キートンの探偵学入門/忍術キートンの作品情報・感想・評価 - 3ページ目

「キートンの探偵学入門/忍術キートン」に投稿された感想・評価

すっごく面白い映画にしかできないことしてる
かわいい、無限に見ていられる
夜鷹

夜鷹の感想・評価

4.3
はじめてのバスターキートン。
チャップリンは温和でキートンは冷酷。勝手にそういうイメージがありチャップリンはほぼ全作品見てきたのにキートンは見てこなかった。(そもそもTUTAYAに置いてる所が少ない) 見た感想は、確かにチャップリンと真逆の性質を持った作風ではあるけど、冷酷というよりかは真面目に生きる人間だね。浮浪者や泥棒 詐欺師とロクデナシの怠け者を演じるチャップリンは「こんなにクズな僕だけど笑っていれば幸せなんだよ」的なメッセージが込められているのに対して、必死に生きているのに空回りをしてしまう人を演じるキートンは「どんなにマヌケで不運でも真面目に生きていれば最後には報われるんだよ」的なメッセージが込められていると思う。
チャップリンの笑顔も素敵だけどキートンの真面目な顔も素敵だと思った。

演出面はとにかくロマンチックで、特に音楽が映像とマッチしてる。スタントは噂通り常識を超えていたw
普通のドラマパートはそこそこの面白さだけど、下手したら死ぬようなアクションで魅せるキートンの様には相変わらず舌を巻くし、何より多重露光とか合成を駆使してこの時代に映画の中に入るなんてアイディアを実現してみせたキートンは天才すぎる。
1924年のサイレント映画。

音もない、色もない、盤によっては画質もよくない。作られた年を考えれば、当たり前だが古い映画である。

ですが、

この映画に描かれている内容は、まったく古びていない。

探偵に憧れる映写技師の青年が、夢か現か、上映中の映画の世界に入り込み、悪漢たち相手に大活劇を繰り広げるコメディ。

本当にバスター・キートンのアクションは凄い。オートバイの前方部分に乗っかったまんま、町を、村を、山を疾走する姿は爽快!!

そして、本作の白眉は特撮の凄さ。

現実世界の人間がスクリーンの中に入り込む……、ウディ・アレンが「カイロの紫のバラ」でやったようなこと(こちらは劇中のキャラが外に飛び出すのだが)を、さらにその何十年も前に作った映画人がいたのである。

それ以外にも、これ、どうやって撮ったんだろうと思うようなシーンが連続して登場する。
元々の邦題が「忍術キートン」だったのも納得。

その一方、この映画はどっか詩的でもある。

ラストシーンで、好きな女性を前にして(無表情のまんま)モジモジしているキートンの愛くるしさが良い。

そして、サゲ(落ち)がこれまた最高。あれだけでも+0.1点。
SH

SHの感想・評価

4.0
キートンが映画館で眠っていると、幽体離脱?して分身が映画の中に入っていく、という古くない、というか斬新なアイディア。

キートンがてくてく歩き、高速で走り出す、それだけで楽しいですがこの作品では運転手のいない自転車にまたがって自転車がスーっとはしっていくシーンが特に印象に残ります。画面奥から汽車がはしってくるとことか。

モノクロの映像も好きです。
なかなかDVDを置いている店がなくニコニコ動画で観ました。ハラハラしてめちゃくちゃ面白いです。真顔でスーパーアクションをするキートンが笑えます。
Scopio

Scopioの感想・評価

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最後まで、脈拍が高いところで、スタッカート踏んでるような気分だった。

すんごい!
 チャップリン、ロイドとともに「喜劇王」と並び称せられるバスター・キートンの代表作。
 次から次へと繰り出される、体を張ったギャグの数々は圧巻である。というか、ジャッキー・チェンって影響受けまくっているなぁ……これ見て初めて知った。幼少期から舞台で仕込まれていたキートンは、本作でもスタントを雇うことなく、すさまじい芸当を次から次へと繰り出している(地味なところでビリヤードのくだりヤバい)。スラップスティックの俳優たちの特異な格好に身を包み、不器用そうなキャラクター像を築き上げたのは、自分たちの身体面の卓越性を覆い隠すという意味があっただろう。
 本当にいま見ても笑えるシーンばかりだし、特に終盤の暴走ネタは撮影も含めてすごい。スラップスティックは確かに俳優の身体に大部分を依拠しているという点で、映画以前の芝居文化の名残である。しかし、本作を観ていても、キートンは芝居を拡張するために映画というメディアを使いこなしていたと思う。キートンのアイディアは本人の芝居だけでなく、大小の道具から撮影にも及んでいるし、後述のとおりトリックにも積極的だった。社会性やドラマ性をとりこんだチャップリンとは違って、ドタバタを映画として正統に発展させたのがキートンといえるだろう。
 
■即興性
 喜劇はもちろん古代ギリシャから存在しつづけており、誕生したての映画においても国を問わぬ人気ジャンルだった。しかし、スラップスティックという形で、映画作品として完成をみたのはやはりアメリカである。実際、西部劇とならんで「アメリカらしさ」を感じさせるジャンルだ。思うに、「即興性」という点でアメリカは有利だったのではないか。つまり、欧州人が否応なく参照してしまう歴史・伝統を考慮することなく、アメリカ人はただその場その場の笑いをひねり出せばよかったのではないか。誇張された俳優の運動を面白おかしく見せるのに、ややこしい文脈はむしろ邪魔である。
 ただ、単なる動きのおかしさのみに頼った舞台的なドタバタは1910年代のうちにマンネリ化する。1920年代からは、徐々にそれなりのストーリーをもった中編や長編が撮られるようになり、それがサイレント喜劇の全盛期を形成する。
 
■無声
 このジャンルがトーキーによって衰退していったのはよく知られている。ひとつには、パントマイムそれ自体の面白さはとても繊細なものだった、ということだろう。おそらくこれはリズム(時間性)が関わっていると思われる。
 加えて、喜劇スターは自らをキャラクター化し、大体どの作品でもそのキャラクターを演じてきたわけだが、それが受け入れられるには「無声」がカギだった。トーキーは、映画が現実に近づく決定的な一歩となり、虚構性の強いキャラクターはそこに存在することができなかったのだ。チャップリンが1930年代を通して無声を貫いたのは有名だ。
 
■フレームレートの低さ
 もうひとつ、ドタバタ喜劇がこの時代ならではと思わせるのは、動きのカクカク感である。これは当時の映画のfpsが16しかなかったためであり、やはりサイレントと同じように技術的限界によるものだ。
 当時のフレームレートの低さは、こうしたスラップスティックの俳優たちの運動から人間的な重さを奪う。これは、俳優の動きを軽妙・コミカルにみせるのにほとんど不可欠な条件のように見える。それによって喜劇俳優の並外れた身体能力は目立たないものとなり、その虚構のキャラクター性の面白さが際立つこととなる。こうした通常ならば「欠点」と見なされる特徴が、サイレント時代のスラップスティックを生かしていた。正真正銘の非現実な存在である、カートゥーン・キャラクターにも同じ原理が働いている、と言ってよいだろう。

■イリュージョン
 虚構的なキャラクターとなることで、技術を用いた超現実ないし非現実的な演出にも喜劇俳優はなじみやすくなる。とくにキートンは、『文化生活一週間』もそうだったが、映画ならではのトリック撮影もよく取り入れていた。
 この作品には、中盤に眠ったキートンが幽体離脱?して劇中映画のなかに迷い込むシーンがある。やっていることは単純な二重露出だが、これ相当の精度が求められただろう……。こうした空想的・非現実的なシチュエーションからの笑いもまた、カートゥーン・アニメーションを思い起こさせる。思えば、この2つは勃興と隆盛の時期が重なっているのも興味深い。ただし、カートゥーンはいちおうトーキーを生き延びたが。
キートンの体力、タイミングの良さ、いかなる危険があってもポーカーフェイスで乗り越えるタフさ。ここまでできる人って他にはいないんじゃないかなあ。
最後の照れた仕草がかわいい。
読んでた本に出て来たので鑑賞。一つの完結した作品を見るのは初めてでしたが、とんでもなく面白い!キートンすげー!は当然ですが、撮影もすごい。どうやって撮ったんだの連続でした。見せ方がうまいし、テンポもとてもいい。
それに昔の作品ですが、コメディとしても笑えるし、今回見たのは名探偵ということもあってか格好良さもありました。
他のキートンの作品も見ようと思います。