わたしたちの家の作品情報・感想・評価

「わたしたちの家」に投稿された感想・評価

観たときの体調と環境が悪かった。そのせいかどうかは知らないけどまったく面白くなかった。
yanus

yanusの感想・評価

3.5
同じ家に別のレイヤーに存在する二つの家族が暮らしている、という仕掛けに驚く。間の取り方や小道具の使い方などがいちいちうまい。なんとなく『百年の孤独』を思い出した。
qwerty6

qwerty6の感想・評価

5.0
2018/1/15
端麗な音楽が聞ける映画は数多なるも如此「音楽的構造」を感じさせ「音」を聴かせてくれた映画は初体験。last scene最終「音」は「嬰ハ音」。激烈な次楽章に続くG.Mahler交響曲第5番第1楽章の最終音同音。清原惟監督の未来の素晴らしい「激動」を大いに期待したいです。
atsuki

atsukiの感想・評価

5.0
清原惟の「自分の人生は手術中の大人の女の人が麻酔で昏睡しているときに見ている夢なんじゃないか」という妄想だけで好き。だから逆説的に、世界や存在の不確定さへの答えが”他人の夢を見たい”というフェティシズムであると思うんだけど、障子の穴も、花瓶も、プレゼントも、それは自己と他者との対立に支えられたアイデンティティへの探求に等しいのか。「この映画でのプレゼントは、意志を持って行われるものではないけれど、世界から世界へと無償で贈与されるものなんです」と言うのだから。そんな霊感や創造的知性の顕揚が、焼けそうな空、溶けそうな海、枯れそうな大地へコンセントを差し込んだことによってライトアップされるクリスマスツリーなのか。分断と対話、それを超える接続。どこかじゃなくて『わたしたちの家』なのだから。
こんなジャンルの映画は見たことない。
伏線と思うことがたくさん出てくるのに一つも説明されない。すべて見る側に解釈させる映画。それなのになぜかひきこまれる魅力があった。映像も音楽もきれい。
映画館で見て良かったと思える映画

このレビューはネタバレを含みます

テクストを楽しむ映画として  2018年 9月2日(日)

この映画を観て多くの方々が思うであろう「訳が分からなかった」という感想、印象について。
偉そうな意見で大変恐縮ですが、そのリアクションは自然なものだとは思います。
ですが、私というとるに足らない一個人の意見として、
「訳が分からない」という作品の残した結果は、悪いものではない、未熟の証ではないと私は考えます。
その理由として、以下の分類、映画の素人の私でも分かるものを例にとります。お暇でしたら、拙文ですがご覧いただきたい。
この映画、結構面白いと僭越ながら私は思ったのです。

「訳が分からなかった」という感情の因には、以下の三つが該当するかと思われます。
1 単純な構成力不足。鑑賞者による普遍的な理解が不可能な構成ではない(意図的に複雑な構成ををとっている映画を除く)

2 鑑賞者の理解力不足。映画的知識(言っちゃァおしまいですが)や文化の違い等の知識不足、もしくは他者の考えを認める寛容な態度の欠如。

3 監督等の表現が、鑑賞者の知る「環境」とずれていた場合。

2と3はかなり近い気がしますが、ニュアンスが少し違うものとして受け止めていただきたい。今回のケースでは2と3が該当すると、私は考えています。
1でない理由は、「話の『筋』は通っているから」です。
ここで言う『筋』とは、話の『整合性』では決してありません。
『整合性』とは、「理論の内容に矛盾がないこと(『広辞苑第七版 p1603 せい-ごう【整合】』)」を指し、結論が出せることといったニュアンスを含みます。
物語に、「結論が出せる」ことそれ自体には、絶対的な価値は置かれません。
結論は、物語において、「一つの解釈」として、他の解釈と(一応)等価に置かれるからです。
無論、映像論、文学論、宗教学、社会学、美学心理学等々多様な「文脈」において「完成度が『暫定的に』高い」といったような、あるルールにしたがった評価を行うことは出来ますし、奨励されるべきでしょう。というかあらゆる人は、素人でもある価値観に基づいて作品を鑑賞し、評価を下す生き物です。それが当然で、通常です。
しかし、あらゆる文脈、集団によって解釈の「正しさ」は異なります。
ならば、「結論が出せる」ことも、「矛盾があること」も、物語の価値に影響しないと言うことができると思います。
一文脈のなかでは。個人的な意見としては。説明がつかない物語、ファンタジーを楽しむ姿勢としては。
マイケル・ベイの『アルマゲドン』の隕石上採掘も、某スターウォーズの「爆音が響く宇宙」も、映画の価値を貶めることは決してありません(個人的に『アルマゲドン』はでえ嫌いですが。どうでもいいですね)。エンターテイメントの一文脈では気にすることのない要素です。
科学的に説明がつくとか、何より万人が納得できるかとかは、物語の面白さに重要な要素ではないと私は考えます。(もちろん、普遍性があるかは大事な物語の要素です。「みせるもの」ですから)  
第一、「説明がつくこと」を絶対的な価値とするなら、手塚治虫の『火の鳥』はどうなるのでしょう。説明をしようとしても、「完結してないから、証明しようがない」とは言わないでしょう。研究者の方々も読者の方々も、「暫定的な」解釈を楽しんでおられる。というか、多分人間は「暫定的な解釈」を何度も繰り返して、世の中との折り合いをつけていくものなのでしょう。説明を求めることは、とりわけファンタジーの領域では、結構物語の自由を狭めるのではと愚考する次第です。

話が大分ずれたので、戻しますと、本作品を理解できなかった人の例としては2と3が該当するかと言う話でした。
2については、映画的知識の欠如は、私に限らず、本作品を消化しきれなかった人の多くが少しは考えたのではないでしょうか。
どんな監督から影響を受けたか。どう反映されているか。切り返しショットが多いと感じたのは気のせいか。それは監督の未熟ゆえか。それとも演出か。自分(私)の好みによる着眼点に、本作品がどれ程「合って」いるか。台詞の意図が読みきれない。それは私の理解力不足か監督の説明不足か・・・。
恥ずかしながら私の本作品における疑問点を映画的な文脈で少々あげるとこんな風な、堂々巡りとも言える思考になります。知識の不足による結論不能、特に「私」を映画的な文脈で俯瞰出来ない事態に陥ると、多かれ少なかれこのような時間を鑑賞中過ごす人もいるのではないでしょうか(いやほんと、個人的な話で申し訳ありません)。
特に本作品では、「二つのいえ」がどう繋がっているのか判然としない。最後まで。
その繋がりが明らかになる瞬間を期待する鑑賞者にとっては、不完全燃焼、しこりが残る「訳のわからなさ」はあると思います。
ですが。因の三つめ。「環境」の違い。
日頃なれている物語とのズレによる「訳のわからなさ」。
この物語には、同時進行する物語の「繋がり」自体がない特異な構成なのです。だから「訳が分からなかった」人が多かったのかと思います。
(台詞の『浮き』が理解を阻害したやもしれませんが。あれは映画を劇のように語る監督の意図もしくは志向かと思います)

通常一つの作品内で、主人公が二人いる場合、二人が関わり合うのは「普通」です。別の地点から合流したり、二人が直接相対せずとも、シナリオ上間接的に影響し合うのが「多い」。
ですが、本作品では、二人の主人公・グループが、舞台をひとつの「いえ」として共通点を持ちながら、両者が独立してストーリーが展開されます。両グループがその存在を確信することはなく、物語の「都合上」関わる必要もありません。
登場人物の声は「いえ」を媒介として、自分とは関係ない人々に聞こえはするものの、
それが「関係ない物語」に、「決定的な」影響を与える訳がない。
事実、例の花瓶のシーンも「ぶつけても大きな影響はなかった」ように私には思えま。花瓶をぶつけられてもいなくとも、両者の物語は成立したでしょう。片方は花瓶を割る結果が、もう片方は花を手に取り、跪く結果があれば場面は成立したのですから。言ってしまえば。
この作品は、これまでの映画的感覚では、まさに別々の物語を二つ一緒にして見せられた感覚を与えるのかもしれません。短編集をみたときの、舞台設定を同じくしながら全く関係ない物語を複数見せられる感覚。ちょっとした『筋』のズレ。
少しだけ話をずらすと、『筋』とは、この場では物語展開上のリズムに近いニュアンスで使っています。悪しからず。(リズムよりもテンポかもしれません。「話に違和感がないか。淀みなく流れているか」)

それぞれの物語自体に、筋の問題はないと私は思います。話は一直線に分かりやすく進み、引っ掛かる箇所:矛盾や余計な箇所もそんなになかったように思えます。説明されない部分も、作品の味であり、リズムの一環です。それはそれで楽しめると思います(無論、好みが別れるかと。あくまで一意見です)。
ですが、この物語のキモは二つの、それ自体で完結した筋にあります。このテンポの「ズレ」。これが面白かった。そして新しかったのです。(多分。恐らく。メイビィ)。
二つの物語は、平行して展開します。関係しない。影響しない。それぞれの物語に対する意味なんかなかったのです。
けれど「いえ」という共通項を持つ。三次元上の傍線二つは、同じ色もしくは方向等を持っていたというイメージです。
もしくは。セリのいえと透子のいえは、「いえ」という本当にわずかな共通「点」、平行線上に片方の線から落ちる陰程度の淡い接点を持つ存在だったのでしょう。だから、一応物語として二つを同時に語る余地はあった。監督が見いだしたと言うべきでしょうか。
小説だと、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が近いでしょうか。あのお話も、現実と夢の中の主人公を交互に語りながら、虚と実が溶ける感覚があり、両者の物語は影響しないけど重なりあうお話でした(多分他にも類例はあるかと思います。この拙文をここまで読んでくださった方、差し支えなければ教えていただきたいです)。
そんな平行線上のストーリーが重なることで、鑑賞者は味わったことのない感触を得ます。このずれた感覚が本作品の「楽しみどころ」であり、鑑賞者の困惑を誘う一因でもあったのでしょう。

論理的にほぼ説明できない二つの物語の併存。そのテクストを純粋に楽しむ贅沢。
そんなお話なのだと、私は考えます。
論理的じゃないって、結構楽しいと思います。
ファンタジーも、鑑賞者はそのまま「見たことのない世界」を味わうのが楽しさの一つです。
もしこの映画を楽しめなかった視聴者様も、そうすれば楽しめんじゃないかと思います。(こういう観方は楽しいです。何せ肩の力を抜けるし、視野が「増えます」)

ついでに、ストーリーではなく、他の観方を。
何より「いえ」の内装が面白いです。
まず色分け。せりの「いえ」ではカラフルな色合いが、透子の「いえ」ではほぼ白黒の明暗色という分け方がされています。意図を考えても面白いです。
そして「いえ」そのもの。珍妙な家です。玄関が変なシャッターと網戸的なサムシング(?)です。視聴者が最後までなかを確認できない別棟とかもあります。障子の仕掛け(演出)も少しドキッとできるかと。
あとはカメラワーク。素人意見ですが、手持ちカメラと固定・スタビライザ(?)とかのショットの違いや、鏡を使った演出も私は結構楽しめました。(どう撮ったかは、カメラ術勉強すれば分かるものなのでしょうか。多分分かるよなあ)

いろんな観方ができて、いい映画だと私は思います。おすすめです。
Bigs

Bigsの感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

わたしたちの家、不思議な映画で面白かったです!
「家の中に人の気配を感じる」っていう誰でも覚えのある(?)感覚を、ホラーではないアプローチで表現したような不思議な映画でした。

終盤に時間か空間が異なる(?)2つの世界が交わるシーンが非常に良かった。この家、一階の間取りはわかりやすい一方で、二階はあまり説明されない(個々の部屋は映されるが位置関係がわからない)。これにより交わるシーンは、同じ空間に彼女らがいるのかいないのかわからないようになっていて、緊張感が増していたと思う。

(時間の異なる世界が交わるという点で、「オーロラの彼方へ」のラストを少し連想した)
mitchan

mitchanの感想・評価

3.0
「サイレント・ヒル」だったかな。お母さんと子どもが、お父さんのいる世界には帰れなくなってしまう話。同じ家の中で存在を感じるのに。あれを思い出した。
観たことのない映画だった。いくつか見所があるけれど、まずはやはりこの構造だろうか。
「ひとつの家に二組の家族が(レイヤー状に)暮らしている」という、口で説明するのも難しいアイディアの面白さが図抜けている。この二つの独立した家族の物語が終盤で重なり、接触することになる。障子の穴、花瓶……。
「フーガのような映画にしたい」という思いが出発点にあったらしい。上映後のトークで清原惟監督が語っていた。
まあ。しかし正直そこまで「それぞれ独立した二つの物語」がフーガのようになっていたかというと微妙。断続的な即興的なシーン造りが結果的にそれぞれそんなに強い物語性を帯びておらず、そもそもが似たような曲調のメロディなのでラストに噛み合って止揚されるかと言えば、そうでもなかった。
この設定だったらこうなるだろうという、良くも悪くも収まりのいい結末になっていたかな。もっと「飛んだ」ところまで連れて行って欲しかった気がしないでもない。それ以前に、この設定なら強い「物語」を入れて欲しかった。

それから良かったのはロケーション。家。家からしておかしい。
元タバコ屋だった名残に看板が残っており、居住空間にもそれらしいスペースが窺える。さらに遡るとかつて商店だったという建物には、今ではそういった内外との交流を遮断するかのように、玄関にはまず「シャッター」がある。
そしてその空間の「狭さ」が画面に与える制約もとても無気味に働いていたのがよかった。必然的にカットワークが意外性に満ちているし、登場人物間の距離感もまたその空間に規定されて「親密であること」を迫られるような、そんな居心地の悪さ。
また、そのカメラの位置が限られるということで「画面に映らないもの」を思わせる。何か見えないものがそこにあるような予感を抱かせる。実際、監督が「映画に一度も出てきていない部屋がひとつある」と語っていたのがむちゃくちゃ怖かった。そしてラストでも「プレゼントの中身」を見せずに終わる。
距離感の話でいうと、終盤ナツキが家に入ってくるシーンの不快感はまさにハネケの『ファニーゲーム』そのままだった。

何より個人的には音の使い方がすごく好きで、実際、異様な環境音へのこだわりがある作品だと思う。
出町座(商店街の真ん中にある小さな映画館)で観たせいか、「この足音、人の声、映画なかの音?」って不安になった。あとで聞いたところでは実際に意図的に入れている部分があるとか(ごぉ〜〜〜って音は劇場内の空調だった)。
そんなふうに環境に依存したインスタレーションのような体験のようでした。
だからこそ、清原惟監督がクラシックとノイズに造詣があるという話にむちゃくちゃ納得したな。映画そのものもかなりエクスペリメンタルだし、「家の中を歩くと呼応して音がどこからともなく流れる」みたいなインスタレーションとか企画してほしい……などと取り留めのないことを思ったりした。

トークショーでは細馬さんの言葉がとても面白かった。「記憶をなくすことで開く身体の回路」という言い回しが記憶に残る。
そこでは清原さんはあまり喋らず、「確かに!」と自分の作品に対する新鮮な視点を楽しんでいるらしく、ほっこりした。清原さんのチャイナっぽい服がとても可愛くていいな~~~と思いました。雑感。

個人的ベストシーンはじゃんけんするとこ。
昨年のPFFアワード、グランプリ受賞作品。今作はベルリン国際映画祭に出品されたり、監督の清原さんはアジアで若手一番の監督に選ばれたりと色々躍進を続けている作品。

まずはストーリー。この作品、ストーリーを追うだけでも結構きついです。二つの共同体が同じ家に住んでいる設定で、その二つの共同体の関わりは描かれてはいないんですね。でも、たまにクロスオーバーするところもあったりして、時系列や世界観を共有しているように見えるんですが、距離感は最後まで微妙なままで、そもそも時系列や世界観を共有している証拠やヒントすらもないんです。これは参った。この手の難解な作品は数見ても、今回もどうやら降参です。ストーリーの良さはわかりません。

でも、この清原監督、カメラポジションは絶妙に良い。というよりこれをセンスと呼ぶんでしょうね。全編通して、カメラの動きはそれほどなくて、たまに登場人物の動きに合わせてフォローするぐらい。それも極端に人物が走らない限り動きません。ただそれが作品にマッチしていて、客観的な視線を一貫しています。そしてカットそのものも美しいし、あー考え抜かれてるなーというショットがちらほら。あと、家の中のカメラワークも徹底してましたね。違う共同体同士を同じ家に住まわせて描いているのに、カット構成はほとんど一緒で妙な親近感というか同一感を演出してるんですね。

エンドロールに連なる学生さん方の名前と役職、仕事の振り分けに関してはプロさながらです(一丁前に制作助手まで設けやがって)。
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