メシア・オブ・ザ・デッドの作品情報・感想・評価

「メシア・オブ・ザ・デッド」に投稿された感想・評価

sho

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3.8
73年のゾンビ作品。謎の伝説がある小さな街で、死者が動き出す…静かで不気味でじめっとした良作ホラーサスペンス。

スーパーマーケットや映画館でゾンビが出てくるが、DAWN OF THE DEADやデモンズとは違った趣きで大変良い。他にも印象的なシーンが多く登場するので必見。
たくや

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3.0
サスペンスホラーチックなゾンビ映画。

女性は行方不明になった父を探すためにとある街を訪れた。その街は夜な夜な人肉を食らうゾンビ達が現れる場所だった…
走らないし、感染スピードは遅いものの、軽く意思を持っている?ゾンビはわりと強いかも🧟‍♂️彼らは集団戦法で人を食べていく。

でもまあ、個人的にはゾンビは意思を持ってほしくはないかなと😥💦
少しでも意思を持ってしまったら、他のホラー殺人鬼と変わらなくなってしまう!
ゾンビは、純粋な食欲で襲ってくる単細胞生物。なにを考えているか分かりようがない。だからシンプルに怖い。
逆に言うと、ゾンビの設定は複雑にすればするほど怖くなくなり、面白くなくなります!
ゾンビにうるさいゾンビ好き野郎ですみません(笑)


文句言いながらも、終わり方はけっこう好き。結局あのゾンビ達は何だったのか?を少し考察したくなる🤔
yaaa

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4.0
疎遠になった父からおかしな手紙が送られてくるので心配になって会いに行く、無駄なエロを醸し出す私という話で、よくある見知らぬ土地で恐ろしい目に遭うやつ。
普通は日常と非日常が、徐々にとか、あるきっかけでとかなのにド頭から不穏な感じ全開。劇中で一番信用出来なさそう奴が主人公の味方したりしてゾワゾワ感増長。まだあるんかい!と思うぐらい不安な雰囲気が延々続く。ラストは「ジョーカー」みたいな感触も。
人が襲われるシーンが無駄に長いが、ある意味見せ場。シュールなコントが余計に恐怖煽る。
画家の父親の家の美術が攻めた洋服屋みたいで金ないけど頑張ってます感出してて、リンチの友達、ジャック・フィスクさんやりますなぁ。
「ハワード・ザ・ダック」が不当に評価されてると思うけど、これ観るかぎりは才気溢れてると思う監督夫婦。
コッポラやジョージ・ルーカス前に恐怖とおしゃれの融合ですよ。と自慢してそう。
蟯虫丸

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3.5
たまたま中古DVDを見つけて購入
古典ホラー好きは楽しめそう 普通のゾンビ映画とは少し違う
1973年から走るゾンビいたんやな
Fケイ

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3.6
音楽も映像もストーリーもサイケ。B級駄作を覚悟でみましたが、最後まで見入ってしまいました。独特の雰囲気で、それなりに良かったです。
ptzkk

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4.1
気狂いピエロゾンビ! 久々、心にビシバシ来た変化球気味の暗黒ゾンビ物。ふつーに怖いし、bad入った。美術のヤル気がなかなか凄くて、恐れ入ったって感じ
記録。終始漂う陰鬱な空気感。
でもパッケージの「ゾンビ映画の決定版」は流石に盛り過ぎで草
e

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4.0
これはすごい。こんなすごい映画が映画史というか少なくともホラー映画史のなかでこんな程度の知名度に未だ留まっていることが解せなすぎる。まずこれが1973年4月23日公開のアメリカ映画だということだ。それが先駆的であり特異的であるということだ。第一にこの『メシアオブザデッド』(「オブザデッド」というのはもちろん邦題のみで原題だと『メサイアオブイーヴル』)という映画はジョージAロメロの『ナイトオブザリビングデッド』(1968)の完全な影響下にある、というかはっきり言うと亜流である、それは間違いない。それは間違いないのだがそれだけではない。それ以外の部分において圧倒的にすごい。でも後の数々の亜流ゾンビ映画との違いはまずこれが『ゾンビ』(1978)の亜流ではなくあくまでも『ナイトオブザリビングデッド』時点での亜流だということで、現在我々が共有するゾンビの定義には当てはまらない部分が多く、人によってはこれはゾンビ映画ではないと言うかもしれない(『ナイトオブザリビングデッド』と同じく「ゾンビ」という呼称はされない)。つまり具体的にはまず「噛まれたら感染してその人もゾンビになる」という要素はない。(というか、これはちなみにだけど、ロメロのゾンビ映画、少なくとも『ナイトオブザリビングデッド』と『ゾンビ』はそうだと思うが、あれには元々「感染」の要素はない。ゾンビといえば「感染」というのが当たり前になって気づきにくくなっているが。ロメロのゾンビ映画では、まず原因不明の「死者が蘇る現象」というのが起きていて、「その蘇った死者は生者を喰らう」というのがあって、そして「その蘇った死者に一部でも噛まれたらやがて死ぬ」という描写しかない。それは何らかの毒か何かで死ぬ、あるいは何らかの菌的なものに感染して死ぬようであるが、いやつまりそれは「感染」には違いないのかもしれないのであるが、「死んで蘇る菌」「ゾンビ菌」的なやつに感染しているというわけではなく、「死ぬ菌」に感染しているわけなのだ。そしてその菌とは関係なく、死んだから蘇るのだ。つまり噛まれたことを理由に死んだわけでなくとも、どんな死因でも死んだ人はみんな蘇る。今現在世界に存在していて形状を保っている死体は全部蘇る。そのように描かれている。そしてそれは「地獄がいっぱいになったからだ」という台詞で説明(?)される。噛まれた時点でゾンビになる要素が内在しているわけではなく、死んで初めてその死と同時にゾンビになる可能性も発生するという感じだ。いつどの映画でゾンビ映画というジャンルにゾンビ菌感染的要素が加わったのかはよくわからない。というかゾンビ映画の前身であるところの吸血鬼映画がすでに「感染」的な、噛まれた時点で「死んで吸血鬼として蘇る菌」みたいな感じだし、ブードゥーのゾンビパウダーだってそうなので、逆にロメロ映画だけが複雑というか変な捻りが入ってると言えるのかもしれないが。)『メシアオブザデッド』のゾンビ、というかアンデッド的なやつは、なんか設定では、曖昧なのでよくわからないが、100年に一度、海辺の町で月が赤くなる、すると住人はなんか奇病みたいなものに冒される(それを住人は待っている)、それに罹った者は目から血を流して顔色は悪くなる、喋れないわけではない、がロメロゾンビと同じ感じで動きはゆっくりでぼーっとした感じで(でも急ごうとすれば走れる)、人肉を喰らう、喋ってるときはちょっと明かにヤバい感じの人という感じで、肉を求めて押し寄せてくるときはロメロと同じように無言、人肉だけじゃなくてスーパーの精肉売場の生肉も喰らう、ネズミとかも喰らう、一旦死んで蘇るのではなく生きた状態からまさに奇病という感じで目から血を流してそれになる、が銃などで明らかに致命傷の箇所を撃たれても効いてないので「もう死んでいる」感がある、「噛まれてゾンビ化」も「噛まれたのが原因での死」もないし「噛まれる」という描写がない、喰われる、喰われた人はたぶん全部喰われてる。という感じだった。こういった、微妙に今のゾンビの定義(というかルール)とは違う曖昧な感じが『ゾンビ』以後の現在に至るまでのゾンビ映画ジャンルと異なる、『ナイトオブザリビングデッド』インスパイア系という趣きを湛えていて、それが逆に、他の安っぽい「〜オブザデッド」映画の類いとは品格が違うという感じがある。で、そのようにロメロの亜流ではあるものの、ロメロのゾンビ映画がドキュメンタリー風リアリティサバイバルアクションみたいな方向性であるのに対してこれは、なんというかミケランジェロアントニオーニがホラー映画を撮ったらこんな感じなのではないかという感じの不条理系表現主義ホラーというか、アントニオーニの具体的には単に実存主義的と括れる表現を超えてリアリズムから遊離してきたころの『赤い砂漠』(1964)『欲望』(1966)のような、というか『欲望』のあの有名なヤードバーズのライブの、わかりやすくポップアート的な表現を映画でやっているシーンや、『太陽はひとりぼっち』(1962)の証券取引所のシーンとかの、あの感じをゾンビを使ってやっているのがこの『メシアオブザデッド』の映画館のシーンとスーパーマーケットのシーンで、『メシア〜』にどう考えても影響されて(観てないわけないし)ロメロが『ゾンビ』でショッピングモールを舞台とした消費社会批判的表現をやったんだろうなというのがわかる。ロメロは『ナイトオブ〜』でもアメリカの人種問題を扱っていて社会派だったが、あれが『ゾンビ』のあれに飛躍するためにぜったいに『メシア〜』を経由している、さらにいえば『欲望』と『ゾンビ』の社会批判表現は繋がっているようには見えないが『欲望』→『メシア〜』→『ゾンビ』だと完全に影響関係が見える。そういうことをやっている映画が『メシア〜』なので、これはアメリカ映画の流れのなかで1973年にあるというのはかなり特異に思える、いや世界(少なくとも西洋)映画の歴史で見ても。不条理で象徴主義的だったり表現主義的だったりする感じがいちばん印象として近いのはイタリアのダリオアルジェントの『サスペリア』だけどこれは1977年(『サスペリア』ほど詩的でも表現主義でもなくてまだまだジャーロ映画の範疇に入る『サスペリアPart2』にしても1975年)で後の映画だ。ちなみに『メシア〜』の表現に近いかどうかは置いといてアメリカのホラー映画史において決定的にその多様性を押し広げた作品ということで『悪魔のいけにえ』1974年、『エクソシスト』1973年12月(『メシア〜』は4月!)。詩的で表現主義で不条理なホラーという種類のものがアントニオーニはさておきこれ以前に何があるかと考えると、まず戦前サイレント映画群、なんといってもカールテオドアドライヤー『吸血鬼』(1932)、あとはジャンエプシュタイン『アッシャー家の末裔』(1928)、ロベルトヴィーネ『カリガリ博士』(1920)、このあたりか。あとは戦後アメリカ映画でハークハーヴェイ『恐怖の足跡』(1962)、ジョンパーカー『恐怖の足跡ビギニング』(1955)、詩的とかとはちょっと違うけど主人公の主観心理がある種表現主義的に視覚化される点でロマンポランスキー『反撥』(1965)、『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)は重要か。これくらいしかこの系譜はマジでないのではないか。ユニバーサルとかハマーとかのゴシックホラー映画も方向性が違う。ヴァルリュートンのRKOホラーもぜんぜん違う。『ナイトオブ〜』の元ネタのリチャードマシスン『地球最後の男』及びその映画化(1964)とも全く違う。ロジャーコーマンとかのホラー映画でエドガーアランポーもの(『恐怖の振子』とか『アッシャー家の惨劇』とか)があるけど、これはもしかしたら近いかもしれないけど観たことなくてわからない、けどたぶんちょっと違う気がする。ドライヤー『吸血鬼』とかアルジェントとかアントニオーニみたいなアンチストーリーっぽい感じがそう簡単にコーマンあたりからアメリカ映画のなかに出てくるものではない気がする。でもあるいはポー原作ものなら、と思うのは『メシア〜』にかなりポーっぽさがあるからで、つまりダークロマンティシズムというやつだ。『メシア〜』の英語版ウィキペディアを見るとラヴクラフトとの類似についてちょろっと書かれていたが、海辺の町で「悪のメシア」を100年待ってるみたいな部分はちょっとそうだけどスパンが100年だしラヴクラフトみたいなコズミックな感じとは違う感じがして自分はやはりポーっぽく思った。この『メシア〜』を作った(監督/脚本/製作も兼任)夫妻、ウィラードハイクとグロリアカッツという二人は南カリフォルニア大学のジョージルーカスの一派(他にジョンミリアスやウォルターマーチなど。一派には『特攻大作戦』の原題「ダーティダズン(汚い12人)」という名前がつけられていてダサい)の人で『アメリカングラフィティ』や『インディジョーンズ魔宮の伝説』の脚本を書いた二人である。インディジョーンズのメイキングドキュメンタリーでインタビュー映像に出てきたのを見たことがある。ルーカスがスピルバーグと『レイダース』の続編を作ろうとなったときにちょうど『アメリカン〜』の脚本を書いた夫妻がインドの邪教を研究していたから「じゃあ次はインドの邪教で行こう」みたいな感じでスタートした、みたいな。インドの邪教をちょうど研究してる夫妻ってなんやねん、みたいなことを思った記憶がある。やべえ夫妻である。そんなルーカス一派のところからまさかこんな『サスペリア』を先取りしてアメリカンな土着神話の雰囲気を持ち込んだオカルティックダークロマンティシズム雰囲気アート映画が出てくるなんて驚きを禁じ得ない。まずタイトル前のおっさんが少女に殺されるシーンが本編と全く繋がってなくてすごい。そこ(とエンドクレジット)だけめっちゃメロウな歌謡曲みたいなのが流れてるし。ここめっちゃ意味不明で不条理でアルジェント感強い。そのあとスーファミみたいな音楽で精神病院で固定カメラ長回しシルエット女の叫びモノローグみたいなのがスタッフクレジットを出しながらのシーンとしてあってこれはこれ以降の本編がここを起点とした回想になるわけだから一応繋がってはいるのだけど本編と別軸ではあるしこういうのもこの時代のアメリカ映画の雰囲気とは違う感じがしてすごい。で基本的に編集がすごい。フラッシュフォワードってことでもないけど一瞬先のカットを一瞬だけパッと見せたりするやつとか、あとラストで天窓をぶち破って侵入してくるゾンビが、窓の向こうに影がいるのをかなり前半で一瞬挿入して位置関係とか何も示されてないから何を意味するカットかもよくわかんないのとかも、ああいうのはニューシネマとかラスメイヤーあたりの影響なのかな(『ワイルドパーティー』が1970年)。アメリカ映画の伝統にのっとった編集っていうのはグリフィス起源の編集で、そもそも映画編集には二種類あってグリフィス起源かロシア理論起源かってやつで、グリフィス起源ってのはいちばんわかりやすいのはポン寄り(しばしばアクション繋ぎで)をやるかやらないかで、やったらそれはグリフィス起源で、あとはイマジナリーラインを基本としたカットバック会話とか、そういうのがいわゆる説話論的経済性的なやつで、例えば日本でいうと小津も黒澤も山中貞雄もグリフィス起源をやる、でも山中の甥である加藤泰は師匠が伊藤大輔なので、伊藤はロシア理論派なので、加藤はそのへんがごっちゃになってるとこが面白い、的なことを某シゲヒコは言っていて、そう言われて伊藤大輔の映画を観るとほんとに全くポン寄りがなくて全カットバチコーンて感じで、繋げることで関係性が生まれる感じに繋がっていて、なるほどなーとか思うのだけど、そんな話はまあ置いといて、『メシア〜』の編集は完全にロシア系のやつで、これもニューシネマと一緒にアメリカ映画に入ってきてるのか、それともそのちょっと後の70年代のルーカス一派がイケイケの先進派だったのか、ニューシネマ系統の映画を色々改めて見直さないと自分にはわからない。ルーカスは南カリフォルニア大学時代はゴダール被れの自称スーパーエディターの実験映画野郎だったしウォルターマーチも近くにいるし。『メシア〜』の編集は誰がやったんだろうと思って調べたら数年後『ロッキー』でアカデミー編集賞を獲る人だった。それが何を意味するのかはわからない。あとこの『メシア〜』は1973年4月公開だけど『アメリカングラフィティ』は同年8月。同じ南カリフォルニア大学の後輩ジョンカーペンターとダンオバノンという後のホラーの巨星も卒制の『ダークスター』公開が1974年とこのまだ1年後。ルーカスの『THX1138』でも1971年だから、この夫妻がかなりの強者だということがわかる。『メシア〜』が正当に評価されてヒットしてたらハリウッド第九世代とかつて言われたあの界隈のなかでもかなりの存在になってたんじゃないか。あと書くの忘れてたけど最初と最後以外も音楽の使い方とかずっと波の音が鳴ってるのとかの音の演出がめちゃくちゃレベル高い。そこも他のこのころのアメリカ映画とは一線を画する感じがある。あとDVDは画質が悪かったけど、例えるなら地方のテレビとかで昭和のウルトラマンとかが放送された時のデジタルリマスターされてない素材が放送されたときくらいの画質なので特に問題なかった。たぶん元はシネスコなのだけどDVDはテレビ用なのかスタンダードサイズに切られていてこれは画面の抽象化を推し進めててこれはこれで良かった。元はきっちりキメキメ構図でやってたのだろうからそこはもったいないけどこれはこれで(画面というのは拡大すればするほど抽象化されて反意味的なより純粋にデザイン的な方向に近づいていく。時間も引き伸ばして遅くすればするほど抽象化される)。と、まとまってないけど寝る時間になったので打ち止めるけど加筆するかもしれないししないかもしれない。年代などを列挙してオタクっぽくて嫌だから加筆とかする以前に消すかもしれない。

一個追記。調べてたら『呪われたジェシカ』(1971)という映画の影響があるらしくて観たことないのでよくわかんないがあらすじ見ると『反撥』系の映画っぽいのかな。あとポー原作もので忘れてたけどオムニバス『世にも怪奇な物語』(1968)内のフェリーニ『悪魔の首飾り』は近いっちゃ近いけどホラーからは離れすぎていてあまり関係ないような感じだ、あれもある種の論理性を感じるし。知性というか、理性というか、作為性というか。ニコラスローグ『赤い影』が1973年で同年だがああいうのもヒッチコック映画に近くて精神分析的な意味で論理的でちゃんと物語なので、こういう反物語的な歪な不条理とは、似ているようでニュアンスが異なる。デヴィッドリンチが『イレイザーヘッド』で出てくるのも1976年でまだ後。

もう一個追記、最後のほうで画家であるお父さんがゾンビ化して「助けてくれー殺してー」みたいになってるときに自分の顔にペンキを塗りたくるんだけどこれが青いペンキであるということは、確実にゴダール『気狂いピエロ』(1965)への言及としてこれをやっているわけだ。「これはそんじょそこらのB級ホラーじゃないぜ。ゴダールとかのヨーロッパ映画の影響受けてるんだぜ」くらいの感じか。そして後のロメロ『ゾンビ』に出てくるゾンビたちの顔が、顔色が悪いというより完全に青なのは、これは偶然か……?

さらに追記、ルーカス一派の兄貴的存在のコッポラの『カンバセーション盗聴』(1973)(編集ウォルターマーチ)がアントニオーニ『欲望』インスパイア系ってことを思い出して、やっぱアントニオーニの存在は当時のUSC&UCLA映画学科界隈に影響でかい。
マチダ

マチダの感想・評価

4.7
『血を吸うカメラ』やマリオ・バーヴァ作品に近いような色が栄えつつ暗鬱で奇妙な良い絵が続くので、もっといい画質で観たい。 ジョージ・ルーカス周辺のコンビが監督のようで納得。
cinemaQ

cinemaQの感想・評価

4.5
スーパーで肉漁るゾンビ集団!映画館に次次に着席していくゾンビ集団!天窓からジャンプして降ってくるゾンビ集団!
いちいちカッコ良い。
火だるまになったゾンビの断末魔の声が凄くてビビる。
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