弁天小僧の作品情報・感想・評価

「弁天小僧」に投稿された感想・評価

歌舞伎狂言を時代劇の名匠、伊藤大輔が映画化した作品です。白浪五人男の1人、弁天小僧を主人公に歌舞伎の手法を巧みに取り入れ華やかな見せ場の数々を小気味良いタッチで描いた正統派な娯楽時代劇でした。主役の弁天小僧はご存知、市川雷蔵ですが遠山の金さんは勝新太郎でしたか!これは序盤は気が付きませんでした。雷様に負けじと目張りの入り具合が凄まじいですね。雷様バク転がお出来になるのね素敵!と目がハートになりましたがよくよく見てみると吹き替えのようでそこは残念でした。でも水も滴るいい男と称される弁天小僧に雷様はぴったりでした!
てぃだ

てぃだの感想・評価

3.0
雷蔵(呼び捨てごめん)はじめてかっけええって思った。勝新との共演場面なかなか楽しいね
tjZero

tjZeroの感想・評価

3.7
女ぐせは悪いが、義には熱い所もある盗賊・弁天小僧。

扮するのは市川雷蔵。
捕物方との格闘、屋根伝いに逃げる際の身のこなし、水も滴るような江戸言葉の台詞回し…すべてが颯爽としたかっこ良さ。同性から観ても惚れ惚れとする。

ニ本立てが当たり前の時代の作品であり、90分弱の尺の中にスター雷蔵の魅力をギュッと凝縮。
腹黒い武家に嫁にとられる町娘を奪還する作戦を立てる場面など、そこだけ歌舞伎の舞台調になり、コンパクトな空想シーンながらも歌舞伎役者としての雷蔵の女形の魅力も見せてくれるサービスぶり。

共演の勝新太郎が遠山の金さんに扮しているのも楽しい。決して出番は多くないけど、くさらずにニコニコと雷蔵氏に華を持たせている感じがほほえましい。
ちー

ちーの感想・評価

3.0
勝新の窮屈そうなこと、まあ端役ですもんね。
派手な殺陣や頭脳戦を楽しむ作品でなく予定調和の中でどう主役が見得を切るかを堪能する映画、なんつっても市川雷蔵。そういう意味で難波金融伝に似てるというのは暴論か。
江戸言葉の素晴らしさ、途中の歌舞伎舞台での一幕、ズラリと並ぶ御用の提灯など見ものだが映画としてはあまりハマらず。
西洋式の映画に慣れた頭ではなかなか勝手がわからないので研究が必要そう。
くずみ

くずみの感想・評価

3.8
プロの仕事。こういうものこそ現代ではもう作れまい。建物内外を利用し尽くした、長い立ち回りが素晴らしい。ストーリーは歌舞伎をアレンジ。雷蔵弁天は胸の奥に純粋さを秘めた青年。ニンは赤星の方? 濱松屋番頭さんは本職に違いないと思ったら、浅尾奥山だった。

このレビューはネタバレを含みます

現在ではその作品からの評価が難しい映画監督の筆頭である伊藤大輔の戦後大映における代表作。60年に撮った『切られ与三郎』とともに歌舞伎物に材を取った作品である。
普通,時代劇映画というのは他で言うところの演技というものに加えて"押し出し"がまず必要になる。これは照明というものがまだまだ不十分であった江戸期に,その薄暗い中でも十分観客に訴えるべく発明されたものであったろう。時の状況の元に必要となったものが,現代の映画製作の場においてもまだ残っているというのは,まるで亡霊の如しである。が,一時代を観客の胸の奥の感銘に託した芸作法というのは,なかなかその役目を手放そうとしないのだろう。
はっきり云って,黒澤時代劇だってこの束縛を逃れることは出来なかったのだ。時代劇映画というのは,いつの世だって物語の中で主人公一味ばかりが目立って浮いている,そういうものなのだ。云ってみれば見世物だ。見世物映画と何ら変わらない。
その制約から一歩外へ出ていた役者を挙げるなら,私は市川雷蔵こそその人であり,その次はないと思っている。雷蔵という役者には押し出しはない。弱いのではない。ないのだ。戦前戦後を通じて最高の時代劇役者であった中村錦之助は演技もさることながら,新しい時代に合わせた押し出しの良さがあった。新しい時代を切り開く精力とも通ずる元気があった。しかるに雷蔵は,その新しさを押し出しでなく演技の力に求めた,しかも時代劇において,である。
これは凄いことだ。雷蔵はこの一つのきっかけによって時代劇映画の印象をまるっきり変えてしまった。押し出しは観客に強く訴える代わりに幅がない。しかし演技の力は劇中において一見無限であるかに思えるほどの可能性を持つ。つまり,観客は最初に雷蔵が画面に現れただけでは,その人となりが全くわからないのだ。先入観がないのである。そして現実に人が人を知るのと同じような順序とタイミングで我々は雷蔵演じるところの人を知る。これぞ究極のリアリズムだ。雷蔵の最も優れた演者である理由はこれを時代劇でやったことにある。
本作においては名匠伊藤大輔の演出と名カメラマン宮川一夫の優れたカメラワークがそれを十分に助けている。ドラマは一見形式的かつ荒っぽくみえる。弁天小僧がお半を犯そうとして,しかしそれを諦める場面など,まるで東映時代劇にもありそうな三文芝居にみえる。だが,その理由が段々と明かされていく。その中で,観客は人間が時に出来の悪い芝居を演じていることを知る。弁天小僧の脳裏に,見ることも叶わぬ母の姿が映ったことなど,映画は決して撮らない。それこそ本物の田舎芝居だからだ。