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ナチュラルウーマン2017年製作の映画)

Una Mujer Fantástica/A Fantastic Woman

上映日:2018年02月24日

製作国:

上映時間:104分

ジャンル:

3.6

あらすじ

「ナチュラルウーマン」に投稿された感想・評価

blue123

blue123の感想・評価

4.0
トランスジェンダー女性役をトランスジェンダー女性が演じている。
愛する人と死別した直後、周囲の無理解と偏見によって、疑惑の目を向けられ、潔白を証明するために屈辱的な経験をし、まともに葬儀に参加することもできなかった、ある女性を描く。
話の焦点は「強さ」にあると思う。観れてよかった。
トランスジェンダーのマリーナはだいぶ年上のオルランドと、彼のアパートで同棲している。
マリーナの誕生日にレストランで食事し、幸せいっぱいだった一日が終わった時、オルランドの体調が急変し、亡くなってしまう。

ここで大きな問題が。
オルランドは妻と別居中の身で、まだ正式に離婚していなかったのだ。
肉体的には男性であるマリーナは、オルランドが搬送された病院、警察、彼の家族から迫害を受けるのだった…。

“迫害”と書きましたが、これ、全部、今の日本でも普通に起こりそうな出来事でした。
警察の取り調べは、オルランドの直接の死因は事故かもしれないので、相手が偏見ありありでも、もう少し警察に協力しないといけなかったんじゃない?と思ったし、
妻との対決でも、マリーナは妻を尊重して「奥様…」などと丁寧に応対していたけれど、不倫、略奪された妻の立場からすると、
“あたしゃ旦那を女じゃなくて男に盗られたの!?”と思うと、
余計に複雑で、あんなにキツイ言動になってしまうのも分かる様な…。

また、オルランドの最初の妻の子?である息子も、
やはり、アメリカ映画『人生はビギナーズ』のマイク・ミルズの様には父の人生を受け入れられず、マリーナに当たりまくる姿も、
もし、日本で同様の状況の人が居たら、似たり寄ったりの態度になっちゃうかな、と思ってしまう自分がいました。

劇中で、マリーナが強風の中を体を斜めにしてゆっくり進む姿は、
比喩的表現が直接的過ぎて笑いそうになりましたが、
結局、幾ら最近のテレビで女装家やトランスジェンダーの人をよく見かけ様とも、まだまだ日本社会も、チリと五十歩百歩なのだと思いました。

マリーナ目線で彼女の気持ちを丁寧に描いていたので、自分自身に反省しました。
何の情報もなしになんとなくで選んだけど後半の重さがなんとも言えん
自分として生きていくことについて波紋を感じた
lente

lenteの感想・評価

4.0
*チリ

できることなら美しいものにふれたいと日頃から思っているのですが、では僕の思う美しさとは何か?ということについては、少し自問してみる必要があるようです。

たとえば美しい花が咲いていたとしても、僕はあまり美しいとは思わない。美しい景色を見ても、僕の心はほとんど動かない。美しい女性がいたとしても、たぶん性欲を別にすれば僕は近づきたいとは思わない。いっぽう美しい花を見て立ちどまる人を、僕は美しいと思う。美しい景色を見ても、美しいとは思えない心に落ち込む人を美しいと思う。美しい姿に生まれなかった自分を、様々な思いで見つめているような女性を美しいと思う。

これは映画を語ろうとする言葉についてもあてはまります。

美しい映画について美しいと書いてあったとしても僕は美しいとは思わないのですが、美しい映画に立ちどまってしまう姿を美しいと思いますし、美しいシーンをどうしても美しく思えなかった心も美しいと思います。また映画に描かれる美しい人のようにはなれなかった自分を、様々に見つめるまなざしも美しいと思うようです。

この映画の邦題としてつけられた「ナチュラル」からも、そうした思いを託せるようなニュアンスが感じられます。



原題はスペイン語の『Una mujer fantástica』で英語にすると『A Fantastic Woman』。直訳すれば「素晴らしい女性」となるところを『ナチュラルウーマン』としたのは、LGTBQ(ここではTransgender)というモチーフを感じられるように、そして何をもってナチュラルとするのかという作品の本質に触れようとしたのだろうと思います(アイロニーの要素が強く入っている)。

また広義の意味での物語として僕は映画をとらえているため、性的マイノリティを社会的に扱ったドラマというよりは、人の尊厳が成立する条件を広くナイーブに描いた作品として観ました。もちろんトランスジェンダーであることの社会的な苦しみや課題も盛り込んではいるのですが、物語として上質に語られなければ力を持つことはなかったように思います。

下品よ。

そう言ったのは主人公マリーナ(ダニエラ・ヴェガ)。男性器をとったかどうかと尋ねられて彼女/彼がそのように答えるシーンがあります。

いわゆる社会派ドラマのように描かれる作品の基本条件は、ノン・フィクショナルに描くことよりも物語としての機能(もしくは物語を解体させる機能)を働かせているかどうかにあると僕は思っています。ですからそうした機能が働いていないものはマリーナと同様に「下品」だと感じます。

こうした意味で本作は、表層的なトランスジェンダー固有の現象を描いたというよりも、深層的な性を通した人の尊厳こそを描いたもののように思います。マリーナにとって人として輝くものも傷つけられるものも、いずれも性を通した尊厳であることが物語の進行とともにはっきりと伝わってくる。

私は人間よ。

あなたはいったい何者?と亡くなった恋人オルランドの元妻から尋ねられて答えたマリーナの一言。もしもマリーナが男のからだ/女のこころを持つのではなく、女のからだ/女のこころを持っていたのであればいたって普通の略奪愛になりますし、元妻がかける言葉もまったく異なるものになったはずです。このあたりの描写がたいへん巧みで、観ている僕たちでさえマリーナの略奪性には気づきにくく描かれている。

本来であれば、マリーナは「女」として元妻と対立したかっただろうと思います。けれど彼女/彼の周囲は論点をすり替えてしまうように、まったく別の対立へとズラしていってしまう。本当は「私は女よ」という一言こそをマリーナは言いたかった。この機微はトランスジェンダーでもゲイでもないのですが、別の意味で僕にはよく分かります。



昔からユニセックス感覚が僕の場合は強かったのかもしれません。男性と向き合うときにも女性と向き合うときにも、僕はどこか人であろうとしてきましたし、基本的には今でもそうです。けれどみんなは違うんだということに、妻と結婚してから気づくことになりました。やがて彼女と深く向き合っていくなかで、何度も繰り返してきた喧嘩や齟齬(そご)の原因が、この「性」にあったことをやがて知るようになった。

妻は人であろうとしたことはなくナチュラルにずっと女でした。僕はナチュラルに男である前に人であろうとした。食い違わない訳がありません。そのように注意していると、男の心は男としての性から自由ではないし、女の心も女としての性から自由ではないということが、はっきりと見えてくるようになりました。

妻以外の人たちもそれぞれの性を生きながら、ほとんど人であろうとしたことがない。またそのことを自覚した僕にしたところで、人として感じたつもりのことが、男としての性を周回する人工衛星のようなものに近かったということもよくあります。この作品でもまた性から離れることのできない心の有りようが、トランスジェンダーを通すことで逆説的に描かれているように思います。

そのことを象徴的に描いた美しいシーンがあります。

亡くなった恋人オルランドの家族から手ひどい仕打ちを受けたマリーナは、歌の教師を訪ねます。「逃げてきたのか?」と尋ねる教師に「愛の意味を知りたくて」と彼女/彼は答える。「愛は求めるものではなく与えるものだ」と教師は締めくくり、マリーナはヘンデル作曲『オンブラ・マイ・フ(かつてなかった木陰)』を歌います。恋人オルランドがかつてはプラタナスの樹木のように、稲妻や暴風からマリーナを守ってくれていたことを偲ぶように。教師の元を辞したあとの強風に立ち向かうシーンからもそのことはよく伝わってきます。

だからこそ僕の目には彼女/彼にとっての尊厳が、人としてではなく女としてしか成立し得ないことを物語っているように感じられてなりません。教師の言葉とは裏腹に、女にとって愛とは与えるものではなく与えられるものでなければならない。『オンブラ・マイ・フ』で歌われる美しく生い茂るプラタナスの木陰に守られるように。

冒頭で描かれる世界最大の滝(イグアスの滝)のシーンは、MtFトランスジェンダー(男の体/女の心)という女性性へと流れ込む、抗いがたい性の奔流を見るようですし、背筋を伸ばして歩くマリーナはいつでも女として美しくあろうとした。また亡き恋人の幻影をみたり、2人の絆である犬に固執したり、コインロッカーにあるはずもない2人の証を探しに行ったり、ようやく告げることがかなった遺体への別れなども、すべて女であることをナイーブに描いているように思います。

マリーナは「与えるのが愛だ」という言葉に動かされたのではなく、それは確かに「与えられていた」ことを時間をかけて確認していった。ラストのコンサートでもう一度歌われる『オンブラ・マイ・フ』は、そうでなければ僕には意味が分かりません。



監督のセバスティアン・レリオには『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』(レイチェル・ワイズ, レイチェル・マクアダムス主演, 2017年)があり、その原題は原作小説『Disobedience』(不服従)が示すように、ユダヤ教コミュニティのなかで生まれたレズビアン2人の引き裂かれた恋愛を描いています。

そして同作でも人間の「自由意志」がもたらす神への背任が、美しさに惹かれることによって現れる世界の裂け目として、またその裂け目にとどまろうとする愛の姿として、切実に映し出されています。人としての尊厳は、そのような経路からしか真の姿を浮上させることはない。

美しさとは何だろう?と思うときの美しさをみつめるまなざしの距離と、人の尊厳を生きようとするときの人であることとの距離は、(アイロニーを含んだ意味での)ナチュラルという言葉と響き合うように何かを物語っているように僕には思えます。またそれはほんとうにナチュラルな状態からは、決して生まれないもののように思います。
Chad

Chadの感想・評価

3.5
アカデミー賞をがらみは全作観るようにしてるけど、これはけっこう気分が悪くなる作品だった。映画として悪くないけど、嫌な気持ちになる人ばかり出てきて悲しすぎる。
差別するの良くないよ、ってこういう作品で訴えるのでいいのか?とか現実を知るためにはよいのか、とかそういう意味合いはないのかな、とかちょっと考えた。

AB級(ランク詳細はプロフィールに)
大木茂

大木茂の感想・評価

3.5
体感めっちゃ短く感じたって事はめっちゃ面白かったって事なんだろうな

最初はパッケージと違ってちょっと残念だったけど進んでいくうちにどんどん好きになってく不思議
寝起きのスッピンが一番可愛いっていうね

ドラァグクイーンみたいな話かと思ったけど予想と違ったわ
でもある意味あってたわ

にしてもあたり強すぎて(風とかも)苦しくなってくるね
それと同じくらい理解者もいるってのが優しい世界
ナチュラルにセニョリータって言えるの素敵ね
義理の兄エロすぎてセフレかと心配したわ
義理の兄だったわ
義理の弟も職場の先輩もいい人で安心

この映画は『答えじゃなくて問い』ってのは良いね

落下の王国でリーペイス知って
彼がトランスジェンダー役演じた「ソルジャーズガール」って映画知ってめっちゃ綺麗で観てみたかったのにソフト化すらされてないって知って漁ってたらこの映画見つかったんだけど
もっとトランスジェンダーのイチャラブ観たいんだよなぁ
こういう題材ってまだハッピーな感じで作れないから悔しいよね
マリーナとオルランドは恋人同士。
幸せな夫婦生活ながら突然オルランドは意識を失い亡くなる。
葬儀に参列したいオルランドだが、親戚一同は反対の意を。それはマリーナがトランスジェンダーだから。

もはやLGBTは当然の認識という部分もあるが、今だに否定する人も一定多数いることも事実。
その境界線をしっかりと見せるドラマ。

迫害も受けるし、直接的な暴力も食らう。
でもマリーナが涙を見せないというヒロイン像は印象的。
そして涙を流すシーンは最後のとっておきに残しておくという演出はトランスジェンダーゆえだろう。

彼女は決して絶望してはいない。
前向きにさせる気持ちを見せてくれるラストだった。
チリ、スペイン、ドイツ、アメリカンの合作映画。ダニエラ・ヴェガはトランスジェンダーの女優。
JG

JGの感想・評価

3.3
トランスジェンダーについて改めて深く考えさせられた作品。現在はようやく社会に認められてきて良かったと思う。何も悪いことはしていないんだから…
果たしてロッカーの中身は?

そしてなぜそこに犬がいる?ヒントも何もないので観ている君たちで自由に想像していいのだよ。ということなのかもしれないがそういう謎解きや無意味にアーティスティックなシーンを抜きにしても主演女優さんのナチュラルな演技に魅了された。ファンタスティックではなくナチュラルを選択した日本の配給会社正解。
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