というようなことを劇中の人物が発する。

この映画が公開された2008年、おそらく撮影が始まったのがそれよりも前であることを考えると2006年から2007年の世界の情勢を考えてみると、なぜ「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」という映画が作られたのかが、見えてきそうだ。

2006年はまだイラク戦争が活発だったころだ。ロメロはこの一つ前に「ランド・オブ・ザ・デッド」を撮っていて、そちらでイラク戦争におけるアメリカ国内の状況を写し取ってはいたわけですが、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」ではその先に視座を据えているように思えるのです。
岡本健が言うようにゾンビというものと他者性というものを関連させるのであれば、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」はそれが顕著に現れた映画と言えるでせよう。
上で述べたこともその一つですし、本作で終盤までカメラを回しっぱなしにしているジェイソンの行為そのもの(あるいはそれを突きつけるかのように彼の友人が彼に向かってカメラを向けていたりする)もそうですし、黒人の州兵がリーダー務めるグループに車を襲われたときの、映像からわかるジェイソンの立ち位置など、(安全圏から)撮影ることを悪い行いともとれるように描いています。実際、終盤のシーンでもはや「風立ちぬ」的なテーマに近接するあの行為などは、はっきり言って異常でしょう。

もっとも、そのジャーナリズムのようなものを貫くことでこの映画という形に帰着するわけで、責任に向き合ったとも言える。
つまり、これがモキュメンタリーであることの意味が、作品の伝えようとすることのテーマと密接につながっているのです。

途中、ケータイで東京の女性が助けを訴えるシーンが挿入されるのですが、なぜ日本なのか。それは「日本でさえ」という台詞からも読み取れる。何が日本でさえ、なのか。映画の中における日本でさえという台詞は、島国である日本にもゾンビがいる=ゾンビから逃げる場所がないことを示唆していることは明白です。

ゾンビが大量発生するという世界的な病理を、つまりはどこにいようと世界で起きている病理から逃れることはもはやできないのだとロメロは言いたいのではないだろうか。
しかし、噛まれずとも普通に死ぬだけでゾンビ・・・リビングデッドになるというこの映画の世界は、もはや世界的病理を超えて世界に呪いがかけられたといってもいいかもしれない。


まあ、実のところ台詞で全部説明されるんですが。「えー科白で全部言うのかよ、台無し」と思う人もいるかもしれませんが、しかし、これはあくまでモキュメンタリー形式であり記録として語り手(映し手とでも呼ぶべきだろうか)が意見を述べることに違和感はないのでモーマンタイ。
hatahei69

hatahei69の感想・評価

2.9
流行りに乗ってPOV風にしようとしてるけど、臨場感も怖さも半減。弓矢萌えたのと、酔っぱらいのクセに教授が強すぎて笑えた。
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