マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺の作品情報・感想・評価

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マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺1967年製作の映画)

THE PERSECUTION AND ASSASSINATION OF JEAN-PAUL MARAT AS PERFORMED BY THE INMATES OF THE ASYLUM OF CHARENTON UNDER THE DIRECTION OF THE MARQUIS DE SADE

製作国:

上映時間:119分

3.8

「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」に投稿された感想・評価

寂々兵

寂々兵の感想・評価

3.9
多分理解できないだろうなあと思って期待せずに観たら意外と面白くて驚いた。オリヴェイラの『神曲』なんかと同じく精神病院の患者が舞台を演じる劇中劇だが、衒学的なあちらに比べると随分キャッチーで、常にテンションの高い狂ったミュージカル。無論台詞の殆どは意味不明だがそれは瑣末な問題。しかしヘラヘラと笑ってもいられず、終盤に向かうにつれて演技/リアルの境界が失われていく恐怖もある。月並みだがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演技力がヤバい。ラストのごった煮を見て、イグレシアはもしやこういうのを撮りたいんじゃないかと思った。
filmoGAKU

filmoGAKUの感想・評価

5.0
病んだ精神を治癒させる試みで「演じる」ことを患者に施すことを古くから行って来ていたことは知っていた。エチュード(即興の寸劇)が、「患者」だけでなく、一般にも、人との関係性を再構築、自己の表現行為(単なるおしゃべり、発話も)などを、一旦解体し、再び虚構の中でリセットさせ、個々人に「気づき」を与え、そして再度その「戯曲」を演じる行為により錬金した「真実」を見つけ出す。「真実」とは、そこに観客がいるのか否かに関わりはなく、各自身にとっては、治癒された心の安らぎかもしれないし、あるいはドラッグのように単なる自己陶酔感かもしれない。または、こうあって欲しい、こうあって欲しかったという理想や、悔いからくるもう一つの可能性、もう一つの未来といったようなものかもしれない。

その既存のものを解体することから始まり再構築という、言語的な演ずる行為のプロセスは、赤ちゃんがゼロから言語(単なる言葉ではない)を獲得していく過程であるというよりも、むしろ成熟した成人が、あるいは、新たに誕生した人類が、「言葉」を獲得していくプロセスに似ていると思う。

現代の私たちの「言葉」に染み付いた既成の思い込み(誤解)や手垢に染まった「意味」、オブジェの「象徴」や等式で結ばれる「記号」などと言ったものも、生活の様式や文化が違えば全く違ったものを表すという自明のことでさえ、消費社会、いまの文明と言われる中にどっぷりと浸かっていると完全に見えなくなってしまっている。「青」は決して「青」ではない、自戒も込めてそう思う。このフィルムについては、完全に狂っていると思う。でもその狂っているってことはいわゆる「狂っている」ではない。

「狂っている」を意味しないとわざわざ断っているのだから、「狂っている」が何を意味しているのかを問うべきだ。だからそれが何を意味するのか、理解するため、あるいは理解されるために語っていくもの。それが人の間の言語を介したコミュニケーションというもののはずで、「演ずる」とはその原理、身体を併せもつ言語的な実演、実験 -「表現」のこと。

この映画、それは、高密度の熱量(エネルギー)が理に逆行して一点に収束・収斂、収縮、その瞬間には大爆発を起こす。その前兆のよう。観客は、ことばが生まれる「創世記」を目の前に、全てを俯瞰し、そこに立ち会い、まさに何者かの目になった思いがする。

以前観た『蠅の王』(1963年)絡みで今作も観たんだが、ブルック監督の演劇論、指導ドキュメンタリーは昔に勧められるままに鑑賞していた。2018年3月4日。
ageless505

ageless505の感想・評価

4.5
『M』や『間違えられた男』みたいな<人が人を裁くことの危うさ>的なテーマであさってて流れ着いた作品。
<人が人を治療すること>の正当性はどのように担保されるのか?
『三文オペラ』『蠅の王』などの監督ピーター・ブルック作品。まずタイトルの長さからして狂ってます。

19世紀初頭パリの精神病院では、治療の一環として院内で患者による芝居を行っていた。そして当時の特権階級の間ではそんな芝居を見ることが流行っていた。
当時入院中のサド侯爵がフランス革命の大立者ジャン・ポール・マラーの生涯を戯曲化し演出した、という虚構を設定して出来た風刺に満ちた歌劇。
ある偏執狂的な女性に刺殺されて幕を閉じるマラーの生涯、社会変革に全てを捧げたマラーと、厭世的で現実逃避の権化サド、この組合わせが凄まじくシニカル。

芝居する狂人、芝居に立ち会う当時の観客、その全体を眺める私たち。
狂ってます。芝居してる皆さん基地の外の人。そしてその”皆”には、いつの間にか観ている自分も巻き込んでくる暗黒劇。

演じるは王立シェイクスピア劇団の俳優たち、言葉遊び満載のオドロオドロしいセリフが耳を離れない。
”It is no use crying over spilt milk”(”覆水盆に返らず”)をもじって”It is too late to start crying over split blood ”とするような、血=bloodという単語をハッとさせるようなセリフの中に幾度もブッこんできます。ざわ・・ざわ・・
ピーターブルックは飽くなき演技挑戦を日々続けており、その一つ。おお〜って感じです。
森田芳光と寺山修司を足して2で割って照明を最小限にした感じの雰囲気の舞台。
モノホンの演技が上手い人のことは本当にめっちゃ演技が上手い人なんだって思っちゃう。
怖い笑顔をする人たちが沢山出る映画。狂気じみた顔ってやっぱり笑顔がベースだ。白い牢の中で、白い服の発狂者達が常人の演技をするという設定なのだから、狂気じみている。
マジもののような、顔つきや動きをしていて、ここまで過剰にそれっぽさを出したら今だったら問題になるだろと思った、面白いからいいけど。何度も挿入される異様に陽気なミュージカル的な歌が叫び声と同じくらいに耳に残りすぎる。