トゥルーマン・ショーの作品情報・感想・評価・動画配信

トゥルーマン・ショー1998年製作の映画)

The Truman Show

上映日:1998年11月14日

製作国:

上映時間:103分

3.9

「トゥルーマン・ショー」に投稿された感想・評価

Cagliostro

Cagliostroの感想・評価

3.7

このレビューはネタバレを含みます

まるで動物園の動物の気分。この世界が作り物なのではないかというマトリックスに似たハラハラを味わった。コメディなのに笑えない怖さがある。
トゥルーマンが人生を楽しそうに生きている分だけ奥さんとの会話や親子の再会が恐ろしくみえる。特に親友の相談シーンはつらい。ラストの監督の神様感も憎らしかった。
最後のお辞儀は痛烈で爽快。トゥルーマンの人生の第二章は本物であって欲しい。In case I don't see you good afternoon, good evening and goodnight!
kawauso

kawausoの感想・評価

4.0
面白かった。
自分の人生そのものがテレビで流されてて全部シナリオ通りという。
CMも入ってるから途中で飲み物とかドーン!って宣伝してきててわらた。
ジムキャリーもなんでここでそんな話をするんだ!って怒り出して…面白かったな。

このレビューはネタバレを含みます

言葉にはできんけどいままで見たことない感じの映画。最後主人公が脱出した時に視聴者がすごく喜んでるの見てほっとした。
煌

煌の感想・評価

4.3
この映画を二度と初見できないのが悲しい。記憶をなくしてもう一度観たい物語。
zzZ

zzZの感想・評価

-
コメディホラー映画
この手のタイプの映画は苦手かもしれません
びば

びばの感想・評価

3.9
プロデューサーの全能感こわってなった

毎日同じルーティンこなしてるだけやな〜って感じた時この映画思い出しそう
おもしろかった
うめ

うめの感想・評価

4.5
最初の普通の生活がいっきにに変わるのが面白かったです
ポップな感じだけどやってることは結構酷くて主人公からしたもはやホラーでした
「番組の批判は少数派」ってイカれた国だなぁと思いました

お風呂に入ってるおじさんが好きです

一人の男性「トゥルーマン」はごく普通の男性のはずなのに、その様子は24時間365日全世界に配信されていた!という話。なんとなく、エマワトソン主演の「サークル」を見た時と同じような気持ちに。

この映画が撮られた当時はSNSなんてまだなくて、自分の生活を誰かに見られるなんて事は想像もつかなかったはず。映画の中では、個人の生活が全世界に配信されるという設定自体がファンタジーっぽいが、2021年においては特段珍しいことではない。今見て思うのは、こんな状況が普通じゃなかった時代にもう一度戻れたら、なんで楽なんだろうってこと。「思い出を記録ではなく記憶に残す」という自然体でフリーダムな考え方の下、もっとのびのびと生きられてたんじゃないかって。

トゥルーマン、シルヴィアと結ばれてることを願います。
bluesmoke

bluesmokeの感想・評価

4.0
トルーマン(ジム・キャリー)の生まれ育った人工的な世界は、ほとんどそのまま僕たちの生まれ育った世界の人工性をよく表しています。人間の様々な心理現象や社会現象が、この1人の人間を中心とした壮大な仕掛けのなかに幾重にも象徴されている。つまりここに映し出される現象はすべて、僕たち1人1人の内的な現象そっくりそのままだと言えます。

テレビの視聴者の視線は僕たちの自意識の視線そのものであり、自分自身を見放すようにチャンネルを変えようとする衝動をいつだって僕たちは心の視線として持っている。勝ち組/負け組、リア充、隠キャ/陽キャなど、そのときどきに流行っては廃れていく価値を測るまなざしは、すべて外側からもたらされた内的な視線です。

そのように文化や社会規範のなかで視聴者という内的な視線をエンターテインさせながら、システマチックに消費されていく心と命。そのことに不吉な違和感を覚えたトルーマンは、だから海を渡ることになります。

彼の渡った海は、かつては母親の胎内や親の庇護からやがては社会的な文化規範から欲望までを包み込んでいます。それは自分を自分として認識するアイデンティティの陸(おか)から離れた外海(そとうみ)とも言えるものです。

だからこそ彼の乗ったボートが世界の果てにぶつかったとき、その音がこだまするのを僕たちは内的世界に聞くことになる。そのときトルーマン(Truman)は、リアリティ番組としてのトゥルーマン(true man)をやめてほんとうの人間(true man)となる。そのとき僕たちは、映画を観る鑑賞者であることをやめてほんとうの僕たちに出会う。

僕が他の誰かのレビューを読むときに最も気にかけるのは、この外海(そとうみ)を渡った言葉かどうかです。もしもその海の存在を知りながら渡っていないとしたら、大丈夫渡ってもいいんだよと言いたくなりますし、その海の存在に気づかず視聴者向けの価値のなかに終始しながら、海を渡る者をどこか見下している類(たぐい)のものに接するとたいへん苛立つことになります(この種の人間は馬鹿みたいに数が多いです)。

いっぽうそうした視聴者の目が届かない世界の果てをレビューの言葉が破るとき、言葉は言葉でなくなるかもしれないし、映画は映画でなくなるかもしれない。けれどその裂け目の外にしかほんとうの言葉はありませんし、映画という象徴世界をほんとうに歩いたことにはたぶんならない。

有名な解説の言葉に、名もなき1人の言葉が負けてはいけないと僕が思う根拠はここにあります。

そしてまた真の意味で倫理的に生きようと思ったとき、外海(そとうみ)の果てで世界が崩れる風景を見なければきっとそれはかなわない。人間はいつでも世界の果てまでたどり着こうとする内的衝動を宿命的にもつ生き物であり、倫理とはそのように社会システムを超えていった風景から還ってくるなかにしか生み出されない営為だからです。

またそれは倫理だけではなく、あらゆる文化的に形成された欲望に関しても同様のことが言えます。果てまでたどり着いたうえで還ってくる。トルーマンもまた抜け出した先の社会へと還って行くことになったように。

すぐれた鑑賞者はそのため、価値判断をできるだけ遅らせる傾向があるように思います。ぎりぎりまで遅らせて、象徴世界がどこまで自分を連れて行ってくれるのかを見届ける。そしてときには言葉にならない言葉を書き記す。

そのような言葉ははっきりと輝いていますし、そこだけが重力や磁場を変えたように異質な世界を作っています。たったワンフレーズであってもたった一言だけであっても。そして僕はこの人もトルーマンと同じように見たんだと思うことになります。そのようにして見つめられたものは、レビューという言葉の外海(そとうみ)にはっきりと表れます。僕はそれを見つめこれまで知らなかった風景を見せてもらうことになる。

言葉の本質はコミュニケーションツール(手段)ではないと僕なりに感じるのは、こういう感覚から得たものです。言葉は言葉の外海(そとうみ)を渡ったとき、言葉であることをやめて世界そのものになる。

ですから映画について言葉を書くことは、映画に映し出されたポートレイトを描くことにほとんど等しいはずです。そしてそのとき僕は、詩人の言葉がほんとうであることを知ることになります。

私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

谷川俊太郎『女に』より
自分以外全員作り物なんじゃないかと考えた事はあるけど、まさか映画になっているとは!
誰かが作った世界だから、その人の意図どうりに物事が進んで、自分すらも疑うことなくシナリオ通りに生きていく。
それだと自分のことが分からずに一生を終えるってことだよなぁ。トゥルーマンは自分を知るために外に出る決心をしたんだと思う
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