息の跡の作品情報・感想・評価

上映館(1館)

息の跡2015年製作の映画)

上映日:2017年02月18日

製作国:

上映時間:93分

「息の跡」に投稿された感想・評価

みた。パンフレットと佐藤さんが自費出版された(だっけ?)本を買った。
震災後の南三陸のタネ屋。おじさんが1人で営む。おじさんは震災のことを伝えようと英語や中国語で書いて書いて本にしている。時々公演とかもしている。小森さんに「映画なんか撮ってても、結婚して辞めちまうんだろ」とか「生活はどうしてるの?どっかの会社とか入ったらいいんじゃない」とか言ったりして、親戚に1人はいるおじさんて感じ。
店の周りの盛土だらけのところとか、ひっきりなしに通るトラックとか、他に店も家も見当たらない所とかを見ると、どこにでもあるような店とおじさんがSFの中にいるように思う。
体に染み付いた動きをする人の姿は見ていて飽きない。
R

Rの感想・評価

4.5

このレビューはネタバレを含みます

きっと素晴らしいに違いないと、小森はるか監督の作品を見たことがないのに、そう確信して購入した。本当に素晴らしい作品だった。映画は一人の被写体と一人の撮影者のみで完成してしまうのだ。それほどシンプルなものなのだ。そして被写体は決して著名人である必要はないし、その人物がいかに優れているかを語る人物も必要ない(私はそういった押しつけがましいドキュメンタリーにうんざりするし、見るのを止めたくなる)。ただ、その人物の姿や仕草、会話する様子で十分だ。たとえその人物が被災するなどの悲惨な目にあっていたとしても。私は被写体と撮影者の関係に感動した。お互いの腹の中を見せながら真剣に向き合う姿に、そして親と子のように、もしくわそれ以上にお互いを信頼している、そして愛していると実感できるから。
Nao

Naoの感想・評価

3.5
陸前高田市のたね屋の店主に密着する。東日本大震災の経験を慣れない英語で残す。語る者と聞く者。自身の栽培技術の特許を”ここに存在した証”と言われてて、知財に携わる身としては感慨深かった。
ふふひ

ふふひの感想・評価

4.5
人の話を聞く、
佐藤さんの話を聞いているのか、小森はるかの話を聞いているのか、

撮る側と撮られる側との、理想的な関係がそこにはあるように感じられた。記録する側と記録される側。そして、記録される側であった佐藤さん自身もまた、「記録する人」である。
「記録する人」とは、そうせざるを得ない人なんだと思う。そうしないわけにはいかない人。職人が良しとされる場所で、書いて朗読する人。希望の種を蒔き、育てる人。
佐藤さんも、小森監督も、私からみたらやっぱり「フレデリック」だ。

朗読する佐藤さんの声が、いつまでも心に残る。
1989年静岡県生まれの小森はるかによる劇場長編映画デビュー作品。

2011年3月にボランティアとして東北沿岸地域を訪れたことを機に画家で作家の瀬尾夏美と共にアートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」での活動を開始。翌2012年、岩手県陸前高田市に拠点を移し、蕎麦屋でアルバイトをしながら本作の映像を撮り始める。

2013.1-2016.6
陸前高田

佐藤たね屋
佐藤貞一

小森監督と佐藤さんの親子のようなやり取りや関係性が、ものすごく微笑ましくもあり、全く重々しい空気を作らずに温かみすら感じる作りになっている。それは勿論、佐藤貞一さんのお人柄による処が大きいが…

こざかしい私の感想などは必要ない。劇中で話される佐藤さんの会話に全てが詰まっている。

それを勝手ながら採録する。

英語で書いた自費出版の冊子を包みながら語る…

佐藤さん
「まぁ一時的にやっただけだからな英語はな…ある日フッてやって、ある日フッと今度は英語をやらなくなる。英語が専門じゃないもんな…英語は試しにやっただけだ…」

「ここさ、サインした方がいいか?サインして売った方が…えぇ?」

小森監督
「売れるかも、もっと」

佐藤さん
「アメリカの人にサインして下さいって言われたけど…断ったわ。オレは全く普通の種屋だし、作家でもないし、有名でもないからサインする意味がないって…サインはしないですって言ったんだ。ふっ…そう思うだろ?まるっきり普通の庶民だ、普通よりやや下の収入の庶民だ…かといって一生懸命生きてんだぞ、分かんでしょ?」

監督
「はい」

佐藤さん
「はいって言った笑笑…ふっはっは」



英語の朗読を終えて…

「津波で何も無くなったけども、精神はあるわけだから、魂があるわけだ!それが"気仙魂"。気仙魂って誰も日本人知らねぇだろ?笑」



佐藤さん
「だんーだん忘れてくるわ人っつうのは…忘れてくるに従って震災の本を一生懸命まとめて書いても、だんーだん売れなくなるわ。よっぽどマニアチックでないと買わねぇわ」

「これは売ることに意義があるんでなくて、作ることに意義があるからな…で、興味がある人には、まぁ売ってもいいんでね…日本ではあんまりいねぇぞ…書いたことに意義があるんでね、そうやって自分に言い聞かせる」



佐藤さん
「だから嬉しくもあり、切なくもあるってオレ、ブログに書いたんだけど、読んだかどうか知らねぇが、そのことを書いてるわ」

監督
「まだ読んでない」

佐藤さん
「読んでないのー?読みなさいよー!っでいいねって書きなさいよ」

監督
「はい」



佐藤さん
「新聞屋さんも亡くなったし、お魚屋さんも亡くなったし、うどん屋も亡くなったし…前の村上さんのウチも亡くなったし、ルミさんのウチも亡くなった…こっちのウチ全部、こっちも全部!いまあるのはコンビニ…んー…24時間のコンビニ…んーぅ…」



苗の特許申請のこと
佐藤さん
「これがオレの技術!技術を作る場合は作為的なこととか、誤魔化したりとか、それやると技術はできねぇんだぇ。ホントのことをドンドンドンドン調べねぇといかねぇとダメだ」



佐藤さん
「被災者同士の比較っていうのは、できないんだよって書いたんだよ。例えば、このウチは、完璧にやられてるわ。オレの店は…こうなっちゃったからね(写真を指差す)オレの店は柱一本ねぇだろ?これ要壁だけは残ってっけども。これどっかのウチの車だぁー、これは、あのー…トイレだ、どっかのウチの…オレのモノは何ひとつねぇんだ。オレここに行って、まぁビックリするってぇか、まぁしょうがねぇって思って、当然泣き腫らしてるわい。なにひとつねぇんだもん。オレのモノなにひとつないでしょ?でー、ちょこっと行ったところに、こう柱が立ってるウチがあったのよ…それ見てどう思ったと思う?ぁーあのウチは柱があって良かったなぁってこう思うんだょ。羨ましいって思うのよ。でも、そうやって羨ましいって思っても、そのウチにとっては柱しか残ってねぇわけだからさ、同じなんだよ、そうでしょ?まるっきり同じく悲しく辛いんだ…でも柱がこう立って残ってるのは羨ましいわって…そう思うわけよ。その気持ちってのは実際被災した人でねぇとわかんねぇだろ?言われてピンッとくるか?こねぇのか…それ書いてんだけどさ、その気持ち…経験した人でねぇとわかんねぇだろーなぁーっでもって…家族を失わなくても、自分のウチとかそういうのは全て無くなった。そういう風な場合でも、生き残ってるからいいじゃねぇか、ウチは家族がいねぇんだよと…いうことで羨ましいと…だけども、私たち被災者は…そうやって人のことを比べあったって、満足するもんじゃねぇのさって書いてたん…決して、単純に比較しても満足するような事ではない。私たちは、全て同じように悲しいんだ…それで、遺体安置所ですべて同じように泣いてるんだと…けれども、それぞれの人々の苦しみっていうのは違っていて、それぞれ深くて異なるものだと…そう書いたの。これをどう纏めて英語で書こうかと一生懸命考えたんだけど、日本語で喋っても意味わかる?わかる?ぁーわかるのか日本語では…英語では分かってもらえてんのかべなぁって思ってさ。いまの話、日本語ではわかんの?ぁわかるって言ってるって…ってことはわかるのか英語でも…」




唯一、被災地から見つかった瀬戸物の湯呑み。
成 事 想 心
という4文字が書かれている湯呑み。

佐藤さん
「たったこれしか残らなかったんだぜ…取手が取れちったよ…18メートル底から見つけた。津波の…よく残ったなぁ…これがいいよね。成る事、心に想いなさい。これ一個しか見つからないのに、成る事を心に想って生きなさいというお告げみてぇなんだろ。すごいだろ?偶然にしては!なんなんだろうね…自分の写真はねぇのにさ、これが見つかるとはな…」



25万円の領収書を見せて
「これ!中国語の印刷代…笑笑これがある程度目処つけねぇとダメだろ⁈ただ原稿は仕上げるよ。こっちの売れ行きをみて、残りが100部くらいになったらば、次…出版しようかと思うんだけど…売れねぇ本だけドンドン溜め込んで、実家に預けておいて…んーそれも意味はあるわね。本作ったという意味では…でも種屋の商品のひとつとすれば、最低の種屋になるわね。売れないモノをドンドン作るということで…人が読まない本なんて意味ねぇだろ?自己満足ではダメだろ?かと言ってなぁ中国語の本なんて日本人だれ読むの?これ?」


佐藤さん
「地元の人が550年、800年、1000年って語っているのは、これは…御神木だからだな。拝むために誇張して言うだ。それを否定してはダメだよ、神聖な木だから。たとえ350年の木でも1000年って言えば、人は、こう拝む」



佐藤さん
「ここはあのー…教育水準の低いところだ。全国的にみて…そして、本読むとかそういった無駄なことをしないで大工とか左官になりよって子供の時からよく教わってる人が多いよ。職人になった方がいいと…だから、気仙大工、気仙の左官、有名だ。あとは、醤油屋とか酒屋、酒職人、醤油職人、職人だ!職人つぅのは学問は、生齧り程度でいい。経験に基づいて技術を身につけるもんだ。やたら、本ばっかし読んでると煙たがれりする場合もある。んな無駄なことするんじゃねぇつって。でも今回震災にあってみて、記録残すような人材いねぇとダメだと思って…その為にも英語で書いたり中国語で書いたりしてんの。それで、後世に津波の記録を残して、それで…何遍も津波に遭うことのないような街づくりをしねぇとダメだね…オレはそう思ってる」

午後の紅茶のミルクティーを飲みながら語る、この志しの高さよ!
こういう誠実な人こそが政を司るべきなのではないか…都合が悪いものは公文書だろうが即廃棄してしまう霞ヶ関の世襲議員共よ…



佐藤さん
「前回も堤防3メートルあったの、高田松原…それが全部壊れたから6メートルにしましょって…で、6メートルの堤防作って、今回6メートルの堤防がクソの役にも立たなかった。今度は、その前で10メートル、12メートルの堤防作りましょってなってる…それで果たして街を防げるのかっていったら、たぶん…また別の問題が起きて、また津波にやられて…しまうわ。オレはそう思うわ。要するに人の知恵とか、そういうのは津波には…んー敵わねぇのかなぁ…そんなこといったら生きていけねぇしなぁ…」



佐藤さん
「売れれば、また…やっぱり読んでくださるんだっていうことが励みになって、誰も読まないのは、どうかなぁ書けないなぁって思うんだけど、読んで分かるよー理解できますね、心動きますよっていうことになると、また書きたくなる。この起きたことを、なんとか書きたいんだよ!書いて残したいんだよ!そういう人が必要なんだよ。今まで書いた人いねぇんだよ歴史上であまり…書いても津波で流されんだよ、ここは!しょっちゅう津波で…いまはネットの時代だから流れるってことはない。どっかの国に必ず残る。津波の恐ろしさは残る。ところが津波でやられるのは、ここ三陸が世界で最も多いとなると…うーん。でもポルトガルで、ポルトガル・リスボン大地震津波というのが、1755年にあって、そこは15、6メートルの津波の高さがあって、高田と同じくらい。国は違えど、地球の表と裏…でも人の気持ちというものは同じ。なにもかにも津波で壊滅してしまって茫然と人が残る!その時、人はどうしなくちゃいけないのかとなると、先ずは心に希望の種を。故郷に復興の種を。被災地に幸せを。これをオレが書いてるのは、種屋の呪文…念仏みたいなもん。先ずは心に希望の種を。故郷の町に復興の種を。そして被災地に幸せの種をまくと…これは種屋の念仏だ。呪文のようなものだ。だからこれはバイブルでもあるんだね。生き残った人のバイブルとしても書いてるだ。津波の記録としても書いてるんだ。そういうことでしょ?だからオレはスペイン語でも書くんだ」



エンディング前の英語字幕の日本語訳

かつて私は、普通のたね屋だった。
しかし津波の後
私の人生と周りの状況は一変した。
私は被災者となった。
青天の霹靂だった。
痛ましい出来事だった。
母国語で書くことはできなかった。
日本語だとあまりにも悲しみが大きくなるから。
"泣きの涙""もぞやなぁ"
どの言葉も感情的で曖昧だ。
不得意だったが、私は敢えて英語で書くことを選んだ。
曖昧な表現を避けるため、そして書くことで痛みから逃れるため。
私はただ事実だけを書きたかった。
最初は1ページだけで終わらせるつもりだった。
しかし書き始めると、どんどん筆が進んだ。
そして英語で書いても痛みは消えないと知った。
だから英語を"伝える"ために使おう。何が起き、どう感じたかを。
震災は私に、とてつもない影響を与えた。
私は必死に這い上がろうとした。
自分の中に大きな力が湧き上がってくるのを感じた。
震災に立ち向かうため、眠っていた力を振り絞った。
津波震災地の最前線で、私はたね屋を再開した。
亡くなった方々の魂が私に宿り、私を行動に突き動かしたのだ。
そしてこの文章を書かせたのだ。



ラストは佐藤さん自らの手でたね屋を解体している姿…
少しずつ原型を留めない姿になるたね屋が、自然の猛威ではなく埋め立てを決めた行政に逆らえない、たかだか人の…偉そうな奴らの権力に抗えない切なさが背中から滲み出ているような気がする。

最後のショットは、自らが空き缶で掘ったという井戸のパイプを空高く引き抜く画。これが津波にも耐えた一本松とオーバーラップする。

佐藤さんにものすごく会いたくなる。とても魅力的な人。
今度、バイクで佐藤さんに会いに行こう。


監督のインタビューも転載しておく。

◆あなたたちの本当の役割はカメラなんでしょ?
―― 撮影のきっかけは、被災者の方から「自分でその場所を見に行くのは辛いので記録してきて下さい」と頼まれたとか?
小森 2011年3月末にボランティアとして東北に行き、その時は「記録」することは考えずにいました。ボランティアと言っても避難所の物資の仕分けくらいしかできなくて、そんな時、宮古市の避難所のおばあちゃんに「あなたたちの本当の役割はカメラなんでしょ?」と言ってもらえて。カメラは持って行ってたし、自分たちとしてもカメラを回したかった気持ちがどっかにあったと思うんです。だけど人前で取り出すこともできないし、何のためになるかということも全くわからずにいたので、その言葉に自分たちがするべきことを教えてもらいました。他にも東京に住んでいて、被災地には行くことのできない人のかわりにお家を訪ねて、写真やビデオメッセージを撮ってくることもありました。「それならできる」という感じで始まったんです。

―― そのおばあちゃんを皮切りに人脈が広がって、地域の人たちと交流が生まれたという感じなのでしょうか。
小森 最初は本当に誰も知り合いがいなくて、ボランティアをしながら、東北に住む瀬尾の恩師のご親戚や友人の遠いご親戚の安否を尋ねて、石巻や陸前高田や沿岸部を行ったり来たりしてました。地域の人と交流するようになったのは住田町に住むようになってからです。

―― 住んでからは、人との関係性は変わりましたか?
小森 全然違いました。やはり同じ空気の中で、「明日会えなくてもまた会えるかもしれない」という距離感で一緒に暮らしていると、「会わなくても近くにいる」という感じになるんです。小さい町なので少しずつ関係が広がって、自然と知り合う人が増えていきました。あたかも自分たちが町の一員かのように「仮置き」させてもらってた感じです。

―― 瀬尾さんは写真館、小森さんはお蕎麦屋さんでアルバイトをしていたと。どうやって仕事を見つけたのですか?
小森 引っ越してすぐは、ふたりとも震災の記録を残すアーカイブプロジェクトの一環で、記録事業の現地スタッフとして仕事をしていました。その時に出会った写真館の店主の方が消防団の団長さんで、話を聞きに行ったりするうちに、写真館を手伝ってほしいと瀬尾が頼まれ、働くようになりました。でも私は写真の技術がないので、そこには行けないなと思って、しばらく地元のローカルテレビ局でアシスタントの仕事をしてました。ただ、瀬尾は町の中の写真館でどんどん地域の人たちとの関わりが増えて行くのに、自分は逆にちょっと外側の毎日ニュースを作るという場所にいて、こういう関わり方でいいのかと悩み始めました。そんな時に、写真館の店主の方から再開したばかりのお蕎麦屋さんを紹介してもらいました。震災前はお寿司屋さんだったけれど、津波で従業員の方やご家族を亡くされ、ご主人がひとりでもできるようにと始められたお蕎麦屋さんでした。「そこを手伝ったら?」と言われて働くようになったんです。働いている方は親戚の方がほとんどで、その中に自分ひとりがよそ者のアルバイトとしてお手伝いしてるという状況でした。


◆絶対にカメラを向けられない人がいることを忘れちゃいけない
―― 小森さんが来てくれて、お店はすごく助かったでしょうね。
小森 むしろ私のほうがお世話になっていました。朝から夜まで、工事関係者のお客さんもとても多いので忙しかったです。撮影している時間よりも、このお店にいる時間のほうがよっぽど長かったと思います。私自身は撮影が本業だけど、そういう仕事をしてる人間が受け入れてもらえるのかという心配もありました。ですが、そのことも理解してくれつつ、一人の人として接してもらい、たくさんのお話を聞かせてもらいました。それがとても嬉しかったし、充実しすぎた日々でした。撮影をすることがすべてではない、絶対にカメラを向けられない人がいることを忘れちゃいけないということも、このお店にいたから持ち続けられたのだと思います。

―― たね屋さんに「どこで仕事してんの?」って聞かれるシーンがありますね。まさにそのお蕎麦屋さんなのですね。
小森 はい、「かもんで」って答えてます。元々は漢字で「家紋」という寿司屋でしたが、今は蕎麦屋「かもん」になって、町のみなさんもよくご存知のお店です。


◆たね屋さんとの出会い
―― たね屋さんとはどういう感じで出会い、最初の印象はどうでしたか。
小森 たね屋さんに会ったのはお蕎麦屋さんで働くもっと前です。記録事業のスタッフをしていた時に手記集を集めたりもしていたのですが、陸前高田の地元の人に「英語で手記を書いてる人がいるよ」と教えてもらいました。まだ町に知り合いもいない頃で、そんな時にたね屋さんのことを教えてもらって、遊びに…、いや、訪ねて行きました(笑)。佐藤さんは最初からあの調子で、お店のものを見せてくれたり朗読してくれたりしていたんですが、その時お客さんが「それまで辛い状況だったけど、そろそろ何か育てようかな」という感じでお店にいらっしゃいました。佐藤さんがとても優しく対応しているのを見て、「こういう人たちのためにここで種を売り、苗を作っているんだな」と思いました。それが私がお店を訪れた最初の日でしたが、このお店の日常みたいなものを一瞬にして見たような気がして、その日常の細部をちゃんと知りたいなと思うようになりました。

―― 撮っていくうちに小森さんの気持ちの変化はありましたか。
小森 わかるようになったことがたくさんあって、佐藤さんがなぜ手記を外国語で書くのかも、いっぱい理由があるし、わかるというよりも情報が増えていきました。「たね屋」さんに毎回行くたびに何かが変わっているんです。お店も改善されていくし、佐藤さんの手記もどんどん書き直されて、また新しいことを発見したとか、そんなスピードに私は追いつけない、追いつけないというか、凄すぎて毎回驚いていました。追いつきたいという気持ちもありましたが、その全部を記録することが私の役目じゃないなと思いました。そういうのは佐藤さんの手記にすべて書き残されているので、いつか本を読む人のもとへ届いていくと思いました。

―― 「たね屋の解体」は、撮影し始めた時には時期とか見えていたんですか?
小森 見えてないです。ずっとそこにあるとは最初から思っていなかったのですが、解体が近づくことがわかった時に、それを映画の終わりにするのはよくないのではないかと思いました。勝手に映画の中で悲劇的な「終わり」をつくってしまう気がしたんです。山形国際ドキュメンタリー映画祭(2015年)にかけてもらった時は、まだ解体もされていなかったので、解体するシーンで終わりにしようという気持ちはありませんでした。


◆たね屋は悲しみの種は売らない、希望の種を見つける
―― 山形の上映の時は「たね屋」はまだあの場所にあって、上映を観たプロデューサーの秦岳志さんが佐藤さんに会いに行かれたと。小森さんも上映後に追加撮影をされたのですね。
小森 去年6月に解体が決まったのですが、劇場公開する話も決まっていて準備を進めている時期でした。記録をする者としては撮りたいと思っていたので、映画に入れるかどうかあまり考えずに撮影に行きました。佐藤さんも解体自体は進めていたんですが、撮影に来るのを待っていてくれました。解体の順番もはっきりと決まっていました。それが映像に写ることも意識されていたと思います。終わり方をしっかり作るというか、終わらせるのも手作りというか、大事なものを最後に抜くことも決めていました。

―― 井戸ですね。
小森 そうです。それから絵も最後まで残ってたし、ちゃんと順番が決まっていたんです。ひとつずつ、これを捨てるか捨てないか、悩みながら分解していく。最後の最後まで佐藤さんの手作りなんだなと、それを見た時にこの作品に残すべき記録だと思ったんです。私としては覚悟していたよりは辛くなくて、むしろその作業を見ているのがおもしろかったんです。佐藤さんが一人店を作り始めたときはどんなだったのだろうと、一つ一つに凝らした工夫、そこに費やした時間が想像できるようでした。後になって辛さは来るものなんですが、見ている時は「やっぱり佐藤さんだな」と思っていました。

―― いつも興味を絶やさず、佐藤さんがひとつひとつを”楽しみながら”進むスピリットに、何があっても人間はそうやって生きていくのだということを学んだように思います。
小森 やっぱり「たね屋」という職業だからだと思うんです。ただがんばろうとか、前向きにいきましょうということではなくて、役割として「たね屋」であることが佐藤さんの中でぶれなかった。たね屋は植物を育て、受け渡していく仕事です。震災や津波があっても芽吹いてくる植物たちを佐藤さんは町中探し歩いていました。それを見つけては慰められたと話してくれました。だから前向きでいられると。たね屋は悲しみの種は売らない、希望の種を見つけること。そしてその生き方を見せることが、亡くなった方への供養だとも話してくれました。


―― 手記を慣れない外国語で書くこと自体驚きですが、曖昧さや感情的になることを避けるために英語で論理的に書くとおっしゃってたことや、そうすることで世界のどこかに記録を残したいという「たね屋」的発想も凄いです。
小森 書くうちに外国語で書く理由が増えていったり、変化していったものもあると思います。震災前に佐藤さんは英会話教室に通っていて、その教室の先生や生徒さんが津波で亡くなっているんです。その先生の最後の授業はニュージーランドの地震を題材にした授業だったらしいんです。その先生たちのことを思って英語で書く、というのも佐藤さんにとっては大事な理由だったと思います。

―― 佐藤さんのそういう過去の話なども聞かれていたんですね。どれくらいの間隔でたね屋さんに通っていたんですか?
小森 月に1、2回という感じです。お店には仕事帰りとかにちょくちょく顔を出していましたが、撮影に行くのはそのくらいの頻度でした。

―― 撮影は開店前や閉店後だったとか、何かとり決めをされたんですか。
小森 お客さんもいらっしゃるので、できるだけお店の邪魔になるようなことはしたくなかったんです。営業時間はお店の手伝いをすることもありました。撮っている時はまだ何になるとかわからなかったけど、とにかく通うと決めて月に1回くらいは撮りたいと思っていました。他の人も撮影していたのですが、いちばん続けることができたのがたね屋さんの撮影だったんです。


◆ 映画にするというのは手放すことなんだとも知りました
―― 『波のした、土のうえ』(2014年、瀬尾夏美との共同制作)では出演した被災者ご本人が味のあるナレーションをされていました。『息の跡』はナレーションはなくて、小森さんが時々登場して相づちを打ったりしてますね。聞いたところでは山形バージョンには小森さんはあまり登場していなくて、完成版には小森さんがかなり登場するようになったのですね。
小森 山形上映の時も「作品」ではあったのですが、まだ「記録」という意識だったのかなと思います。事象が時系列で並び、佐藤さんしか映っていないような作品でした。佐藤さんの孤高な姿が、サスペンス感があって映画としておもしろいという感想をいただいて、むしろそういう感想しかなかったんです。一方で、私は「映画」として作品が見られると思っていなかったので、そう見られることにびっくりしたのですが、佐藤さんが「独り」であることとか、特別な存在のように映ってしまうのは事実とは違うし、佐藤さんと外の人たちとの関係を、私自身がそこまで踏み込んで撮影ができていなかったわけで、そのような作品のまま一人歩きしてしまうのは違うなと思ったんです。再編集に加わってくれた秦さんにそれを話したら、秦さんは私がしゃべっているシーンを素材の中から見つけてきました。

―― たね屋さんが小森さんと交わす「将来どうするの?」みたいなやりとりも、ふたりの柔らかい関係性がよくわかる好きなシーンでした。
小森 けっこう撮影中もしゃべってしまっていましたが、表に出すつもりで意識して話してたわけじゃなかったんですよね。私が登場人物になることは最初は嫌だったんですが、佐藤さんを独りにしないほうがいいということもあり、編集途中で見てくれた人からも、こういうやりとりがあった方が面白いという意見が多かったので、最終的に残すことにしました。

―― 改訂版は自分の思っていない方向になっていった?
小森 混ざっていますね。うまい具合に混ざっていてそれがおもしろいと思いました。いわゆる”自分の作品”みたいなものにならなくてよかったなと。そういう作業がもうすでに編集していた作品でできるんだなと発見しましたし、映画にするというのは手放すことなんだとも知りました。自分の手だけでは手放せなかったと思います。


◆いちばん難しかったのは、何かを作る者であるとか、”よそ者”であることを見失わないようにすることだった
―― お祭りや雪の中の獅子舞のシーンが美しく幻想的でした。山形バージョンにも入っていたシーンですか。
小森 お祭りのシーンは最初からありましたが、獅子舞は私が入れたいと言って、秦さんが編集してくれました。元々私は抽象的なものばかり作っていたんです。でもそれを陸前高田でやりたいという思いはなかったんです。だけど、カメラを回しているとどうしても撮ってしまう画がありました。でも記録としてどこか形に残しておきたい気持ちもあって、その素材が活きるように秦さんが構成から組み直してくれました。

―― 感じるのは、小森さんが陸前高田に行って、そこで見たものを記録するという「記録者」という役割と、何かを作りたい、表現したいというクリエイターとして欲求との狭間で葛藤があったり、辛かったりしたのではと。
小森 自分が持っている表現の方法と、記録したいという意志が合致するのだろうかという葛藤はしばらくありました。最初は合致しなかったと思うんですが、撮りたいものが明確になってきてからは、だんだん近づいてきて、今はそういった葛藤はなくなりました。

―― その場所に住んで、いろんなことを感じたり、時間が経過して、自分の中で近づいたのでしょうか。
小森 そうだと思います。まず「記録」が自分にとって一番の軸なのだと自覚しました。でも記録をするのにも、ただ撮ればいいわけではなくて、記録したいと思う瞬間に立ち会えるような身の置き方を考えなくちゃいけない。どう進んでいくのかわからない現実を前にして、身体を動かせるように四苦八苦しながら、最初はガタガタのカメラワークでした。それが暮らすうちに、いろんな人の記憶を知り、毎日同じ風景の中にいることで、身体に馴染んできたものがあるんだと思います。自分が撮りたい画でもなく、ぶっきらぼうなカメラでもなく、その場の空気に撮らされてしまうような撮影ができるようになっていった実感がありました。それは私が震災前からカメラを持ちながら実感してきた撮る喜びと通じています。どうしたら伝えられるのか、その都度、その都度考えると、撮影の方法も編集の方法も、いままで「表現」でやってきたことと交差するんだなと思いました。いちばん難しかったのは、何かを作る者であるとか、”よそ者”であることを見失わないようにすることだったと思います。瀬尾とふたりでいたからこそ、見失わずにいれたんだと思います。

―― 瀬尾さんの存在は大きいのですね。
小森 彼女は頭の回転も速くて、次にどうしたらいいかという勘が鋭くて、道を開いていってくれます。自分たちがなぜここにいるのかということも常に言語化していて、それに私は助けられていると思います。私ひとりだったらたぶんわからなくなってしまうと思うんですが。瀬尾がふたりの活動の軸を考えて、私は事務担当みたいな役割分担ができて、ふたりだけど組織みたいな感じです。


―― 瀬尾さんの『息の跡』への関わりは?
小森 「息の跡」は直接制作に瀬尾が関わっているわけではないのですが、瀬尾自身は佐藤さんのことを一人称語りで書いた文章の作品を作っています。普段から、一緒に作品制作するのではなくて、同じものを見て聞いて、そこからそれぞれが作ったものを最後に合わせるというような表現なんです。そういう意味ではいつもと変わらないといいますか、全く関わりがないわけではないと思います。

―― これからもふたりで活動して行こうと?
小森 それはしばらく続けていきたいと思っています。ユニットという形ですけど、基本的には個人で、「小森はるか+瀬尾夏美」という名前で活動しています。それぞれの視点で見つめていくものがあると思いますが、重なったり離れたりしながら、二つの視点があることが大切だと思っています。様々な人とも協働しながら、表現の方法を柔軟にしていけたらと考えています。
cinemaQ

cinemaQの感想・評価

4.0
佐藤さんの朗読の声とラストカットに泣きそうになった。
記録する人を記録すること。佐藤さんが小森はるかにめちゃくちゃ話しかける事によって、また小森はるかも被写体の一部になってる。
「記録を残すような人材がいなきゃダメだ」

「一生懸命、繕ってるぞ。ああいう仕事は、俺にはできねえな」

「起きたことを書きたい。書いて残したい」
中庭

中庭の感想・評価

4.0
石碑に手をつくという行為が含有するあらゆるものとその記憶。
復興後の景色からは、影の色がなりを潜め、スクリーン上の白色の面積が単純に大きくなる。
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