セカンド・サークルの作品情報・感想・評価

「セカンド・サークル」に投稿された感想・評価

BON

BONの感想・評価

4.5
ソクーロフの宇宙。泥水を溶かしたようなセピア色がフレームを埋め尽くす。果てしなく続く暗闇と沈黙のセッション。死との邂逅。

父の死を受け荒涼とした町に戻ってきた男が、物質となってしまった父親を埋葬をするために最後の親孝行をしようとする姿を描く。

交通機関を呼び、近所の警察官を待ち、死亡証明書を受け取り、葬儀に必要な道具を注文する。雪の中で死体を洗う。葬儀屋の女と小競り合う。

白に染まった猛吹雪。ノスタルジックな踊り場、窓の外から見える夕焼け。乱雑にゴミが積まれた貧しく荒廃した部屋。毛布にくるまれて目が開いたままの父親の亡骸。それが横たわる汚れたベッド。むき出しの冷たい床、古びた壁。

「我より先に逝く親しきものは幸いなり」というメッセージで終焉を迎えるラストシーン。死への憧憬と、人生の憂鬱がフィルムに収められ、言葉では表現しきれない無音の世界が広がった作品だった。
全く記憶にないがうろ覚えの記憶だけ取り出すと心霊ビデオみがある。
退色が進んでいて、、、、ソクーロフの作品がこないに変色していると、さすがに持ち味がよくわからないかも知れん。
不機嫌な葬儀係のオバハンとのやりとりに笑ってしまったな、、、
こんな言い方が可能であるなら、ミニマルかつ幻想的な映像宇宙。
ズビャギンツェフがタルコフスキー をより明るく、社会的テーマを孕んだ形で発展させたとするなら、ソクーロフはタルコフスキー の映像の陰鬱な側面をよりマニアックに、ミニマルに、拡大した感じだと思いました。
「この映画は今のソ連を象徴する」という監督自身のコメントを聞くまでもなく、あらゆる暗喩に満ちていることはじゅうぶんに窺い知れる。老いた父の孤独死。息子である青年と他者との会話・やりとりがすべてどこかちぐはぐで不思議の国ならぬ不気味の国に迷いこんでしまったかのよう。
話じたいはシンプルで映像に集中することができた。ソクーロフ作品は、とくに人物のショットの力強さ美しさにドキドキさせられる。医者とのスリーショット(真ん中の人物はどう見ても子供ではないか?)、父親の深く刻まれたしわ、カメラが回ってるのか静止画なのかわからないほど長回しの横顔…

浴室に積まれたゴミが生活道具のすべて。雪吹きすさぶ極寒の中、水道も止まり、何年もの垢と臭気を溜めこみじっとりと重くなった薄いふとん。すべてが荒んでおりすべてが遣る瀬無い。ソクーロフは他の何にも似ていないと思う。すばらしかった。
カラン

カランの感想・評価

5.0


2005年にペドロ・コスタが映画美学校で、ということは私が今いる場所の階下で、ハロー filmarks! 行なわれた講義でジル・ドゥルーズを引用しながら映画撮影について次のように述べている。


「老人とは自分であること以外、何も必要としない人間のことである。」 私たちが老いるときには、ただ老いているだけなのです。老いることは、ある方法で世界をより注意深く見つめるということです。誰かを誘惑する必要はない。つまり、エフェクトも必要なければ、あたかもそうであるかのような振りをする必要もないのです。少しだけ老いること、それでしかない状態になること。映画にたくさんのエフェクトを用いたり、人の気を引くための目配せをしないこと。




ソクーロフ⑥

社会への、他者への関心も憂慮もなく、老いし者はただただ老いていき、他の何への配慮も忘れ、自分が見ていることを知らずに見つめ続けて、全存在が眼差しそのものと化した小さな幼児のように、集中しろ! 見ろ、動くな、エフェクトをやめろ、眼差しに同一化しろ、それが映画撮影だ。その時、映画は真実を映す、そんな風にペドロ・コスタは言いたいのかもしれない。『セカンド・サークル』でソクーロフが用意した死体とは何であったのか、それはこの「老人問題」の先に、きっと、見えてくるであろう。


☆「AはAではない」

AはAではない。だからこそ、ペドロ・コスタは「老人になれ、集中しろ」と言うのである。上の引用部に続いて、ペドロ・コスタが「金と交換」の話をしているのは偶然でも思いつきでもないだろう。金とはそれ自体では何ものでもないものである。そして交換とはAがAでない場合にのみ可能な行為である。まあ、ゆっくり考えてみよう。

私はいつから私でなくなったのだろうか? おそらく、私が産道を潜り抜けた時には、そうなっていたのだろう。それで私も他の皆と同じように泣き叫んだのだろう。そして、私は今後、いつなのか知らないが、自ら以外の何に対しても関心をなくし、私が私と重なり合う瞬間に向かって接近していく、そんな人生のグラフを描くことになるんだろうか。

皆さんは考えたことがありますか? この世にあるものは、それ自身ではないのだと。私は昔、「あんこ」と呼ばれていた、今は《老人》として消えていこうとしている父と母から。だから私も「あんこ」と自分のことを呼んでいたらしい。しかし私は「あんこ」ではない。あんこは私が食べたい食べたいと両親にねだった食べ物だ。では、あんこはあんこなのか?違う。プラトンの考えたようなイデアとして、あんこがこの世に存在したためしなどない。これからもそうだろう。イデア論の逆に唯物論を究極的に推し進めるならば、「あんこ」という言葉は、あんこ、あの甘いやつ、もろとも、この世から消滅する。

私はあんこではないし、私は私ですらないのだ。私が話を止めようものなら、すぐさま「私」はあなたに奪われる。まるで聖体拝領とでもいった調子で「私」を譲渡して、世界は回る。そう、世界はそれがどんなに鈍重で、静止しているように見えても、自己同一性を拒絶し先送りすることで、そこに存在するのである。この世は動いている。決して止まらない。世界が静止するのは、死の時である。死ぬ時に、この世は止まり、自らに帰るのだ。AがAになるのは、したがって、老いを重ねる漸近線的な運動においてであろうし、Aが過不足なくAに落ち着くのは、死、においてのみとなるだろう。


☆老人は姥捨山に捨ててこい。死体は、その死体っぽさをなくすように配慮を重ねて、服を着せて何重にも包んだら焼却しろ、絶対に死体がこの世に転がっているなんてことは許さんぞ!(ソ連、あるいは現代社会の管理者)


配慮、憂慮、他への関心を捨て、世界に無頓着になることを代償にして、自分自身へと回帰すること、集中すること、それが老いであるならば、そして、老いの究極が死であるならば、死とは究極的に自ら以外に何の関心も持たず、究極の自己同一性が実現した状態ということになるだろう。ペドロ・コスタは「ヨーロッパでは老人は必要とされていません、日本ではどうなのか分かりませんが。」と言っている。日本でも必要とされていない。この世界が成立するための原理が、全ての要素が自分自身でなくなるということである以上、老人は絶対的に不必要である。何も『楢山節考』の話をしなくても、お分かりいただけるはずだ。そうであるならば、この「金と交換」の世界がもっとも排除しようとするのが、死、であるのも理解していただけるはずだ。


ペドロ・コスタの話をまとめてみる。「老人」になれ、なぜなら、自ら以外の何ものへの関心もなくし、「金」と手を切ることができるから。ところで、この他への関心を失くした、それ自体であるところのものとしての老人の正体は、死、である。では、この死というものは、私たちにとって具体的にどのような存在なのか。


この映画、血が乾いたような赤色のフィルターがかかった画面の『セカンド・サークル』を撮ったソクーロフは「今のソ連を象徴する」と語ったそうな。無論、今の日本である。映画は父の死体を巡る不気味な狂想曲である。検死担当者は入院患者だったら楽だったのにと言い残す。いきなり部屋にやってきた男は、死体を雪で洗えと言いだし、父がかかっていたはずの女医は、カルテもないし、癌ではないが腫瘍だろうと子供に決めてもらっている始末で、女葬儀屋はオルガン付きのオケだとか、父の死体にストッキングを履かせる費用とかと言って金をぼってくるが、金はバスの中で、狂った集団にすられたのだ! 父は土葬にしたいが、上からお読みいたけば肯いていただけるでしょうが、土葬はダメなんですよ、この世界ではね。いつのまにか無理矢理に父の死体は担ぎ出されて燃やされる。巨大な、家並みよりも大きな焼却炉が、赤々と夜闇に火の粉をあげて、映画は終わる。自分は老人でも死体でもないと思っている方、どうぞご覧ください!
なぜこんなに惹きつけられる?あ、ASMRか!っと思った瞬間から脳のスイッチが完全に切り替わりスヤスヤ寝てしまった。
ソクーロフ映画館で制覇したいな
蹂躙

蹂躙の感想・評価

4.2
画質悪すぎて何が映ってるのかわからない箇所が多数...

でも息子の父親への愛が静かな映像のみで100パー伝わった。

キレすぎの葬儀屋さん面白かった。
Marrikuri

Marrikuriの感想・評価

4.9
最初の十数秒でもう秀作だとわかった。主演男優はじめ画面内のすべての「輪郭」が完璧だったから。さすがバレエの国。すてきなロシアを私は尊敬する。

ストーリーのなさ、を正々堂々とリアルに押し通して、その上での精緻でソウルフルな全描写。最後まで、ほぼ一瞬も飽きなかった。
ただ、音楽がエンディングを連れてきたのが、凡庸手法かな。イランの名匠キアロスタミなんかもそうだった。ノーストーリーのまま328分ぐらい続けてほしかった映画だから、そこだけ減点。
obat

obatの感想・評価

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0405 イメフォ
この子はふわっと現れてすぐに消える。
20年前も今も。
長い長い夢を見続けているような。
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