◆原作との相違点◆ ① 主人公マホルカの恋人インは原作ではしばらく書き進めてから登場させるが、映画ではいきなりインが姿をさらす。全体としてインの取り扱いが多い。ユイレじゃなくストローブ主導の、いかにも男性的発案。とにかく女を描いておこう、そうすりゃポップだ、と思ったわけだ。「七回離婚した女」にはとても見えない三十路ぐらいの普通すぎる女優の起用は、映像の説得力をあまり高めていない。もっと貫祿たっぷりに、もっと妖艶にしないと。ついでにいえばマホルカ役も、「七回負傷した」と豪語できるほどの戦場経験(部下たちを処刑までした)を持つ元大佐にはあまり見えずビジネスマン風すぎる。当時ド素人だったユイレ&ストローブだったわけだからプロデュース力は当然足りない。 ② 原作では銅像が「夢の中で」「すべてマホルカ自身(の動く像)だった」が、映画では「空想として」「銅像じゃなく、すべて生身のマホルカ自身」。要するにブロンズ像や石像を用意する力がなく夢路っぽいシュールさを出す余裕もなかったからそうしただけなのだが、サッサと進む歯切れよい短篇映画としてはわりと奏効してる。へたに像を造るよりも。 ③ 原作の重要台詞は映画中にもほぼ網羅されてるが、唯一、「軍事回想アカデミーを建て、その特別棟には若い娘たちを慰安婦(泡姫)として雇い住まわせる」と語られる原作の超ふざけた案は映画では全削除されてる。全削除の扱いを受けたのはこの点だけだ。あまりにも恥部だから省くべし、とユイレもストローブも一致したにちがいないけれど、逆に、そういう恥部こそが風刺小説の真骨頂だったわけだから、「綺麗にすんなよ」と私はちょっと思った。 ④ 云うまでもないが、日記は一人称(マホルカ視点・マホルカ思考が基準)、この映画はモノローグナレーション部分以外は三人称(私たち外野が外側から眺めるもの)。阿呆ブラックな日記思考をどう受け止めるか原作は可笑しみと嫌悪感と恐怖の自由を私たちに与えてくれたが、この映画は単に「ひどいよね。あなたも不穏な気分になるでしょ」の煽りを業務にしてる。劇伴ふくめて。想像も解釈も広がりにくい。つくづく映像は私たちの空想力を育まないなぁ。 ⑤ ラストのインの台詞は、原作ではマホルカの腕に手をかけて、おそらく気持ち的にマホルカにじかに向き合う(見つめる)感じで言うが、映画では紅茶を注ぎながらマホルカを見もせずによそよそしいぐらいサラッと吐く。これで終わる。あっけない原作以上に、あっけない。紅茶を注ぐ場面は原作では別の部分にある。ユイレ&ストローブの “コラージュ癖” が処女作からこうして暴走し始めてる。コラージュよりも本当はオリジナルが観たいぞよ。