希望の樹の作品情報・感想・評価

希望の樹1976年製作の映画)

Natvris khe

上映日:2018年08月04日

製作国:

上映時間:107分

4.1

あらすじ

「希望の樹」に投稿された感想・評価

冒頭、思わせぶりな馬の死、登場人物たちの顔見せから、ある意味型にはまったナイーブ過ぎるほどの演出が最後まで徹底している。

でもそれがとても気持ちいい。
村長気取りの爺さんが「鉄のカーテン」ならぬ「木と蔦の柵」で村の「立て篭り」に躍起になる一方でそのくびきを抜き去ろうとする反体制の「空想社会主義者」。彼が二度鼻歌として口ずさむ「インターナショナル」に鳥肌立った。

話の「象徴」感は終盤の、イエスのゴルゴダへの引き回し道中(つぶてのかわりに投げつけられるのはぬかるんだ泥)まで一貫しているし、そのどろんこも、中盤の若い恋人たちの雨中デートと完璧にシンクロする。とにかく教科書通りの律儀過ぎるくらいスクエアな演出。

でもその野暮ったさはあざとさとはならずに見るこちら側をひたすら素直な気持ちに誘導するのだから恐れ入る。

70年代のソ連で、表現者たちはどれくらい西側の映画に触れることができてだのかしら。子どもたちをオルグする「主義者」、村中のアイドルたる巨乳おばさん、そしてジョージアの「ヨコハマメリーさん」……。フェリーニやベルトリッチがそばにいるような気がするのでけれど。

そして何より何より感じたのは寺山修司。トップシーンの真っ赤なケシの花からラストまで、ずうーっと寺山の映画を見てる気分だった。70年代という時間は共通するし、お互いの映像に触れる機会ってあったのか、なかったのか。

実は『祈り』三部作、これから見ようと思ってて。あと二本、師走のとっておきの映画体験になりそうです。
澄んだ空気(推測)、色鮮やかで美しい自然の風景、人々は素朴で明るく、、、しかし、物語は反転し、残酷な結末を迎える、、、
年に1度は必ず観なあかん程の大事な作品な気がするのだが、、、
甲冑

甲冑の感想・評価

4.5
ジョージア(グルジア)映画祭②

この特集に求める良い具合のジョージア感。ちょっと洗ってあるけどまだ全然イモに土が残ってる感じ。話は聖女のサンクションもの(もっと適切な言い方があると思うが)で一色紗英似のヒロインはいわずもがな、ゲラの巨乳娘、厚化粧のババア、障害者の子を偉い人にシバいてほしいというババア、村娘と女性俳優が揃って魅力的。男も変なやつが多い。村の異端者も秩序を保つ側もどっちも等しくどうしようもない。

あと青年が刑を受ける娘を追いかける所、普通もうちょっと劇的にやる所をデカい水たまりにはまっただけで終らせててこれも良いなと思ったけどパンフを読んだら銃殺だった。まぁそれでもあっさりしててよろしい。
harukapi

harukapiの感想・評価

3.0
革命前夜の田舎町。狂人扱いされた人々の方がよっぽど道徳観を持っているという皮肉。
正直、ちょっと退屈だった。

さまざまなエピソードが、いろんなことをあらわしていたのだろうが、わかりづらかったかな。

機会があったら「祈り三部作」をまた挑戦してみたい。

今回はスコアをつけずにおきます。
蹂躙

蹂躙の感想・評価

4.5
おちゃらけおじさんが可笑しい→じつは醜い真実を指摘していた
群衆がわちゃわちゃ楽しそう→残酷
のコントラストがすごい。
クローズアップされる変人たち(色目を使いまくる女性、白塗りの女性、ポケットに爆弾の男性)は、女の子の死刑に反対している。

美しいシーンたち...
赤い花畑の中の白い馬
霧の中からの女の子登場
女の子と男の子の再会(いきなりBGMも)
男性にニコニコ女性がさくらんぼ🍒を耳に飾る
白塗り女性が「(ずっと待っていた)シオラはいなかったの...」「私のこと思い出してね...」

タマラ女王のくだりは分からなかった
真っ白に生きることが難しい、真っ黒な世界のおはなし。


吐き気がするほどのムラ社会。
ある男は彼らを奴隷だ奴隷だと罵っていたが、当の彼らは集団でその男を嘲笑っていた。

自分らを俯瞰して見れないことがどれほど恐ろしいことか、とても思い知らされた。


集団化した狂気はもはや止めようがなく、見ているだけで気持ちが悪い。
女神を追い詰めた彼らに天罰が下りますように。

またこりゃ、カルト映画っぽさを醸し出した、奇妙な映画だった。

描かれているものはしっかりしているのに、そこに意味を見出し得ない不条理さ。

知的障害のありそうな子を殴った男が追いかけられるシーンはなかなか面白かった。
同じジョルジアの監督であるイオセリアーニの作品を見て、放置していたこの作品について思い出したけど、パラジャーノフやパゾリーニ的な不可解性がありつつも彼らとは趣を異にした牧歌的かつ土着的な雰囲気が実に印象的だった。

色鮮やかな冒頭に反しての終盤の暗さも中々に強烈で、序盤からは想像もつかない着地点だったから驚いたのを記憶している。(だからタイトルの「希望の樹」って何だよとつい思ってしまったのを覚えている)
 花に毒があり、白馬を殺すように、本作においてもやはり田舎に対するアンビバレンスがある。まず、監督は、グルジアの歴史やキリスト教の信仰文化、民族の生活様式、厳しくも雄大な自然といったものに愛着を抱いているのだろう。他方では、若者たちが転げ落ちていく悲恋や、村の変わり者たちの反応をつうじて、村の権力関係や因習を否定的に捉えている。後者においては、おおむね進歩的なリベラルの価値観に沿っていると言ってよい。村の変人たちはみな、自由の精神をそれぞれに代表している。
 希望の樹は見つからず男は息絶え、神に祈れど息子は帰らない。では、革命は人を救うだろうか。革命を待ちわびて大地に耳を押し当てる男がいる。ただし、ここでいう革命とは、共産主義でも民主主義でもなく、産業革命をさす。端的にいえば「汽車が村にやってくる」ことが革命の意味するところだ。当時、近代化すらされていなかった大半の旧ソ連地域にとって、共産主義革命とはこのような意味で受け取られていたに違いない。
 自律した個人による近代的なロマンティックラブは、因習に縛られた村では不可能である。ならば、2人を乗せてくれるであろう汽車が、村にやってくるべきなのか? 映画はそれに村の廃墟でもって答える。
 「ほこりとごみにまみれた所にこれほど美しい花が咲くとは。美しさはどこから来るのだろう。どこへ行くのか。どこに消えるのか。しばし姿を隠すだけなのか」
 汽車に連れて行かれた先では、2人が愛し暮らした美しい景色をみることは叶わず、白馬のように純粋な心も煤けてしまうことだろう。このアポリア。結局、映画は「国破れて山河あり」とでも言いたげに見える。というより、「国あるところに山河はないのかもしれない」と。
 しかし、廃墟に生えた小さな木を見ているのは、依然として誰かの目である。つまり、この映画をつくった人たち、観ている人たちの目である。映画が、物語が不可能なものを存在させるとき、そこにはやはり可能性が開けている。表明された諦念のなかには、やはり希望が隠されている。8月24日(金)、岩波ホールにて鑑賞。
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