父 パードレ・パドローネの作品情報・感想・評価

「父 パードレ・パドローネ」に投稿された感想・評価

イタリア サルディーニャ
羊 ひつじ あと かしの木 くらいしかない

カヴィーノの父
いい父親ではない
6歳の息子の学校の授業中、乗り込んで 退学させる 。
羊飼いは大人になってから 勉強すれば良いという考え。
●しかし
大人になり
徴兵で 字が書けない、父の同意がない為 書類の不備で親子揃って 恥をかく。
期待をちょっとだけ裏切る つまらない映画 ─────でも
──────つまらなくて 良い
こんな作品 あっても 良い♥️

●☆みどころ 何とか 探して(笑)
✨羊飼い manual✨
1 方角と 時間の感覚を覚える
2 木葉の音 " かしの木が揺れている "
3 森を流れる水の音

●少年 羊に 八つ当たり
乳搾りの最中 羊が バケツに フンを 落とす
少年 「尻の穴を ふさいで やろうか」
ひつじ「お前が 下手だからさ
それに 私を ぶつからだ
父親にぶたれろ
荒れた手で 乳を搾るな
お前の 邪魔を、するのは
乳が痛いからさ

父より乳だすひつじが COOLだぜ♥️(笑)

●ネタバレ
ラスト
カヴィーノは ラジオをわざと流しに沈めた
父を殴る
家を出たいが カバンが
怒って閉じ籠ってる父の部屋
部屋に入ると 父が
ベッドにうなだれて腰かけている
無言で 下から カバンを引っ張りだす

カヴィーノは父の膝に
顔をうずめる

Jimmy

Jimmyの感想・評価

3.8
タヴィアーニ兄弟作品。

音楽と軍隊で成長していく息子。

支配されることを拒絶する息子に対して敗北感をおぼえて「息子を殺すしか勝つ手段はない」と息子のところへ向かう父親の姿をロングショットで捉えた場面は素晴らしい。

感動した。
Ciao

Ciaoの感想・評価

3.9
戦後間もない頃のまだまだ貧しかったイタリア、サルデニヤ島が舞台。
子どもに学校で勉強させるより、羊の世話をさせて少しでも家計の足しにしたいと考える頑固な父親。
あの頃は誰もが貧しく、生きていくために朝から晩まで働き続け、なんとか食事にありつけるという時代だった。
子どもに教育だなんて考えられない。
日本もそうだったと思う。
誰も責めることは出来ない貧しさ、、、心が痛んだ。
Jeffrey

Jeffreyの感想・評価

5.0
「父 パードレ・パドローネ」

〜最初に一言、フェリーニ、ヴィスコンティ、アントニオーニはたまたオルミと言う偉大なイタリア映画の巨匠とは一風変わったイタリア映画を作り続けてきたダヴィアーニ兄弟がパルムドール賞を受賞した大傑作。2人で初めて第3の新たな呼吸とリズムが生まれる映画作りで、2人とも1人の人間として同等の資格で1つの映画を作る姿勢で挑んだ作風で、小津安二郎への熱烈な賛辞を口にし、恩師であるロッセリーニの映画を見て映画監督になった2人の圧倒的映像と音の独特な使い方によって強く厳格に明らかに示される映画はまさに言うことなしの傑作である〜

本作は1977年にイタリアで制作されたカンヌ国際映画祭最高賞パルムドールを受賞したパオロ・タヴィアーニとヴィットリオ・タヴィアーニ監督の傑作で、この度BDにて久々に鑑賞したが素晴らしい。イタリア語でパードレは父、パドローネは主人を意味するらしい。イタリア映画が後にパルムドールを受賞するのは本作から24年後のモレッティ監督の「息子の部屋」である(ちなみにモレッティは本作に出演している)。原作は同じ題名のガヴィーノ・レッダの自伝で、主人公は小学校を無理矢理退学させられ、保守的な父親のもとで育てられるが、後に語源学者になっている。本作を見るとエリセ監督の「エル・スール」で知られるオメロ・アントヌッティが出演していて、やっぱりいい役者だなと思う。


本作はダヴィアーニ兄弟の日本での劇場公開第一作で、年齢はほとんど違わず、容貌は似ていて、2人とも眼鏡をかけて同じような服装で出歩くので、2人を識別するのは難しいとこぼす人が多いことが思い出される。兄弟が2人とも映画監督になろうと思ったのは、少年時代に見たロベルト・ロッセリーニ監督のネオレアリスモ映画の傑作「戦火のかなた」がきっかけだったと思う。その思いはそのまま現実になったが、普通と違うのは、2人で同じ作品を作り続けていることだ。兄弟のどちらかが監督で、もう1人がプロデューサーだとか、兄弟の2人とも監督になったと言う例はあるが、2人とも監督で、2人で一貫して同じ作品に取り組み続けて傑作を連発してきたと言う例は、イタリアに限らず、他の国でも、おそらく映画史上にもないだろう(当時)。2人の共同作業と言えば言えるが、その中身は謎に包まれたままだ。

この映画を当時見たのは今から数十年前だが、フェリーニやアントニオーニ、ヴィスコンティのようなイタリア映画とはまた違った味わいがあり衝撃を受けたことを覚えている。1人と1人の足し算ではなく、2人で初めて第3の新たな呼吸とリズムが生まれる映画作りで、理屈で解けるものとは違う感じがする。例外的な例である。違う同じだとか、育ちや生活が同じだと言っても、星で言えばパオロはさそり座でヴィットリオは乙女座と確かインタビューに答えていたような気がした。考え方の違いはもちろん起こるが、1人の人間にだってそれは起こり、撮影をどうするなんて、散々聞かれたことだけれど、撮影カメラは必ず2人とも変わる変わる覗くだろうしね。ただでさえ集団芸術と言うのは色々と対立も起こり、扱いが大変だと思うのだが、監督が2人もいるとなると私が思うにかなり窮屈で大変だと思うが、この2人はきっと違うのだろう。

今思えばこの兄弟監督作品が国際映画祭の場でいっきょに話題になったのはやはり最古の映画祭ベネチア国際映画祭の67年から69年のことだろう。兄弟の長編劇映画第3作「反乱者たち」は、それまでの共作者バレンチノ・オルシーニと決別した兄弟単独の第一作で、戦後イタリア共産党の指導者トリアッティ埋葬の実写フィルムを、反乱の旅に出発する若者たちのフィクションにドラマとして混淆させたもので、「さそり座の星の下で」とともに68年を予見していた映画として論議を後に読んでいる事はファンにとっては周知の通りだろう。続く「聖ミケーレのおんどりさん」は71年に完成しながら73年のカンヌ映画祭監督週間の招待出品の機会を待ち、74年カンヌの映画祭監督週間開幕特別招待作品「アロンサンファン」を経て、77年、「父、パードレ・パドローネ」で絶賛を博して、カンヌ映画祭グランプリ(パルムドール)と国際評価対象の両賞を一挙に受賞して評価を決定的にしたのだ。79年ベネチア映画祭には、恩師ロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘イザベラ・ロッセリーニ初主演の「草原」を出品し82年、カンヌの「聖ロレンツォの夜」を出品。過去にグランプリを受賞した監督作品は審査委員会が賞を出せない、前評判の絡んだジンクスもなんのそので、実力で審査員特別大賞を見事受賞してしまったのは驚きである。


今イタリアで最も充実した監督、いや、監督たちが、ダヴィアーニ兄弟である事は当時では有名な話であったと思う。地と時代に根付くテーマの鮮烈な切り口、音と映像の衝撃的な処理から生まれる簡素そのものの語り口、それが兄弟の特徴といわれるが、本作はその特徴が遺憾なく発揮された作品と言えると私は言いたい。77年のカンヌ映画祭で本作が国際評価大賞受賞したのはともかく、映画祭コンクールでグランプリまで獲得したのは、1つの驚きとして受け取られたと思う。それまで、カンヌ(私は世界3大映画祭オタクで色々と情報を知っている)のグランプリと言えば、商策が先行して必ずしも最優作の作品に与えられるとは限らず、いわゆる地味な作品は外されがちだった。グランプリを与えても商業的にヒットせず、せっかくのグランプリの価値が半減すると言う(常識)が働いていたのだ。

ところが「父、パードレ・パドローネ」の場合はこの常識をも覆し、一般公開ではパリでもローマでも大ヒットしてしまい、翌年からのカンヌ映画祭の流れにも大きな影響を与え(翌78年のグランプリはエルマンノ・オルミ監督の木靴の樹)、従来の常識に沿った商業映画よりも質の映画を多くの映画観客が求めていることを実証する起爆剤の役目を果たしていたのだ。本作は、映画にも登場するガヴィーノ・レッダ(38年生まれ、原作75年出版、同年ヴヂアレッジォ文学賞受賞)の小説を元にしている。監督の言葉をここに引用したいと思う。"私たちがこの物語を知ってなによりもまず衝撃を受けたのは(グロットロジア) (語源学)と言う言葉のあり方だった。言葉の征服。言葉が反逆の音であること。言葉が沈黙の武器であること。沈黙からコミニケーションへ。これは映画の副題であってよかった位の言葉だが、受け身の沈黙から他者の中でコミュニケートする自分を発見して、自分と他者とを変革する。これは私たちの映画の一環したテーマそのものだった"と兄弟は語っていたことが思い出される。

パードレ(父、他に神父の意あり)であり、パドローネ(主人、支配者、家長、他に地主の意あり)であるタイトル・ロールを演じるのは「アレクサンダー大王」のオメロ・アントネッティ。日本公開順が制作順と逆になったが、この「父、パードレ・パドローネ」での名演を見てアンゲロプロス監督が、この映画と全く逆のセリフのないロングショット中心の「アレクサンダー大王」のとてつもない難役にアントネッティを起用したのは有名な話だ。出演は演技畑。セルジオ・ドスモ主宰するトリエステ市民劇上付属アカデミーで学び、後にルイジ・スカルツィーナの主宰するジェノバ市民劇場で活躍して、ロッセリーニの「イタリア第1年」(74年)で映画初出演している。ダヴィアーニ兄弟監督の「サンロレンツォの夜」でもまた、ドライで内気な味わいの深い名演を見せてくれている。パードレ・パドローネに反抗して育つ仔羊ガヴィーノの芝居は印象的であった。

余談話をするが、映画制作会社とテレビ局とが合作して劇場用映画を制作すると言う実験を進めていたRAI (イタリア国営テレビ局の永遠の政策、ベルナルド・ベルトルッチ監督の「暗殺のオペラ」はその初期の作品の大きな開花であり、この政策では少なくともイタリア国内では劇場公開を先行させ、外国では劇場公開が見込めない場合にテレビ公開を優先すると言うもので、日本では、78年にNHKが「父」の題名で放映したものを、逆にテレビから劇場へ、完全版に戻して公開することになっていた。今思えばこの作品がカンヌ映画祭で上映された77年の年から5年遡る72年と言うのは日本映画の出品が多く、コンクールに篠田正浩監督の「沈黙」(スコセッシがリメイクしている)があり、監督週間には長編では松本利夫監督のATG作品「修羅」(この作品は全編夜を舞台にしているためモノクロ映画でほとんど暗い状況で画期的な時代劇の復讐物である)短編では寺山修司監督の「トマトケチャップ皇帝」と大島渚は「ユンボギの日記」が出ていたことを思い出す(違っていたらごめん)。

「父、パードレ・パドローネ」がパルムドール賞受賞したのはダヴィアーニ兄弟の恩師が当時の映画祭の審査委員長を務めていたロッセリーニだからと言う意見も少なからずあると思う。だから見事グランプリに輝いたと言われても仕方がないのは100も承知である。映画祭と言うのは基本的にそういうものだ。どの時代でも審査委員長の好みが優遇される世界。さて前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。本作は冒頭に、子供たちの歌声をバックにクレジットタイトル。教室前の廊下。白壁を背に、原作者自身が立ち、木の小枝をナイフで削っている描写。語り手ガヴィーノ・レッダ。35歳。18歳まで羊飼いで文盲。今は語源学者で、著者がベストセラー。その本は彼の自伝で、この映画の原作だ。物語はサルディーニャ島の小学校から始まる。ガヴィーノは1年生だった。11月のある朝、父親が教室に来た。

町役場のー室が教室だった。カメラ、パンすると、階段があり、2階に教室がある。その前に、父親を演じる役者がいる。レッダ、アントヌッティに、小枝を切り落として棒にしたものを手渡す。一瞬の沈黙の後、教室の中から、子供たちの歌声が聞こえてくる。続いて、教室の中。父親が、ノックもせずに扉を開けて入ってくる。低い声で早口に何かを言いながら、教壇に近づく。教室には、机に向かった子供たちが30人ほどいるが、一斉に立ち上がる。子供たちに着席するよう先生が合図する。幼さの残る少女のような先生だ。父親、立ち止まって一息入れてから話し出す…さて、物語は第二次大戦期のイタリア南部サルディーニャ島の小学校。羊飼いエフィジオは6歳の長男ガヴィーノを羊飼いにするために連れ戻しに来る。長男を笑う級友たちに向かって父親は怒鳴る。今日の息子は明日のお前たちだ。母は息子に、一人前の羊飼いになるには山の番小屋で孤独のあまり、鏡の音のように響いてくる沈黙に耐えて育つ事だ。それに耐えて早く家に帰ってこれるようにと励ます。

父は、木の葉の音を聴け。土と木を知れ…と自然の厳しさと知恵を教える。20歳になった息子はほとんど口もきかない青年に育っていた。ある日通りかかった男たちのアコーディオンの音色に魅せられ、父に内緒で2匹の羊と交換に古いアコーディオンを手に入れる。ある冬、冷気の襲来でオリーブ畑が全滅した。ガヴィーノは羊飼いの若者たちと一緒にドイツに移民しようとするが、文字が読めないためにうまくいかない。結局、父親は全財産を振り払い、ガヴィーノは本土にわたって軍隊に入ることになった。息子は友人からイタリア語を学び、サルデーニャ方言の研究に興味を抱き、ラジオの組み立てを習得した後高校の卒業資格を得て、大学に入るため除隊して島に戻る。しかし父にとっては学問など無用の長物だ。一緒に畑仕事をしながら口論する2人。ついに息子は父(パードレ)が何だ。主人(パドローネ)が何だ…。服従させ命令するだけで何が父だと決定的な言葉を父に投げつける。殺しあわんばかりにいがみあう父と子。しかし腕力では既に父は子に叶わないのを知っていた。本土に戻る決心をした息子が許しを求めるかのように父の膝に頭を埋める。拳を握りしめる父…とがっつり説明するとこんな感じで、コミュニケーションを自分のものとしていく過程を描いた作品である。




いゃ〜、久々に見たけどやっぱり傑作だわ。まずサルディーニャ社会におけるこうした家族形態の存続と、にもかかわらず、その存続がもはや困難で、新たな変貌に向かう状況を描いているように見えるこの作品は、子供の誕生が明らかにしているように、家族は17、18世紀頃まで、家産の持続、職業の伝達、日常的な相互扶助、危機状況における名誉と生命の防衛など、いくつかのはっきり感知された使命を有していたが、成員間の意識、感情にまで深く入り込んでの道徳的あるいは精神的な機能を主張することはなかった。以前のそうした性格の家族は社会の中で生産の単位として位置を占め、成員は大人も子供も、それぞれ生産活動における役割を与えられて生活したのは北原敦氏が言うように、実際、この映画には、父と子の対立を通して、家族の歴史に見られるそのような問題性が浮きだされており、合わせて家族の変容、家族意識の変化と、教育との深い関わりが示唆されているのだ。

少しばかりパドローネと言う言葉を調べたのだが、イタリア語で動産であれ不動産であれ自分が自由に処分できるものを所有している人と言う意味になるらしく、同時にその人物が物の所有に伴って持つ所の権威の意味も含んでいるそうだ。そしてさらには、自分に直接に依存する従属者を有している人をも指し、とりわけ農業及び工業経営における雇い主の立場を指し示している。つまり、この言葉は、所有、権威、支配の契機を含んで意味を表し、そうした広がりを持つ意味においてイタリア語ではよく使われる言葉なんだろうなと思う。ちなみに農村社会においてパドローネであるには、ー定度の土地を所有していることが必要だそうだ。この土地所有の事実が、近隣のみに対する敬意の源を出すのであるし、また地主として、小作農や日雇いの農に直接的な支配権を及ぼする存在たりうるのである。パドローネは、このような形に基づき、そして自らの生活に合わせて、地域社会の日常性に対する規範を作り出し、支配の文化を形成する位置にあるとみなしていいのかもしれない。

もちろん、ここで言う支配とは、単に抑圧的態度のみを指すのではなく、温情主義的な包み込んで保護する態度をも含んでのそれであると映画を見ると感じる。こうしたパドローネの姿は、イタリアの文学や映画にしばしば登場するので、私たちに全くなじみがないわけではないと思うし、手短な例で取り上げてみると、川島英昭氏の達意の訳によって紹介されたジョヴァンニ・ヴェルガの短編集があったりするらしい(私は観たことない)。これも少し調べたが、どうやら全部で12の短編であり、出てくる登場人物全てがシチリアの農業社会の底辺に生きる人々が主人公であるみたいだ。彼らは正しく最下層に生きる人々であって、ヴェルガはこの人々の性と死、行為と心性を書き記すことによって、読者をシチリア社会の深層へと導いていくそうだ。


そういえば農村社会におけるパドローネの存在を描いた作品でベルトルッチ監督の大作「1900年」の主題もそうであった。地域は北イタリアに移って、ポー平原の大農場が舞台となっている。世紀の変わり目の同じ日に生まれた地主の子と農民の子が、それぞれの立場から20世紀のイタリアの緒事件に立ち会うの縦糸に、事件の中で2人の織り成すドラマが横糸になって物語が展開していく。確か「1900年」では、農業労働者のストライキ、第一次大戦、ファシズムの誕生、ファシズム下の精神の葛藤、レジスタンスといった、1つずつをとっても大問題のテーマが、1本の作品の中に見事に映像化されているのを見ることができる。映像による壮大な社会史が仕立てられたと言う作品である。まだ見てない方がお勧めする。といってもベルトルッチの最高傑作は「暗殺の森」だろう。本作とベルトルッチの作品を見ると、パドローネの文化と農民の文化、あるいは支配的文化と民衆文化の緒相であるなと感じるのである。

2つの文化の伝統、変化、対立、浸透の緒相を通じて、その相互の関係の有り様といったものを描き抜こうとしたベルトルッチの息遣いが伝わってくる作品である事は北原敦氏も言っている事を思い出す。あまり言及するとネタバレになるため言えないが、この作品を見ると、パドローネの姿に同化させようとすることの危うさを感じているのだ。父の強制する文化とは違った形態の文化を探ることに導いていく。しかし、彼は1つのパドローネの文化を脱して、もう一つのパドローネの文化に移行する道を選ぶのではない。彼の選択は、民衆文化に基づくサルディーニャ語の探求へと進むのであることを伝えたいと思うのだ。要するに彼(父親)は地主であるより、明らかに貧農に属している。そして何よりも、彼は農民文化を生きている。彼は、社会の中で人を支配する文化を形成する位置になく、自然となり親しむ文化に執着しているのだ。だから自分の息子に、まず自然を知ることを強制するのだ。これはイタリア近代史研究者の北原氏が言っていたことだが、父親はむしろパドローネからかけ離れた存在であるように見えた…との事だ。
タケ

タケの感想・評価

2.8
退屈な映画でした。構成はおもしろかったけど…。
ナンニ・モレッティ出てるのだけが嬉しかった。
とし

としの感想・評価

3.5
2021年6月1日
映画 #父パードレ・パドローネ (1977)鑑賞

#カンヌ国際映画祭 #パルムドール 受賞作
イタリアの言語学者の自伝の映画化

厳父によって小学校を数週間で退学させられ、20歳になるまで教育を受ける機会を奪われて文盲であった羊飼いが、親元を離れ、軍隊に入り、教育を身につけ自立する話
DamKeeper

DamKeeperの感想・評価

5.0
衝撃でした。ツボ過ぎて笑い死ぬかと思いました。
それでいてイタリア貧困層の風刺にもなってる。
まだまだ勉強不足でした。
35歳言語学者で作家の男性が自らの半生を振り返る、サルデーニャ島の羊飼いの父と息子の話。息子の小学校の授業中に父親が乱入、羊飼いに義務教育は要らんと家に連れ戻し、自然の中で羊飼いになる為の厳しめの教育を施す。息子は、読み書きのできない大人になるが、色々あって音楽や言語に目覚める。77年パルムドール受賞作。
あ

あの感想・評価

3.7
厳格な父と故郷への訣別、そこにある痛みや郷愁はよく語られるテーマであるが、ここで描かれる生活様式、暴力、獣姦等がなかなかにパンチがあって面白い、主人公がアコーディオンや言語に興味を持つようになる瞬間のきらめき、何かを好きになったり知りたいと思う気持ちは美しいな
akubi

akubiの感想・評価

3.8
軽蔑と劣等感とその痛みの隙間からのぞくあたたかな記憶が煌めいていた。
陽光をうけてきらきら光るバケツにたっぷりのミルク。静まり返った夜に鳴る音。凍ってしまったミルクでつくる即席のアイス。
この閉ざされた島で、伝染してゆく痛みと暴力。楽しみといえば肉体の快楽を得ることだけ。手繰よせるそんな記憶はちょっぴりグロテスク。
シリアスとユーモアの対話の妙にうれしくなり、故郷を離れるときの彼らの感慨を裏切られ、わたしはこの映画がだいすきになった。

自分でつくってしまったくせに、わたしの目まわりの大きな青あざにおどろいて、急いで主治医の内科に(内科!)連れていかれたことをおもいだした。そのときの母の痛みも、今ならとてもよくわかる。この彼はまだ、冗談にできないみたいだけれど。
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