幸福なラザロのネタバレレビュー・内容・結末

「幸福なラザロ」に投稿されたネタバレ・内容・結末

イエスキリストの友人、ラザロ。
ラザロは、イエスによっていったん死より甦らされる。
それを考えると、中盤に崖から落ちてしまったラザロは、一旦死んだとも考えられる。
が、彼はもともと人間として生きていたのか、それすらもわからない無垢で感情の起伏が少ない青年ラザロ。
イタリアの闇をただ眺めみる傍観者のようにも見える。観客と同じように。

この作品、解釈が難しいし、心を動かされるシーンもない、感動シーンもない。映像ももの凄く好みな作品でもない。だがこの映画は素晴らしい作品だと思う。カンヌのコンペティション部門の当たり年に出品したので脚本賞だけになったと思うが、カンヌでパルムドールを取ってもおかしくない作品。永久に語り継がれる神話的映画だと思います。
『夏をゆく人々』の監督らしさもしっかりとありながら、このような変化球で来るとは思いもよらず驚いた。展開がいい意味でイタリア映画らしくなく(個人的には)、前作よりも好みな作品となっていた。ラザロ役のアドリアーノ・タルディオーロの醸す無の境地のような佇まいも素晴らしかったけれど、単純にアントニア役のアルバ・ロルヴァケルのファン(前半後半で別の人だよね?違和感ないしどっちも好き)。知らなかったけれど、アリーチェ・ロルヴァケル監督はアルバの妹だったみたい。凄い姉妹。応援したい。


人里離れた小さな集落に(村かな)、領主のもと小作人として働くラザロという青年と村人たちが住んでいた。ラザロは人々の望みを叶えることが使命だと言わんばかりに、文句を言うこともなく、身を粉にして働く。その言動や忠誠心は淀みなく真っ直ぐで、まるでアンドロイドのようだなとも思えてくる程。飛躍した考えだけれど、そう見てみると物語はとても自然なものになる。しかし、流石にそれはぶっ飛び過ぎているし、色々と説明がつかない(面倒)ので、アンドロイドは人のあるべき姿を模しプログラムされるものだろうから、聖人のようなラザロがそう見えたとしても、強ち間違いではないのかもしれない、という程度にとどめておく(大脱線)。村の領主の息子タンクレディによる狂言誘拐をきっかけに村は外界と接触。違法の上に成り立っていた主従関係であったことなど、全てが白日の下に晒される。そして、うっかり時の流れから滑り落ちたラザロは、人々に忘れられ、不在同然となってしまった。

再びラザロの指針が動き出したのは、それから何年後のことか。ラザロは僻地に置き去りとなった観客を連れ(優しさは観客にも向けられる)、長い長い道のりを行く。アントニアが語ったおとぎ話のように、ラザロは狼と話しをするために長い道のりを歩いたのかもしれない。そして、その狼とはタンクレディのことだったのかもしれない。

ラザロは町で村人たちとの再会を果たす。当時からラザロを対等に思っていた(それは好意だったのか、一目置いていたのか)アントニアとタンクレディは喜び迎えてくれたけれど、その他は無関心。又は邪魔者扱いだ。それでも相変わらずのラザロは、ここでも人の声に耳を傾ける。この辺りでさり気なく聴き覚えのある音楽が流れ、タンクレディを想起させる。このような小さな仕掛けも面白く心地良い。
タンクレディに招かれたのに、その約束をすっぽかされ、これも狂言(嘘)であったかと落胆の色を隠せない面々。そんな中、ラザロは教会からもれてくる音楽にひとり聴き入ってしまう。近くで聴かせてもらおうと教会に入るも、シスターに止められそれは叶わず、ラザロたちは仕方なくトボトボと帰路についていた。しかし次の瞬間、音楽は教会を抜け出し、ラザロたちに降り注ぐ。皆の顔に笑顔が戻り、村に戻ろうかと誰かがふざける。これは奇跡なのだろうか。いや、奇跡とは呼ばないで欲しい。彼が唯一望んだものは、そんなものでは叶わない。そう風は言って、また去って行った。さては、風の仕業だったか。あの時ラザロが流した涙は、悲しくて流れたものだったのだろうか。それとも。

翌日?、ラザロはタンクレディのために銀行を訪れるも、強盗と間違われ(武器だと言って貰ったパチンコだから、武器だと言ってしまい)人々からの袋叩きにあい、そのまま帰らぬ人となってしまう。強いストレスを抱え生きている現代社会の人々の望み(抑圧されたストレスの捌け口)をもラザロは叶えてしまったのだろうか。そういう意味では、幸福なラザロ、だったのかもしれない。
わたしたちは便利さや忙しさに感けて、随分他人について考えることをしなくなった。社会は自動化が進み、冷たく、『わたしは、ダニエル・ブレイク』の無情さをここでも痛感する。現代において、無欲であることや無垢であることは、それだけで罪なのだろうか。そのような人と相対する時、その鏡はあまりにも眩しく、自分の悪怯れるつもりなどなかった不出来が鮮明に写し出されるような居心地の悪さに苛まれる。また、無知である者に対して速度を変えられる余裕が、わたしたちにどれだけあるだろうか。無意識に攻撃的になってしまってはいないだろうか。最期に会うことのできた狼。それは、ラザロだったのかもしれない。狼がラザロだったのか。ラザロが狼だったのか。危険な鶏小屋の前で寝入っていたラザロ。狼に起こされたラザロ。執拗に示された月の満ち欠けと、遠吠えの呼応。そこに何か意味を見出したくなる気持ち、わかってもらえないかもしれない。
ラストシーンで急に涙が込み上げてきた。これは犬好きだという私情もあったのかもしれないけれど(狼なのに)、人間に見切りを付けたような余韻に何とも寂しくなったのだと思う。何だかミシェル・フランコな余韻だ。

このレビューをiPhoneのメモ機能にて書いていたら(基本そうやって書いている)、いつのまにか寝てしまい誤操作で半分近くを消してしまって…というのが一週間前だったか、いつだったか。その絶望を乗り越えての投稿(というか諦めてしまい、もはやレビューとは言えないかも)でした。ありがとうございました。
風がとても気持ちいいイタリアの田舎町の話からまさかの展開に話が進むのですが、絶妙に抑制の効いた演出と静かな笑いのトーンがじわじわきます。本当に成長した本人のように見えるキャスティングも最高だと思います
イタリアの小さな村。
村人達は、領主の隠蔽によって小作制度の廃止を知らされず、社会からも隔絶されたまま、ただ働きをさせられている。見渡してみると若者は少ない。その中に、物語の主人公、青年ラザロがいた。
「ラザロー、ラザロー」ラザロは村人達に始終名前を呼ばれ、用事を言いつけられている。純朴そうで、真っ直ぐの大きな瞳が印象的なラザロは、それを素直に応じ、真面目に働いている。ある日ラザロは領主の息子と出逢う。そして物語は意外な展開へ。

流れに身を任せる。
ラザロを見ていてその言葉を思い出した。
物心付いた頃から何でも自分で決断してきた私が、ある大きな出来事をきっかけに、当時好きだった言葉です。
ラザロは、自分の欲求がない。言われた事をやり、動き、それが他人の為になっているという意識も無く、流れるように周りも動いて行って、また自然にその流れに沿う。つまらないように見えるかもしれないけど、これは幸福な事なんだと思う。
ただ、後半の展開は、どう捉えて良いのか、見方は人それぞれなのかもしれない。
私はラザロはあの時死んでしまって、
狼になったんだと思う。
あの光が、ただの光ではなく特別なものに見えたから。
狼は"善人の匂いがわかる"から、ラザロを生き返らせて、村の人やタンクレディに再会させてあげたのではないか。
ラザロの涙は、自分は死んでしまったと悟った涙だったんじゃないかな。
狼は、どこへ向かったんだろう。
あの村に帰ったのか。
走る狼の顔が、とても印象に残った。
穏やかで神聖な気持ちになった。

最初は退屈なある村の話かと思ったが、
後半まさかの巻き返しの展開だった。

本当はラザロが死んでいたのか、
あれから何年経ったのか…
具体的な説明はあまり描かれない。

だからこそ想像力が掻き立てられ、
観るものの心拍数が上がっていく。

彼が撫でた緑がアダムとイブを連想させたし、民衆の暴力はイエスを思わせる。

最期の狼が追いかけた先には、
きっと大草原が広がっているのだろう。
赤ちゃんのような無垢な瞳がすごい。

幼子を大人がいじめているようなシーンが続き、心が痛くなる

 予告を見て気になり、カンヌ受賞ということもあり期待して観に行った。
が、期待しすぎたかな…。

 刺さる人には刺さる作品であるとは思う。
あと、キリスト教の聖人の知識が少しでもあれば楽しめるのではないだろうか。

 私は、アニメでもドラマでも主人公の人物に作中での自分の分身(感情移入しやすい人物)を求めている傾向があるタイプだ。
すべての主人公に感情移入しているわけではないが、主人公側の立場から神の視点で物語を楽しむことが多い。
 
 そういう意味でラザロには感情移入しづらかったように感じる。
嫌がらせやいじめまがいの事をされても、聖人である彼はけっしてやり返したりはしない。
周囲の人間がするすべての行動・言動を否定することなく受け入れる。
そんな彼の姿が小さい頃の周囲に対して無力だった自分と重なったのかもしれない。

 人間というものはラザロのように必ずしも聖人ではない。
利己的で自分勝手で私利私欲にまみれている。
劇中でのラザロの曇りないまなざしが痛いくらいに自分に突き刺さった。

 ラストシーンがくるまでは無事に終わりそうだなぁと思っていたが、銀行でラザロが袋叩きにされるシーンで映画が幕を閉じた。
感情移入・共感性羞恥持ちには本当につらかった。
映画館なので逃げることも難しい。
少しでも感情移入・共感性羞恥が和らげばマシになるのだろうか。
【20世紀後半、イタリアの小さな村。ラザロと村人たちは領主の公爵夫人から小作制度の廃止を知らされず、昔のままタダ働きをさせられていた。夫人の息子タンクレディがラザロを巻き込み起こした、狂言誘拐をきっかけに、労働搾取の実態が明るみとなり、村人達は外の世界へ出て行く。時を同じくして、ラザロは誰にも気づかれずに不慮の事故で命を落とすが…
純朴な青年ラザロを描いた映画】

事前に全く情報を見なかったので、前半の雰囲気からの後半の展開にビックリしました!!
昔話や寓話的な内容!!

自分の中で、この映画に対する解釈が難しく、色々な方のレビューを拝見しました!
その中でも、ラザロに対する解釈としてフォローさせて頂いている"フェルビナクさん"のレビューが一番しっくりきました。
ラザロは完璧な善人で、一緒にいると自分の嫌な部分が見えてしまう。それを本能的に嫌って、周囲の人があのような態度になってしまうんだなと思えました。

一点だけ…
タイトルの「幸福なラザロ」がどうしても解せない。
今この世界で無垢であることとは何だろう。
とても気になって調べた原題でもLazzaro felice(幸福なラザロ)だった。
ラザロは幸福だろうか。終わってからもずっとぐるぐるとしている。
事実と虚構。
ラザロはただ自分自身のルールで生きているようにも、ただ目の前の出来事に仕えているようにも見える。確かに悩んではいないよな…けれど。
とひたすら複雑な気持ちになるけれど、最初から最後までまったく何処へ向かっていくのか分からないサスペンスに満ちた映画だった。

本当は選択肢はいつも一つしかないという言葉を思い出した。
キリスト教に詳しくないので
思い違いかもしれないが

聖なる者の死
という言葉が頭に浮かんだ

それは時折、色々な映画で観られる、理不尽な死
そこにいるのは
いつも純粋無垢な主人公だったりする

それは盲目のセルマだったり
牢獄で育ったカスパーハウザーだったり

そうか、皆、聖なる存在が
人間に姿を変えて来たんだな
そして、その存在を殺すのも人間なんだ

搾取する側される側
支配する側される側
世の中の構図はそうそう変わらない
それが中世でも現代でも
一見、綺麗なヴェールに包んでいるだけに
現代の方が闇は深いのかもしれない
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