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「アダプテーション」に投稿された感想・評価

かこ

かこの感想・評価

4.6

このレビューはネタバレを含みます

ランに関する小説も、メリル・ストリープ演じる作家も実在するというのが驚き。
抜群すぎるメタ思考。
最高の入れ子構造。

こういうのって間違えると一気に滑るからなぁ。
けどテクニックが目立ちすぎてるわけじゃないし

あー、本当に尊敬する脚本家。



ドナルドという虚構の弟の使い方抜群。
ほぼそこでハリウッド的な起承転結を処理してる。しかも、弟本人がそういう哲学を持っている。


やっぱ、マルコヴィッチより今作が
今作よりエターナルサンシャインが、
ドラマとして心で感動できるものになっている。
頭で面白いと心で面白いのバランス感覚。

やってることは今作が一番好き。
映画としてはエターナルサンシャインが一番好き。
oji

ojiの感想・評価

3.8
『マルコヴィッチの穴』から引き続いてスパイクジョーンズ
ナレーションを多用しているからか、客観性が強い気がした。ストーリーもマトリョーシカみたい。取り上げた題材を描きつつ、それをさらに脚色しようとする。結局全然違うのも、それに至るラストの展開も、他の映画からしたらハチャメチャ
ウディアレンの作品見た時の感覚かなぁ

脚本家のマッキーにブチ切れられるシーンめっちゃ笑った
桃尻

桃尻の感想・評価

-
2022(111)
チャーリー・カウフマンの頭の中
脚本を書く脚本の映画で構造も話の持って行き方も面白い
Dのケイジが幻っぽい
(57)
かなり大好物だった、俺はこういうハナシに弱い、程度は違えど脚本書こうとしたことあれば共感できるよな〜

@ U-NEXT
kyameru

kyameruの感想・評価

3.4
途中でなにみてるかわからんなりつつ。マルコヴィッチ的なのを期待しすぎたかも。冒頭のマルコヴィッチ撮影風景の設定から始まるとこで面白そうって思ったけど、むしろただの脚本家の話として見たほうが変な期待をなく見れたかもしれません。
hana

hanaの感想・評価

-

このレビューはネタバレを含みます

進化の旅は適応の旅
ビーオーキッドも幽霊蘭も3万種類ある蘭もチャリーカウフマンもニコラスケイジも我々もみんな
m

mの感想・評価

3.7
マルコヴィッチの穴撮影現場再現は激アツだった発想が本当に面白いな〜チャーリー側の人間だから終始がんばれ!ってなりました
baby

babyの感想・評価

3.6
なんだろう。
わかんないけど妙に響いた。
マルコビッチの穴は
まだ未鑑賞だけど、何故か先に
こっちをみてしまったので、やや何が
どうなってるんだか最初は
わからなかった。
もう一度マルコビッチの穴観て
ハマったら戻ってこよう。

愛されるより愛すほうが大事だ。
この言葉が私もチャーリーと同じ
タイミングで響いた。ドナルドの
あの奔放さは羨ましいし、真似できない。
プライドも少しあるし、真似できない。
けど実際はただモテモテなんじゃなくて
ちゃんと他の人を愛しているから
愛が帰ってきている。
どんなにチャーリーみたいにいいやつでも
愛を伝えないと返ってこない。
なんか最後が響くという予想だに
しなかった映画鑑賞になった。
でも彼のグルグル回っていく脳みそが
大好きだった。
あった人あった人を自慰行為で
消化していくのも単純で面白かったなぁ。

チャーリーカウフマンが好きなのかも。
arch

archの感想・評価

4.0
https://www.arch-movie.com/entry/Adaptation

アダプテーション、それは本作において「適応」と「脚色」を意味する。本作は脚本が如何に滑稽で崇高なプロセスを経て、生み出されるのかを自伝的かつ自嘲的に、しかし明確な攻撃目標を見据えて描かれる。

誰かの物語(小説)に惚れて自分色に染めあげるという作業を脚色とするなら、冒涜的なニュアンスを孕むだろう。特に「ハゲでデブ」な凡人の彼(チャーリー)にその行為は本当に本当に難しい行いで苦悩する。だがその一方では脳内で理想の相手を「犯す」ことの禁忌さに酔いしれているのも事実。それは彼のマスターベーションと共に暗示されるわけで、そういった意味でチャーリー・カウフマンは脚本が生まれる過程の滑稽で崇高なプロセスだと感じているのではないだろうか。
その自身の脚本家としての作業を自ら俯瞰で捉え、それ自体を映画にするという行為はまさしく「8 1/2」でフェデリコ・フェリーニがやって見せた事の脚本家版だといえる。ただ、違うのは本作は攻撃的な意図を含んでいること、また自身が目指す脚本の境地と実際それを成す困難さを自嘲的に描いているということだ。
ひとつずつ説明する。まずは攻撃目標がなんなのかと言うと「ハリウッド的映画のストーリテリング」であることは自明で彼が頑なにマッキーの脚本講義を受けようとしなかったことから分かるはずだ。劇中ののチャーリーは「花の脅威(素晴らしさ)をシンプルに映画にしたい」というが、それは物語の中に困難に立ち向かう姿や成長というものが映画の必要条件に現状に対して、ドラマを描かないというアンチテーゼに他ならない。

これは現実のチャーリー・カウフマンの脚本の一つの趣向でもある。本作がチャーリー・カウフマンの物語とメリル・ストリープ演じるスーザンの物語で支離滅裂に交錯させ、チャーリー・カウフマンが延々と悩み、一向に何も進まない様を描く前半はまさしくその趣向に準ずる行為だといえるかもしれない。だがこの映画は他の映画に習うように劇的な展開がクライマックスに用意されている。表層的になぞれば、これは「降伏」に他ならない。しかしそうではないのがチャーリー・カウフマンという男の遠回しなやり口なのだが、その前に「映画にとってドラマは必要条件である」ということについて考えてみたい。

私はその必要条件について考える時先程も上げた『8 1/2』を思い出す。
監督であるフェリーニは『8 1/2』を何も起こらない映画として作ったとインタビューで語ったことがある。確かに当時にはやはり珍しい手法であった訳だが、「8 1/2」が本当に「何も起こらない映画」として納得することは難しい。なぜなら主人公は間違いなく、画面の中で営みを行い人と関わり、最後に「結末」に至るからである。本当に何も起こってないとは何の「結末」に至らないことを指すのではないか、と考えた時どうしても当時の主流からの相対的な評価として「他作に比べて何も起こらなかった」ということなのだと思うのだ。
なのでやはり、私は映画から完全に「ドラマ」を奪い取ることはできないのではないかと思う。

となったとき、チャーリー・カウフマンはその映画の不可能性に挑む無謀な行為をどう成し遂げたようとしたのかというと、「脚本」を意識させたのだと思う。
もっと言えばハリウッド的に「脚色される脚本」を意識させたのだ。それは本作が二つの"ピリオド"を内包していることから読み取ることが出来る。
一つはスーザンとラロフがユリを見つけられなかったという場面。ここは映画的にも劇中内で執筆される脚本的にも一つのピリオドになる、つまり幕引きとなる場面だろう。もしここで終わらせたならチャーリー・カウフマンの目指す「何も起こらない映画」になりえた。なぜなら「結末」にドラマがないからだ。

だが、そこで終わらせたならこの映画は酷くつまらない。特に観客にとって誰も満足できない作品になっていたはずだ。だからこそ観客の要請により本作は続きを必要とした。まさに加筆という"脚色"がここから始まるのだ。

そこからは明らかにおかしなことが起こり始める。
ここで説明しておかなければならないのは、共同脚本としてクレジットされ、作中にも登場するドナルド・カウフマンが完全にフィクションの存在であるということだ。本作は実在の人物であるチャーリー・カウフマンを主人公に『マルコヴィッチの穴』という実在の映画について触れる本作は実話に基づくとは銘打たれないも、実話のような体裁を持っている。そして同時にアダプテーションによって物語が変化していく流れを自覚させられる物語でもある。そのためドナルド・カウフマンという架空な人物は「実話を脚色することで生まれた存在」として存在感を発揮する。つまり現実に施されたアダプテーションそのものがドナルド・カウフマンだといえる。
そんな彼が後半の"続き"において、前半よりも明らかに物語に関与し、ストーリーの推進力になっていく。スーザンに直接ドナルド・カウフマンがコンタクトするという展開から始まり、ドナルドは「あいつは嘘つきだ」と言い始める。スーザンがこれまで"実話"とされてきたのに対し、ドナルドは"虚構"であるはずが、ここで明確に物語の虚実が反転し始める。ビルの向かいから双眼鏡で監視をし、追跡し、銃で脅され、ワニに襲われ、事故死する。その合間にはこれまでほとんど描かれなかった、極めて物語的な双子の会話劇が挿入され、事故死の際も別れ際に「ハッピートゥゲザー」を囁く。
このようにして完全に脚色された世界の住人に成り果てた劇中のチャーリー・カウフマンは、愛する恋人と現実的でない結末を迎え、「ハッピートゥゲザー」と共に車で颯爽と走っていく。

どんどんとハリウッド的な急展開になっていく一連のこの恐ろしい展開はまさに"実話のような何か"が脚色されていく様と表現出来る。
そして何より恐ろしいのは観客はそのハリウッド的な何かになったそれを、我々向けに脚色された脚本を意識しながら観るしかないということ。はっきりいってこれ程いたたまれない空気はない。
このいたたまれない空気こそがチャーリー・カウフマンの「何も起こらない映画」に対する答えだ。つまりハリウッド的な映画に迎合する姿勢を取りながら、観客に「脚色された脚本」を意識させることで、観客にハリウッド的な映画を「楽しめなくさせた」のだ。
まぁこれはもちろん、そういう意図があるというだけで、作品自体はその構造の面白さも含めて非常に面白い作品にはなっていたということは誤解のないよう書いておく。

ここまで長々と書いたが、これが本作の構造的な部分に対する私の考えだ。本作こそがチャーリー・カウフマンの意思表明であり、「8 1/2」であり、『もう終わりにしよう』にまだ通底するストーリーテリングだなのだろう。ちなみにGoogleで画像検索する限り、チャーリー・カウフマンはハゲデブではない。なのになぜハゲデブであろうとするのか、『もう終わりにしよう』のハゲデブも含めて考えて見るのはありだろう。
斬新と混沌は紙一重

奇抜な設定と難解なストーリーではあるが意外と自然に没入感あった。不思議な映画ではあるが後半徐々にギアが上がってくるので辛抱強く待つしかないであろう。
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