最後の人の作品情報・感想・評価

「最後の人」に投稿された感想・評価

大雨の翌日、快晴となって人々が一斉に布団を干し始める多幸感。これこそ生活という嬉しさ。それが一転、主人公は解雇同然の配置換え。収監されるかのようにドアへ吸い込まれていく絶望の背中が痛々しい。サイレント映画であることを皮肉るように、笛とラッパの連なりから叶わぬ妄想へ突入していくのも残酷。
床ずれ

床ずれの感想・評価

4.0
『最後の人(Der Letzte Mann)』というタイトルと、あのエピローグから、ふとヴェーバーの言葉を思い出す。「「末人たち」》letzte Menschen《にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。──」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
こんな100年近く昔の作品に、“リストラを家族に報告できず、公園のベンチで時間をつぶす父の悲哀”…と通じる(?)テーマが既に描かれていたとは…!

左遷の通告に腰骨までやられたようなショックの受け方や、酔っぱらって見た夢の内容、卑しい嘲笑に曝される…など、基本「あぁ、不憫…可哀想に…」と思いながら観ていたのですが、目の前のトイレの仕事よりも失った制服(権威)にばかり執着している様子に、この男自身も別段立派なわけではなく、観ているこちらの恥部をきちんと映し出してくる、意地悪な味わいでした。

付け足されたラストには賛否両論あるようですが、自分は(なくても十分成立しているのは前提で)わざわざ「あんまりなので付け足してあげました」というテロップを残した点や、男の家族は出て来ず、結局のところ享受しているのは物質的な豊かさ…という点に、これはこれで皮肉が効いているな…と思いました。
ムルナウだっただけに付け加えられたラストによる不粋さというか個人的にはマイナス効果しかない顛末に正直がっかりした。
“閉ざされた空間、出口のない現実のなかをカメラは自由に動き回り、次々と新しい空間を提示し、めまぐるしい画面の変化のうちに、現実空間は心理空間に、モノは象徴に変わってゆく。”
流石!スゴすぎる。
「サイレントはちょっと…」みたいな人間でも惹き込むような純粋なカメラの魅力。コレは魔法だ。
ただ、制作会社の意向によって付け足された(らしい)ラストはあんまり好きじゃないな。
あのままで終わるべき!とは思わないけど、あれだと主人公が何だか人が変わったみたいじゃないですか?
弟

弟の感想・評価

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ムルナウやっぱすげぇ。表現が尖りすぎててなんか怖かった。超大名作サンライズをまた見たくなった。ロメールの獅子座はこれのオマージュだった。
スタージェスでもこんなラストを用意しない。ていうか積み立てとかガン無視だからそりゃそうなんだけど……。幸せな気持ちをくれたので大好き。問題なのは、このぶんまわしを映画内で言及していることだと思う。それによって映画に何が起きてしまうのか?
パーティ明け往来に挨拶していくシーンと、ドアマンを見つけたときの絶望の実感が、まるで郷愁のような……、二日酔いのときのすべてになりふり構えないことを思い出させて辛くもありなぜか嬉しくも……。

このレビューはネタバレを含みます

ふと思い出したムルナウの傑作の一つ。

昔ビデオで見たときに、映像は粗いものの表現主義を薄めてもなおシュトロハイム的写実主義で魅せるムルナウの手腕に脱帽したのだけど、一番感動したのはそのラスト。

というのも、心優しく生真面目なエミール・ヤニングスを襲う不運を描いて本編は実に暗く終わるのだけど、その後「このままだとあまりに暗いので幸福感あるラストを追加する」とラストにパーティーで主人公を祝福して締めており、ここに虚構の映画なのだから現実では起こり得ないハッピーエンドを人物に与えてもいいじゃないかという監督の良心が垣間見えて胸が熱くなり非常に胸が熱くなったし、ご都合的とはいえ幸運が齎された老人の姿には安堵感を覚えた。

似たような境遇の人物が陥る悲運を見て共感を覚えるファイブイージーピーセズやテルマ&ルイーズのような映画も素晴らしいが、現実では不可能な出来事を映画的魔術で可能にする有情な作品も悪くないものだと思えた貴重な体験だった。
 黄金期といわれる1920年代ドイツ映画を代表する一本。エーリヒ・ポマーがプロデュース、フリードリヒ・ムルナウが監督、カール・マイヤーが脚本、カール・フロイントが撮影と、当時のトップランナーたちが結集した。
 お話は、エミール・ヤニングス演じる高級ホテルの老いたドアマン(=最初の人)が、地下のトイレの清掃夫(=最後の人)へと降格される、というだけである。しかし、それだけの話を通して、映画あるいはカメラはさまざまなことを物語っていく。たとえば、高級ホテルのブルジョワ客とヤニングスが暮らす地区の労働者の対比をつうじて貧富の差が露骨に描かれる。ヤニングスはドアマンの立派な制服に執着しているが、これは外見や地位への囚われ(疎外)をあらわす。降格を知った住民たちが嬉々としてウワサを広めるときは、高笑いする醜い顔面をクロースアップで誇張し、多重露光で悪夢的な映像を演出し、下層階級の世界観の狭さ、品性のなさを糾弾する。
 とってつけた「ハッピーエンド」は、作り手たちの意思ではなかったとしても、その描写は皮肉たっぷりで、そこに本当の狙いをみてとることができるだろう。悲惨から至福への唐突な転換は、まったくの偶然によって引き起こされる。それが我々を戸惑わせるが、いうなればこの「戸惑い」自体が、このエンディングの狙った効果なのだ。重いトランクに手こずるところを雇用者にみられただけで、主人公は地下トイレに追いやられた。ラストは、この不条理が単に反転しただけであり、物事の本質は何も変わっていないことを物語っているのである。
 
■「解放されたカメラ」
 この映画には字幕がほとんどない。それは映像をして語らしめるという意思のあらわれだろう。その自由自在なカメラワークは当時「解放されたカメラ」と称賛を浴びたそうだが、実際その流麗な動きはいま観ても惚れ惚れとする。ラストでも、舐め回すような移動撮影は、映像が「皮肉」を話すことを可能にしている。
 オープニングは、エレベーターの窓から一望されたホテルの1階である。そのままカメラは入り口の回転ドアへと向かい、富裕層の客たちが絶え間なく出入りする様子をとらえ続ける。ドアの外では、雨のなかで車や街のライトがきらびやかに輝いている。そしてカメラはドアを抜けて、主人公のドアマンの姿を映す……。このワンショットのシークエンスのなかでは、カメラと照明の力を借りることにより、我々がよく知っているはずのものが斬新な印象をもって立ち現れている。
 このオープニングにおける光のきらびやかさは、その後と対比され続けている。たとえばヤニングスが暮らす労働者居住区のうす暗さがすぐ後に来る。あるいは、彼が制服をとりもどそうと暗躍する深夜のホテルでは、暗闇を照らす見回りの懐中電灯から隠れる彼のふるまいに、一転した彼の境遇があらわれている。昨日までの彼は光を浴びていたのに、今や光から逃げなくてはならないのだ。そしてラストにおける、家族からも見放されて洗面所の貧相なイスに座る彼を包む闇である。
 
■主観性と客観性
 カメラの動きは映像に主観性を宿すうえで重要な役割を担っている。この映画がとりわけ表現主義的といえるのは、主人公の主観性がそのまま映像に反映されている点にある。こういうとき、しばしば本作は二重露光を駆使している。例えば、降格されたヤニングスが、風吹きすさぶ帰り道にホテルを振り返ると、それが倒れかかってくる幻覚をみる。
 このショットで、高層ビルがもたらす印象が反転する。つまり、ヤニングスがそこに帰属しているとき、この豪華ホテルは威風堂々としている。ドアマンの制服を通じて、彼はその威厳のおこぼれに授かっているのだ。ところが、表舞台から排除され、奥のトイレに押し込められると、途端に人間を寄せつけない冷たく硬い人工物として立ちはだかる。
 要するに、ここでは人間を疎外するものとして「都会」が捉えられているわけだが、これは表現主義というより、むしろ社会主義的な立場のリアリズム映画の視点である。『ノスフェラトゥ』のときムルナウは背景に書割を用いなかったが、ビルやアパートに書割を使っている本作でもそのスタイルは自然主義である。労働者のアパート群が寝静まり、夜明けを迎えるまでを捉えた固定ショットからも、本作のリアリズムの側面をみてとれるだろう。さらに、本作が室内劇というジャンルの系譜にあることも見逃せない。
 
 ドアマンの制服を着て帰ったヤニングスは、娘の結婚式での酔いが醒めない翌朝、やはり幻覚をみる。何も知らない住民たちが彼に話しかける顔は特殊効果で歪められている。これはもちろん彼の恐怖の投影だ。その理由は、彼の集めていた尊敬が、その人となりでなく地位に由来するものに過ぎないことである。その地位も所詮はブルジョワに仕えるドアマンに過ぎないのだが……ともあれ、この意味でも彼は疎外されている。やはり内容はリアルだが、形式は非リアルな表現主義がとられている。
 ヤニングスの演技にも主観性が反映されている。ヤニングスは高身長で、老いていても背筋はまっすぐ伸びている。ところが、辞令を受けたあとの彼は腰を曲げ膝を折り、フラフラと歩き、卑屈そのものだ。また、痙攣するような勿体ぶった不自然で大仰な演技もまた、表現主義映画に典型的にみられるものである(これのせいでシーンが冗長)。ほか、壁に投影された影も、典型的なドイツ表現主義映画の演出だ。