女は二度決断するの作品情報・感想・評価

女は二度決断する2017年製作の映画)

Aus dem Nichts/In the Fade

上映日:2018年04月14日

製作国:

上映時間:106分

3.8

あらすじ

ドイツ、ハンブルク。生粋のドイツ人のカティヤはトルコからの移民であるヌーリと結婚する。ヌーリは麻薬の売買をしていたが、足を洗い、真面目に働き、息子も生まれ、幸せな家庭を築いていた。 ある日、ヌーリの事務所の前で白昼に爆弾が爆発し、ヌーリと愛息ロッコが犠牲になる。トルコ人同士のもめごとが原因ではないか?と警察は疑うが、移民街を狙ったドイツ人によるテロであることが判明する。突然愛する家族を奪われた…

ドイツ、ハンブルク。生粋のドイツ人のカティヤはトルコからの移民であるヌーリと結婚する。ヌーリは麻薬の売買をしていたが、足を洗い、真面目に働き、息子も生まれ、幸せな家庭を築いていた。 ある日、ヌーリの事務所の前で白昼に爆弾が爆発し、ヌーリと愛息ロッコが犠牲になる。トルコ人同士のもめごとが原因ではないか?と警察は疑うが、移民街を狙ったドイツ人によるテロであることが判明する。突然愛する家族を奪われたカティヤ。憎悪と絶望の中、生きる気力を失いそうになりながら、カティヤはある決断をするのだった。

「女は二度決断する」に投稿された感想・評価

くぅー

くぅーの感想・評価

4.1
my映画館2018#54> 何ともやり切れないラストながら、納得のラストでもあり・・・またもや唸る様な作品に出会ってしまったなぁ。

ヘビーな題材ながら、明確に三部構成にしてあり、【家族】、【正義】、そして、【海】となってるのだが・・・家族を失い、正義も失い、原題が意味する様に、全てを失ってからの彼女の決断が見所となる。

さらには、二度の決断があるのだが、海での二度の決断はもちろん・・・血を流しての二度の決断とも掛かっていて、タトゥーの伏線等、この監督はしたたかで巧い。

で、あのラスト・・・無論正しくはないが、様々な絶望を止めるには、ああするしかなかったのかもしれない。

久しぶりに見たダイアン・クルーガー・・・圧巻の"情"熱演を見せてます。
空衣

空衣の感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

Uni Kino (DmE)

原題はaus dem Nichts(ゼロから)だけれど、zurück 「zum Nichts」((無に帰す))って感じ。始まりも終わりも海が受け止めたようなエンディング。

ドイツの法廷シーン初めて見た。

被告人(爆弾仕掛け人)弁護していたオッサン、まくしたてた発言のあとDanke言っときゃいい、みたいな間のなさがウザさ抜群だった。

それに裁判期間は、ドイツの冬。最悪に孤独で、映画としては最高。ハンブルクに雨と煙草が似合う。
「人肌恋しいとかそういうレベルじゃない寒さで生命力が削がれているうえに、愛する夫と息子が奪われた」状況で、加害者がいちゃいちゃしていたら動脈も静脈も沸騰しそうになるよそりゃ。ずっと付き添ってくれていた女性、子連れで訪問するのももう、主人公からしたら遺伝子が痛かっただろう。

大学の大教室でDVD上映で観たけれど、法廷ラストで何度も中断されてしまって細かく全部は観れなかった...ちょうど裁判みたいに「休憩!」ってちゃちゃ入れるドイツ人学生のノリが最高でした。

二度目の爆弾しかけに行く前、弁護士との電話で彼はChaoと投げかけたのも、印象的。Tschüss(か、北ドイツなら硬派にAuf Wiedersehenとか言ってそうなイメージあるくらいだから、)ほかではなく一番軽めのChaoが最後の挨拶に出るあたり痺れるなぁ。どうでもいい語感の話。

トルコとドイツの繋がりはすごくある、と双方の国で感じた。
ネオナチ。

邦題は気になる。自殺未遂、裁判、爆弾しかけに行く、やっぱり撤去、加害者と共に自爆。何度も決断はしていた。「女は三度決断した」なんかでは惹かれないのはわかる。
こう「女」を感じさせるのは、生理がきて、もう愛する夫もいなければ子どもを産むこともないだろうに、虚無な現実が突きつけられたから、ふっと覚悟が決まったようにも見えた。
Rena

Renaの感想・評価

3.4
捜査とは 法律とは
一体何を裁き 何を救い 何を守るのだろうか
そして、もしそこから弾かれてしまったのならば、このやり場のない感情をどうしたらいいのだろうか

また、犯罪者の悪びれない姿
それに加担する者の薄っぺらい心理...
それらの不敵な笑みが、心底厚かましかった

無実なはずなのに移民というだけで不審に思われ、足を洗った過去をも疑われるその始末。
ダイアン・クルーガーの迫真の演技が凄まじく、それは、あの美しい彼女の本来の姿を忘れてしまうほどでした。

私の想像以上に重く、辛い作品でした。
ファティ・アキン監督の問題提起はしっかり受け止めましたが、答えは出せないです。
しみず

しみずの感想・評価

4.5
まじか、やるのか、、いややらんのか、、え?やっぱやるん?!しかも!?
こんな軽い作品じゃないけど。
侍魂、素晴らしいラストでした。
yatachi

yatachiの感想・評価

3.9
映画は最高なんだけど、邦題がクソ
もしこれが妻子殺された父親の話なら「男は二度決断する」って題になります??日本社会に染みこまれた女性蔑視の現れでしかない。普通に原題をそのまま訳せ!ドヤ顔で邦題つけたんだろうけど、ほんとに映画が好きでニュートラルな物の見方ができる人に任命権を与えろ
あ

あの感想・評価

4.2
配給ビターズエンド
字幕吉川美奈子
シネスコ

ほぼ前情報入れずに行ったらなんかとんでもないものをくらってしまった そんな作品

これあまり入ってなかったけど ぜひ観てほしい作品
メガネをかけた息子が見つめる冒頭がなんだかすべてを俯瞰して見ていてたのかもしれない なんて観終わってからおもったりもした

3部構成のなかで真ん中の法廷シーンである2部がすごく面白かった
ドイツの法廷ものって初めて観たんだけど あの言語の音でブチ切れてまくしたてる感じが 英語とも日本語とも違って勢いがあるんですよね
で どんなに切れてても最後にダンケ!と収めるのがドイツっぽくて (訳は以上です となっていたけど 以上ですというワードは別にDas war's.という言葉もあるんですけど Danke.なのが個人的に面白いなぁと)
この方は訳が上手いですね 吉川さん
Frau ○○(英語でいうmrs ○○)と呼びかけるところでは Frau○○!Frau○○!と2回呼ぶところを○○さん!○○さん!とせずに ○○さん!お待ちください!と訳してて なるほどーとなったり
(○○のとこ 名前忘れたけど 主人公の名前)

ダイアン・クルーガーのスタイルがよくて足とか細すぎて現実味なかったけど
彼女の怒り、迷い、悲しみ、決断、そのすべての瞳が違って見えたので カンヌ受賞も納得です

原題はaus dem nichts(何もないところから とか どこからともなく みたいな意味)だけど日本語にしにくいので この邦題は久々に良い邦題とおもいました
藍沢悟

藍沢悟の感想・評価

3.0
大切な人を殺された挙句、無罪判決まで持ち込めなかったら、そういう精神状態になってしまうよな、と思ってしまった。
周りの人間に支えられても、時間が流れても、心に折り合いがつけられないこともある。

世の中にはまだまだ拭いきれない差別や偏見がある。
無差別テロは当然あってはならないことだが、被害者側に寄り添って撮られるととてもじゃないが、冷静に物事を見ることが難しくなるな、と感じた。

カティヤが取った行動は、答えのひとつ。
でも、それが正しかったとは言えない。
誰も報われない。
誰も救われない。
作中の裁判での長い長い道のりに途方に暮れてしまうのと、人間の善悪を公平な眼差しから見ることの難しさは似ている。
きっと一生答えが出ない。
紫色部

紫色部の感想・評価

3.0
2018.6.15 アルテリオ映像館

語らずして語る俳優陣の顔や体格にみんな圧があって良い。圧があまりに強いので、裁判シーンの手前と奥とでピントが合ってるようにすら見えてくる。タンポン買いに行く長回しはずっとドキドキしながら見てた。ダイアン・クルーガー系女史

このレビューはネタバレを含みます

 やっと書けたレビュー。

 2000年から2007年にかけて「国家社会主義地下同盟」というネオナチの極右テロ集団に9人の外国人と女性警官1人が殺害され、太い釘を800本も詰めた手製の爆弾テロで22人が重軽傷を負うという事件もあった。しかし、ドイツ警察は「トルコ人の犯罪組織内の抗争か、麻薬販売をめぐるトラブル、あるいはトルコ人とクルド人の抗争」との思い込みで捜査、そのために10年以上も解決が遅れたという事実へのひとつの応答として、この映画は着想された。「自分にあったのは怒りだった。怒りは創作者にとってはひとつの恵みでもある」と監督。

 「最初にプロットを書き出した時から、エンディングは決まっていた」という。初め監督自身の分身でもある主人公は男性だったが、夫と幼い息子を爆弾テロで殺された母親の物語へと変換され、「ヒロインは金髪碧眼でなければならない」−−−−これは藤原帰一によれば、ネオナチのドイツ人対トルコ系ドイツ人の対立というありがちな構図に陥るのを避けるため−−−−と思い浮かんだのが、2012年のカンヌ国際映画祭での小さなパーティにやって来て「機会があればあなたの映画に出演したい」と言ったダイアン・クルーガー。彼女にとっては、25年ぶりにドイツに里帰りして、初めて母国語で主役を演じた作品となった。

 夫と6歳の息子を爆弾テロで無惨に殺されたヒロインのカティヤ。事件の直前に自分が目撃した若い女性が犯人だと直感、警察との歯噛みするような応酬になんとか耐え、それでも悲嘆のあまりに死のうとしたところで、ネオナチの若いカップルが逮捕された。自宅のガレージに爆弾の材料があったことを告発し、「息子はヒトラー崇拝者です」と法廷で証言した犯人の父親と、つかの間、ヒロインは向き合う。我が子を他人に殺された親と、我が子が他人を殺した親とはたしてどちらの方がつらいだろうか。   
 だが、「疑わしきは罰せず」という法廷の原理で犯人は無罪放免となる。若いカップルは極右集団のネットワークを利用してキャンピングカーでギリシャへ。2人を追ってギリシャにやって来たヒロインは、そこである決断をする−−−−。

 犯人たちと同じ手法で釘を大量に詰めた爆弾を作り、リュックに詰めて、一度は彼らのトレーラーの車体の下に仕掛ける。が、つと、走ってそのリュックを取り戻しに行き、再び草むらに身を潜める。トレーラーに2人が戻って来た後、今度はリュックを背負ってトレーラーの扉を開けて中に入っていく。そしてラストシーンは爆発して燃え上がるトレーラー・・・・・・。

 この結末について監督は「チェスで言えばこれしかないという王手として自分にやって来た。あとはこのエンディングに向けて、ヒロインを造型し、彼女の行動を考えていった」とドイツ文化センターで開かれた記者会見で語った。

 ヒロインは2度目の決断をするまでの極限的な状況で何を思ったのか? 愛する夫と息子を殺されて以来、生きていく気力はとうに失われていたのか? 復讐とは言え、自ら人を殺した後に生きていくことはできないと考えたのか? あるいは爆弾を遠隔操作で爆発させるだけなら、憎い犯人たちと自分は同じことをすることになると気づいたのか? ならば、彼らにはっきりと自分自身の姿を見せて、彼らの死の間際に自分たちが何故死なねばならないかを思い知らせてやろうとしたのか・・・・・・?

 この結末はプレミア上映されたカンヌでの記者会見以来、物議を醸してきた。私自身もこの結末について問い正したいと秘かに想って記者会見に赴いたものの、日本の記者会見のヌルくもあたりさわりのない言論空間ではとてもそんな質問ができる雰囲気ではなかった(私にも敢えて発言するガッツはなかった^_^;)。
 
 映画を見た直後に私に浮かんだ疑問は以下。
 個々の人間に復讐を任せる(日本で言えば敵討ち)と社会の秩序そのものが損なわれるから、近代社会は殺人に対して「法による支配」で社会的な正義を回復させるシステムを形成したのであり、「疑わしきは罰せず」という原則も歴史的に積み重ねられてきた経験から冤罪を防ぐために生み出された智恵であろう。それを否定してよいものだろうか?

 同じようなことを考えたらしい朝日新聞の記者が監督にインタビューで質問している。「推定無罪」など近代法の根本を否定し、時計の針を「目には目を」というハムラビ法典の時代にまで戻しかねないのでは? と。
 監督の答えは以下(2018年4月19日付け)。
 「近代法を批判するつもりはありません。しかし、法律が人間の感情を満足させられないのも事実です。私は法律と感情の葛藤を描きたかった。『目には目を』という感覚は我々の中で死んではいません。愛する者を奪われた遺族は非常に感情的になっています。ところが、裁判所では感情を抑制せねばならない。彼らにはカタルシスが必要です。それを提供できるのが映画なんです」。
 このインタビューは全体として自身の映画が不本意な捉え方をされているという監督のイラ立ちが随所ににじみ出ている。それもあって、この答えは筋道が通っていないし、あまり説得力はないと言っていい。第一、感情のカタルシスを提供するのが映画という文化装置なのだと、凡百の商業映画を撮る監督が居直るのならともかく、ファティ・アキンという監督が発言してよいものか? この作品のテーマはそんなに簡単にカタルシスを与えられるほど軽いものなのか?

 作家の高橋源一郎はやはり朝日新聞の広告欄(4月6日掲載)でこのエンディングについて次のように述べている。
 「ラスト、カティヤが下す決断は正しくないかもしれません。けれど、負の感情だけに支配された行動とも違います。彼女は人が本来持つべき〝心のはかり〟に「復讐」を乗せ、もう片方に何を乗せれば天秤が釣り合うかを考えて自らの行動に責任を負ったのです。彼女が乗せたものの重みは、赦しと同じくらいの意味があると私には思えました。どうしたら、憎しみの連鎖を断ち切れるのか−−−−。その問いへの答えの一つが提示された気がします。テロという現代社会の深い闇の中にかすかな光を見いだすためには、心の中に繊細に揺れるはかりを持つことだと、この作品は気づかせてくれるのです」。
 談話であるのを差し引いても、この論理展開もいかにも苦しい。自爆テロの実行犯も〝心のはかり〟の片方には、カティヤと同じく自分の生命を乗せていることを考えれば、そもそも秤という喩えは的を射ていないのでは。

 この映画を日本人という言わば部外者である立場で見ると、ネオナチのカップルはいかにも幼く、いったいなにを考えてあのような恐ろしい行動に及び、しかも平気な顔ができるのかと大きなクエスチョンマークが残る。が、監督はネオナチがどんな人間なのかには一切関心を持っていない、というか、関心を持つ値打ちさえないと考えているようだった。

 さて、私がこの映画のエンディングをどう見るかについて出した答えは−−−−。
 ネオナチは移民であるというだけで何の罪もない人間を殺した。それと、ヒロインが自爆と引き換えに復讐を遂げたのは、どちらも人殺しという点では同じなのだろうか? 答えはノーだ。そこから明らかになるのは、ネオナチが犯す殺人のどうしようもない薄っぺらさ、無意味さであり、だからこそ途方もなく残虐なのだということではないか。それをこそ、観客に伝えるためにこのエンディングはあったのではないだろうか。
 おそらくこの解釈も、監督らが意図していたことではないだろう(ネットでいくつかのインタビュー動画や記事に目を通してみたが、その限りではそれを示唆するような発言はなかった)。なるほど、これが映画というアートの力なのだ。
おもしろかったですねー!

ダイアンクルーガーの演技!

消えた声がその名を呼ぶの監督なんですねー、こんな映画も撮れるなんて最強ですね!
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