わたしたちの家の作品情報・感想・評価

「わたしたちの家」に投稿された感想・評価

あきた

あきたの感想・評価

2.2
バッハのフーガとリンクしてるの?
頭使わないとうまく理解できないし楽しめない作品かも。途中で疲れて思考放棄しちゃった

自分の楽しむ力の無さが情けない
作り出せる人にただただリスペクト..

妄想する歓びをかき立てられます。
今、私の妄想は止まりません。

以下、妄想です。

この家は、おんなたちの家である
男は遺物として排除される

遺伝子の記憶があるように
記憶が遺伝することもあるように
家もまた、記憶する

異界か現実か
境界をまたぐような
境界が揺らぐような
そんな風に
カーテンが揺れる


余談
あれだけ小道具などにもこだわりながらも、手作り感満載のカーテンの横に、芹沢銈介(多分)のタペストリーがあることには、ちょっとした違和感を覚えました。
れ

れの感想・評価

4.0
パラレル古民家めちゃくちゃおもしろかった

もう一回観たら、また違うことを思いそうだな、とか。
稲生

稲生の感想・評価

4.0
20/3/10
日本の自主ばかり見てても仕方ねーなと思いながらもDVDBOX届いたので鑑賞。『小さな声で囁いて』もそうだけどよくいえば優等生的悪くいえば無難なことをしてる箇所が気になったりもするけど点数つけるとここ。面白い。

19/4/28

17/9/20
ぎゃり

ぎゃりの感想・評価

4.8

このレビューはネタバレを含みます

監督の講演会付きだったので、とても勉強になった。
もしかしたら映画の中の世界とこっちの世界の間は薄皮一枚の境界で、手を伸ばしたらむこうの世界と繋がれてしまう?と感じる不思議な作品。
・「独立した複数の物語が、独立しつつ、ひとつの物語になる」という構造とバッハの《フーガ》という音楽の形式とを重ね合わせ、具体化していくという発想。
・色で2つの物語の対象性をあらわしている。美術ものすごくいい、好みです。
・恋人とも家族とも名称のつけようのない空間が立ち上がる、それが家のように感じられる関係性(この作品では女と女)
・家と女の人の神秘的なむすびつき。
・あいまいな境界線(例えばカーテン、障子、シャッター)
ぴゃ

ぴゃの感想・評価

-

◆初見の感想

人物も、テーマも、舞台設定も、語り口も、演技も、
かなり曖昧な作りの映画。

“曖昧”こそがテーマのような作品。

個人的には、映画とはやはり
とことん具体的な媒体な気がする。

扱うものが物体を持たない「印象」や「概念」や「感情」であっても、
描き方が抽象的であっても、

最終的に観客の胸を動かす映画としてのパワーとは、
具体的な何かによると思う。

黒沢清も曖昧な作りの作品が多いが
注意深く観察し、感性を豊かに観れば
作品の中にある具体性に辿り着くように思う。

黒沢清作品では
その具体性が様々なフィルターを通して曖昧で得体の知れないものに変換されるが、
最終的には
元々の具体性が持っていたパワーが
観客の心に波紋をもたらすように作られていると思う。


本作はかなりこだわって撮影が成されていて、
画面は非常にリッチな出来上がりなのだが
目が慣れてからの中盤以降は
作品の抽象性が仇となり、
映画としてのダイナミズムが失われてゆくようだった。

小道具、舞台装置である
柵、ガラス戸、障子、透明なカーテン
などは
“人物と人物”
“人物と空間”
などの間に引かれた
曖昧な境界線を具体化する
とても良いモチーフだったとは思った。

だがこれらに
観客の心に働きかける機能までは
与えることが出来ていなかったように思う。

◆監督インタビューを読んで

一言では言い表せないが、主に
“存在”の不確かさ
に焦点を当てた映画
であったのだろうか。

そのテーマを
具体的な”家”という物体を象徴として物語ろうとした。

「自分は本当に生きているんだろうか」
という問いは
「並行世界」や「霊界」など
目の前の現実世界以外の
可能性を浮き上がらせていく。

「目で認識出来る事以外の可能性」
という意味では
“女同士”という、
友達関係でもなければ姉妹関係でもなく、家族ともまた違うが
でもどれにも当てはまる、
といった
認識の綯交ぜになった関係性も
本作品内で示された一つの事象かもしれない。

映画づくりの出発点としては
ジャコヴァンドルマン監督と似ているが

作品の出来上がりは
ホラー風味もあり、全体的に夢見心地なタッチ。
(黒沢清監督に師事した経歴との関連もあるのかもしれない)
Haru

Haruの感想・評価

4.2
好きか嫌いと言えば、ちょうど真ん中かな。
テンポがゆーっくりでそこは物足りなく感じてしまったけど、緊張感と不思議で心地よい感覚が共存するこういう映画は嫌いじゃ無い。

みんな女性のキャラクターたちは魅力的だけど、一番透子が好き。あの2人のプラトニックな感じの関係性がとっても良かった。

女性同士が一緒に住む→性的な関係になる
というレズビアンの映画表現は世の中に溢れてきているので、こういうのはすごくいいな。白黒はっきりつけない感じが。

清原監督の[境界線はあるけれどそこに存在しているものは、どっちでもあってどっちでもない]
そんなスタンスがわたしには響きました。

作品構造において、きわめて大胆なアイディアをもった意欲作。
ひとつの家という空間のなかで、ふたつの世界がかさなりあうそのさまが、なにひとつ特殊撮影効果に頼ることなくえがかれている。
そのさり気なさと周到さに舌を巻く。

家の玄関を区切る半透明の引き戸と、鉄製のシャッター。
二階へあがるルートの不思議な左右対称感が印象的。
https://note.mu/marcelo/n/nd885e0dc7091
津次郎

津次郎の感想・評価

1.0
少女達のダンスのあと、古風な家屋内を、まんま小津な腰位置のカメラがとらえる。
そのあと海岸で少女が少女らしき屈託を語る。

15分ほどで青臭さに嫌気した。
と同時に、筋が追えなくなる。
二家庭がパラレルに存在する話。ゆえに編集を交錯させている。
おもしろくない+わからない。

にもかからわず、映画は叙情を露わにしてくる。
岩井俊二風の多感な気配を見せる少女。
いきなり、丘を越え行こうよ口笛吹きつつと歌い出し、きゃははとたわむれる、ふたりの女性。
こっちが何にも理解していないのに、リリックな情景をやらかす──その圧倒的な恥ずかしさ。

パラレルはあるていど補完される。それにしても、その途上、楽しくはなかった。
多重世界に独自性が有るか無いか、小津安二郎へのオマージュ、それらは、ひとまず置いて、監督は根本的なドラマ演出のメソッドを学習すべきではないだろうか。

しかし、この映画はなんかのアワードを獲っている。
世のなか、芸能にプライズは数あれど、未熟でも与えられるのは映画製作者だけだ。その理由は、文や絵などの個作品に比べ圧倒的に応募が寡ないこと、加えて、賞が産業振興を目的としていることにある。アワードの知名度が低ければ低いほど、振興が主眼になってくる。すなわちクリエイターの背中を押してやることを目的としている。

ただし、こういうセンスの人が映画をこころざし、授賞に気をよくし、果然、映画製作に打ち込むなら、日本映画の未来は暗い。
この国の映画の新人は、振興コンペティションに勝った「鬼才」であることが多い、と個人的にはみている。やりたくて熱いひと、かれが厨二であろうと、門戸を開けている。

映画監督という職業は、この人のように芸術──ぬるいコンペティションから出発する人と、現場で叩き上げる人の二種類に大別される。
もし芸術から出るなら、社会/人間のことをじゅうぶんに知らなきゃいけない。
基礎技術を経たなら、人生経験がものを言う──そうでない芸能は、この世に存在しない。大衆に伝わらない映画を撮るんだったら、インスタレーションでもやってりゃいい。
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