真昼の不思議な物体のネタバレレビュー・内容・結末

真昼の不思議な物体2000年製作の映画)

Mysterious Object at Noon

上映日:2016年01月09日

製作国:

上映時間:83分

3.9

あらすじ

「真昼の不思議な物体」に投稿されたネタバレ・内容・結末

その土地から生まれる物語と物語によって作られる土地

【重層的なもの】
 今作に限らずアピチャッポンの作品は画面にいくつもの世界のレイヤーが重なる。それは過去だったりあの世だったり神話の世界だったり。映っているのはたいてい何でもない食卓や公園だったりするのだが、その上にうわさ話やなつかし話が重なることでその世界が重層的に見えてくる。

【オープニングの妙、次の物語への橋渡し】
 その上で今作はオープニングからして重層的である。オープニングでカメラは車の窓からタイの市街地を延々と映す。そこに事故で亡くしたはずの恋人が生きていて、別の男と暮らしているところを見つけてしまった男の話が誰かの語りで入る。最初に思うのは、この物語が今カメラには映っていないがこのカメラを運転する男の物語なのか、あるいはこのカメラがたどり着く先の誰かの物語なのか、つまり今スクリーンに映っているものと語りの関連である。しかし、語りの直後にアナウンサーが登場し、これがただのラジオ番組だったことが分かり、さらにその後スピーカーからはナンプラー販売のアナウンスが流れる。さっきまでの車の進むスピードと物語が語られる展開が一致していたような感覚はここで砕かれる。
 そして、この車=ナンプラー販売のトラックに乗っていた女の身の上話に続く作り話としてこの映画ははじまる。ここから彼女を出発点に物語が複数の人によって作られていくわけだが、その前にこのトラックのラジオシーンを入れることで以下の
・ラジオで流れているようなタイの有名な民話も、ここから起こる物語作りと同じように
誰かと誰かの作り話によって生まれていることが示される。
⇒ここから作られる物語の展開にも、この冒頭の物語、物語的な他の民話も要素として
関連しているかもしれない

【物語とそれが生まれる場、語られる場】
 ここから行われるのは最初のナンプラー・サバ売りの女が作った話「足の悪い少年と家庭教師の女」を複数の人によって展開するということである。別の人から別の人へ、リレー形式で物語は作られていく。派手なおばあちゃん、サッカーに興じる少年、女学生と人は変わり、最初は少年と家庭教師のドラマだったところに不思議な物体から生まれた少年が現れファンタジーになり、家庭教師を想う男が現れかけおちのロマンスになりかけと右に左に物語は進む。それと同時に物語を作る人を追うカメラも次第にタイのより深い田舎の方へと進んでいく。
 物語を語るそれぞれの人の身の上話と物語の続き、語る人達の生活する場所・風景と物語を再現した映像が交互に挟まれるので、どこまでが物語の中でどこまでが語られている現実なのかが分からなくなる。それは意図的なものであり物語と語る人の話、物語の世界と現実の境界は意図的にあいまいになる。
・それは物語とそれを語る人の身の上話をイコールで捕えることからも行われる
・物語の中の人物が自ら身の上話をする(=物語を作る人と同じことをする)ことによっても行われる。女家庭教師の少年の両親との関係、それも再現映像になる
 ⇒それは物語の中の人が身の上を語ることによって、語る人物として物語を作っている
存在と彼女を同じにする。
物語の中に登場する人物から語られる物語として入れ子構造だし、インセプション
 ⇒再現映像を撮られている場所と語り手が語る場所が同じであり、その物語と現実はあ
いまい
・再現映像に重なる語り手の物語のモノローグ、その後ろに流れる虫の声や風の音は
再現映像の画に重なっても違和感が無いため、その二つの世界はあいまいになる。
  ・また再現映像を演じるのもその場所の人達であり、物語の登場人物では無い実際の
彼らも映画の中に映るためそこでも現実と物語はあいまいになる。
 また語られていく物語自体も、それを語る人のその人性、好みによって大きく変わっていく。一番印象的なのが物語のラストを作った少年であり、彼によって人食いトラが登場し、全員死んで終わってしまう。そして周りの子供たちからせがまれ少年は別の話を始める。ここで〝死んでいたはずの恋人の話〟⇒〝少年と家庭教師の話〟⇒〝〟という風に物語は次のものへと進む。

『真昼の不思議な物体』では物語が生まれる過程と、その物語が作られる場所・過程を描きながら、その物語が、いかにそれを語る人のキャラクターさらに言うとそれを生み出す生活、場所によって生まれているかが描かれる。それをリアルに描くことにより物語自体が臭いや体温を持ち、現実に近づいてくる。結果として、物語の場所と現実は重なる。
作り話と身の上話は、その生活の場から生まれた物語という意味で同じであり、誰かにとって語られる場所という意味では同じ。今作は語られる場所として存在するその場所が、語られる瞬間に現れるようなイメージがした。語られる場所としてのその場所は、語られる場所であるが故にいくつもの話が重なって重層的である。

・最後に挟まる何でもない子供たちの遊ぶシーンは、もしかしたら語られる場所では無い、
ただのその場所を表わしていたのか?だとすると、カメラで切り取った時点でその場所
はカメラによって語られるその場所になってしまう。いや、この監督だからむしろラス
トでやっていたことってカメラによってその場所を監督自身が語るってことだったんだ
ろうか。
・それぞれのパーソナリティを反映させた上でひとつなぎのやり取りを紡いでいくという
意味では、サイファーに近い側面もあると感じた。
画面のなかで人が動いているだけでこんなにも幸せになれるなんて!画面が白黒なのと映画館の暗闇も合わせて終始白昼夢を見ているようだった 冒頭の道路での男と女の語りの場面と少女2人の手話、衣装ケースに先生を押し込む宇宙人と少年の場面が特に好き フィーバールームを早く見たい! ラストの川の中にサッカーボールを取りに行って泳ぐ場面でかなり感動した 美し過ぎて 恋人が着ていたラコステのチェックのシャツが可愛かった 下北沢のupstairs recordでの店主との会話を想起 即興で作られた物語のはずなのにどこか不穏な空気が漂っていたり夢と現の境界が曖昧であったり胸がぞわぞわした 去年資生堂ギャラリーで見た佐藤浩一の展示を、昨日金沢の21世紀美術館で再見したのだが彼の美術手帖のインタビューをよんでいたら東南アジアに興味があると記述がなされており絶対アピチャッポン好きでしょう!アピチャッポンにもいちじくに関する映画撮って欲しい!とときめいています
ドキュメンタリーから空想のお話へ、語り手から語り手への流転。語りが途切れるとともにいかにもつくりものらしいカメラワークからエンドロールみたいなクレジットが表示されて物語は閉じるけど、「at noon」を区切りに、映画はその外の現実、日常へはみ出していく。「at noon」は「真昼」と訳されていたけれど、「正午」だとしたら、午前でも午後でもない、現実でも虚構でもない境界の時間のことなのでは。
走る車の窓ガラス越しにモノクロームの街を映し出して始まる本作は、虚と実を行き来する「不思議な」ドキュメンタリー。アピチャッポンの映画を観るのはこれが二本目なので特徴がどうの、というのはよく分からないのだけれど、最初はややキアロスタミっぽいかな?と思いながら観ていた。
「足の不自由な少年とその家庭教師」という話をアピチャッポンが最初に提示し、その話の続きを様々な素人に即興で作ってもらい、その様子をカメラに収める、という斬新(!)な手法で映画は展開していく。作り話=嘘を羅列していく作品と(少し乱暴な物言いだけれど)言ってもいいかもしれない。ある素人が考えた話を別の素人がその話の続きを考える、というように、リレー形式で物語は紡がれていく。虚/実が交錯する本作はドキュメンタリーのつく嘘を巧みに暴いてみせるどころか、「そもそも映画って何だっけ?」という根本の問いかけすらしているような気がした(その証拠に<real>或いは<fake>という単語が時折台詞の中に紛れ込んでいる)。映画=作り物という意識を本作の至る所で感じ取ることが出来る。
また、ロケ地に選んだ場所もなかなか面白く、しばしばアピチャッポンは劇中の人々とその背後に設置されている「窓」を同時にカメラに収めてみせるのだけど(冒頭に書いたように、そもそも映画自体「窓」を通して始まる)、それは部屋の「窓」から外=世界を見つめていた「足の不自由な少年」と関係づけて考えるべきアピチャッポンの演出だろうか?窓=フレーム。ここでも「そもそも映画って何だっけ?」意識がチラリと見えたり見えなかったり。

……以上が「見たままそのままを感じればいいのではないか」の訓えに従った自分なりの感想だけど、本当のところはどういう意図だったのか、実はちょっと監督に聞いてみたい。