女は二度生まれるの作品情報・感想・評価・動画配信

「女は二度生まれる」に投稿された感想・評価

leyla

leylaの感想・評価

4.0
売春防止法が施行されて数年後の物語。

靖国神社の近く、九段下の花街で芸者をしている小えんは、芸はないが違反である枕営業で堂々と生きている。
悪気もなく、あっけらかんと明るく男を手玉にとる。
そんな友子が最後に商売女から足を洗おうとする…。

芸者、ホステス、愛人と絵に描いたような女性を演じる若尾文子は、ワガママに逞しく生きているのに、全くイヤらしくも、嫌悪感も感じない。
艶っぽいのに純粋ささえ感じる、若尾文子のすごさ。
着物姿がひたすら美しいのです。

👇以下、ネタバレ含みます⚠️







ただの芸者の話に留まらず、戦争や天皇を色濃く匂わせる演出が際立つ。

靖国神社で会話する身分違いの2人、バックに映る大きな菊の御紋。
その構図の強烈さ。
バックには不穏な劇伴が流れる。
そのシーンで見せる屈託なく話す友子と爽やかな青年とのやりとりが妙に不気味でした。
爽やかな青年が、まるで社会の不条理の象徴に見えてしまった。

劇中でたびたび靖国神社から聞こえる太鼓の音も意味ありげ。

主題の裏に潜む川島雄三監督の反権力の表現が見事です。

ともすれば陳腐になりがちな芸者の話なのに、どのシーンもカメラアングルへのこだわりが感じられて芸術性が高まっていると思いました。

関わった男の娘と遭遇するシーンが2度ある。
芸者の身では手に入らないであろう血のつながりというもの。
そこに友子の不幸が見え隠れする。
さりげなく見せる友子の悲哀の表情。

ラストは突き放す終わり方だった。
そんなところから撮るのか〜って構図がカッコいい。

花の命は短い。
友子の2度目の人生は幸せになれるのだろうか…。
普通に観れたけど
いまいち盛り上がらなかった
自分のよく知らない世界の話
と言う感じでした
kojikoji

kojikojiの感想・評価

3.7
不思議なメロディが不穏な雰囲気を醸し出す川島雄三監督の大映第1回作品。
若尾文子演じる芸者小えんがひとりの人間として成長していく物語。芸者の世界から足を洗わせ、面倒を見たパトロンである山村聰を失ってからの後半、今まで関係のあった男たちと立て続きに出会う。決別。身勝手な男たちだが、彼らなしでは生きて行けなかった彼女。ラスト以前知り合った若い男と長野へ向かい、彼を見送りお金と山村聰からもらった時計を彼に託し、ひとり駅舎に戻る。過去を捨てここで生まれ変わるのか。笑顔がまた物悲しいラスト。ここでも流れる不思議なメロディ。

昔舞台となっているあたりで働いていたので、景色も興味深く、あのあたりが花街だったのも初めて知った。とある薬局が写ったシーンで建物は変わったが当時からあそこにあったんだなぁとか。

個人的には川島雄三監督は今のところ、日活時代の娯楽的作品が好きだが、この作品は芸術的には素晴らしい作品。
「若尾文子を女にしてみせる」川島はそう豪語して大映首脳陣に本作の企画を認めさせたという。一見溝口的な〈男に翻弄される女〉から成瀬的な〈自立する女〉へと再生をとげる女の生涯を描いた映画のようにも思えるが、クリストファー・ノーランがこれを知ったらびっくりしそうな驚くべき仕掛が隠されている、川島雄三がなぜ天才映画監督と呼ばれるのかその理由を伺いしれる1本なのだ。

本作の冒頭シーンでまずは違和感を覚えた方も多かったのではないだろうか。後にパトロンとなる山村聡演じる建築家と、若尾文子演じる小えんが床を並べている。そこに明け方の5時を告げる靖国神社の太鼓の響き。「もうこんな時間か」とコトをおっぱじめようとスタンドの電気を消す山村。朝なのに真っ暗。始なのに終。これを違和感と言わずして何と言おう。

その冒頭シーンに負けず劣らずシュールなのが映画のラストである。持ち金のほとんどと形見の腕時計まで旋盤工男にプレゼントしてしまった友子は、北アルプスの玄関口島々駅の待合室で一人電車を待っている。上高地や乗鞍岳に行った人ならご存じだろうが、島々駅から発車する電車は登りのみ。「おじさんに会いに行く」と言ったのはデマカセで、着いて早々友子は東京に戻ろうとしたのではないか。12歳の時に上京した家出少女のように。

これはある御方のご指摘で気づいたことなのだが、川島は対角線に配した2台のカメラの間に対象人物をおき、それぞれのカメラでとらえたショットを小津の切り返しのようにつなげている。芸者置屋、寿司屋、墓参り、駅の待合室…映画を注意して見ると、まるでテープの逆再生のように同一対象を逆サイドからとらえたショットが、何回も登場するのである。

さらに、映画前半に小えんと関わったすけべぇ男どもを、そのまんま映画後半に友子の前に再度出現させた理由は、映画全体の隠れた二重構造を観客に認識させるための伏線であり、一種の演出だったと思うのである。ループするネバーエンディングストーリー。何故そんな面倒くさいことをわざわざって?それは川島雄三が芸術家だからである。

信州から上京してきたドドンパ娘が、放蕩三昧のすえパトロンに拾ってもらったのも束の間、そのパトロンが急死。一念発起して小唄の名取りになりましたとさ、めでたしめでたし…なんて通りいっぺんの更正ストーリーを時系列に並べたところで面白くもなんともない、というかまったく川島らしくないのである。

〈疎開先から家出↔電車で上京↔初恋&失恋↔小唄の修行↔愛人生活&パトロンの急死↔不見転芸者〉富田常雄原作『小えん日記』がどういう小説なのかは知らないが、絵に描いたような女の転落人生を、映画『メメント』や『TENET』のごとく時系列を逆になぞってみせた非常に技巧的な作品、それがこの映画の本性だと思うのである。

そんなバカな証拠を見せなさいって?それがあるんですよ動かぬ証拠が。ある放蕩娘の再生そのままの映画タイトルこそ、実は天才映画監督川島雄三が隠した謎の答えだったのである。それは、『2度生まれる』の英訳“rebirth”を“reverse”にかけたいたずら心満点のギミック。私はそう確信するのだが、どうだろう。
川島雄三監督は何でいっつも人をケムに巻くようなBGM流すのだ?
 再見だが、こんなに素晴らしい作品だったとは……(初見時には気づかないか見過ごしていた)様々なディティールが、一見とりとめもないような描写のなかで響きあい、いつのまにかすごく重層的な作品世界が構築されているので、すっかり圧倒されてしまいました。これは大傑作だ。若尾文子も、やはり日本一の役者だとあらためて実感。
ラストの、いつもの癖で時計を見る若尾文子様めちゃくちゃ良かった...あの一瞬に魅力つまってた〜!!

全体的にずっと不穏な感じいかにも川島雄三やな...好きやわ...

そして安定のフランキー堺良い
料亭やバーを起点とする男との関係は、ほとんどカネで築かれ、妾になってもそれは変わらない。旦那は病床でもお金と時計を小えんに渡し、彼女を繋ぎとめることを忘れない。初恋の男でさえ、小えんを市場に巻き込む。少年との出会いも、映画チケットの売買である。寿司屋の板前とのデートでも、お金の話が出る。生きることとは、市場に出ることなのではないかと、死の匂いの充満する靖国神社の傍で思わざるを得ないのだ。だが、終盤には小えんが少年に時計を与える。そこに交換の前提はなく、小えんが少年に見返りを求めることはない。ただ、少年の幸福を思ってのことだ。そして彼女は駅でひとりぼっちになる。フレームには一度も現れない叔父の家に、なぜ彼女は戻るのだろうか。それは市場に翻弄されない「家庭」という人間関係を確かめるためだろう。叔父や亡き両親が言葉でしか語られない(例えばフラッシュバックなどで姿を現すことがない)のは、交換を前提としない関係性の不確かさそのものではないか。空間に対する意識は『しとやかな獣』の方がキレキレだったと思う。
未々

未々の感想・評価

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キャプチャ画像を見かけて惹かれて観賞
どの場面も絵になる!画面の色味も美しい
また着物の着こなしが素晴らしい映画

主人公が悲しいと思う話の転換の部分や他の男性の関係性とかそういうのがいまいち分からず後からあらすじ見て理解した
前回に続きまた都合の良い女の映画観てしまった
常に毅然としているから全然惨めじゃないね
Ranma

Ranmaの感想・評価

3.6
女は二度生まれる
一度目は女として、二度目は人間として
女として生まれるのが人間として生まれるより先だと大変だという話
最初から人間として生まれることができる人は恵まれてるのだ
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