大病人の作品情報・感想・評価

「大病人」に投稿された感想・評価

Jeffrey

Jeffreyの感想・評価

3.0
「大病人」

冒頭、老境を迎える大物俳優兼映画監督の男。誕生日、発端、検査、入院、妻への告知、現場復帰、再手術、末期がん患者、紫色の点滴、モルヒネ、不用意な発言、臨死、生還、桜の樹の下で、最後の舞台。今、旅立ちへ…本作は平成五年に東宝配給で、伊丹十三が監督、脚本務めた初めて主演を宮本信子から交え、三国連太郎が務めており、本作で日本アカデミー賞において三國連太郎が主演男優賞を、小野寺修が録音賞を受賞している。テーマは単純明快で、癌で余命ー年となった男が残りの人生をどう生きるか、どう死ぬかという人間の葛藤を、喜劇を交えながら描いた作風である。この作品はデジタル合成が圧倒的で、主人公が臨死体験を味わうシーンでは、日本映画として初めてデジタル合成が使用され、デジタル合成を担当したのが当時CM業界で有名であった株式会社白組である。確か、台湾で成功大学教授の女性看護師が本作の中国語版を全国会議員に見せて延命措置中止などの法整備の必要を訴えて、二〇〇〇年に安寧緩和医療条例が制定されていたような…。これ、黛敏郎作曲のカンタータ".般若心経"が朗唱演奏されるクライマックスは随所に仏教的な死生観がみえる。

さて、どうなんだろうか。日本には伝統的に死に際を美しくするとか美しく死ぬと言う美学があるのは周知の通りだろう。美学と言うものが単純な自殺行為に入るとは到底思えない。昔は武士道と言うものがあり、日本人が桜の花を好きなのは桜が散るが如く潔く死にたいと言うことであることは周知の通りだと思われる。今の世の中、死の美学が滅びてしまったようにも感じる。ニュースを見るたんびに自殺そのことばかりである。そしてこの作品の画期的な事柄を言うと、医者と病人と言う相反する運命を背負って二人が、癌と言う鎖で繋がれながら、自己を押し付け合い反発しあい最後にお互いが妥協しあい看取ってやる友情物語感でもある。育んでいくようなヒューマニズム的な実に文芸作品にしても評価でき、特殊効果の鮮やかなファンタジックな映像とともにクライマックスの泣きあり笑いありの素晴らしい作品と言えるだろう。

この映画面白いことに宮本信子(監督の奥さん)がー番難しい役どころを選ばされているところだ。実際に宮本は監督にすぐに返事出さなかったらしくて、しびれを切らした監督がこの役ができるのはジャンヌ・モローか宮本信子しかいないと言う言葉で出演を決断したそうだ。と言うのも重要な役と言うのは理解できていたが、見せ場はないしどちらかと言えば画面からすぐ消えてしまうような役だったため悩んでいたそうだ。実際映画を見るとそんな事はなく、とんでもなく迫力のある良い役に恵まれたなと思った。さすが奥さんのだけあって、伊丹十三は、いい役を持ってきた。宮本信子はジャンヌ・モローのことをを尊敬しているため、数年前に彼女が亡くなったのを知った時は、すぐに宮本信子の顔が浮かんだ。彼女はめっきりメディアに出なくなったが、まだご存命で今何しているのやら…。さて前振りはこのくらいにして物語を軽く説明したい。

さて、物語は老境を迎える大物俳優兼映画監督の向井武平は、癌に冒された作曲家を自ら演じ、同じ病で妻に先立たれるというストーリーの映画を製作していた。しかし、彼は大の酒好きで胃薬を常用している向井はある日、自身の体の異変に気づき、離婚寸前の妻で、美しい万里子の誘導で、万里子の学生時代の友人である外科医の緒方が勤務する病院を受診する事に決めた。すると検査の結果は既に末期状態の胃癌であったのだ。緒方から告知を受けた万里子は、緒方とともに本人には告知をしない道を選んだ。ところが、向井は病院内で知り合った患者仲間から悲惨な癌患者の実態を知らされ、自分に抗癌剤が点滴されていることに気づくのである。
向井は激しく緒方をなじり、緒方も向井の扱いに苦悩する。その後、混乱した向井は担当看護婦を口説いたり、愛人である映画の共演のエロい女優を病室へ連れ込んでは、あんなことやこんなことをしたり、挙句の果て衝動的に自殺を図ったりするもする始末なのである。緒方たちとの対話を通じて、自らの最期の迎え方を決断する…と簡単に説明するとこんな感じで、前作の「ミンボーの女」で暴力団に命の危険を感じた彼が次に死をテーマにした作品を作ったんだなと感じた作品である。


いゃ〜、この映画のキャッチコピーは、僕ならこう死ぬとなっているが、まさか監督があのような死に方をするとはこの時点では誰も思わなかっただろう。そもそも本作のテーマは死であるが、発想された直接の動機は"病院で死ぬと言う事"を読んだのがきっかけだと言っていた(山崎章郎原作)。日本人の大体が病院でなくなると言うことで、ずいぶん奇妙なことが起きていると思ったそうだ。病院と言うのは病気を治すところなのに患者が死んじゃうなんて病院としては敗北であり、恥ずべき事で隠しておきたいことだと言っていた。したがって患者を上手に死なせてあげると言う事は病院の正式な営業種目に入っていないのが、この映画を撮るきっかけになったみたいだ。死ぬと分かっている患者の場合でも最後の最後まで治療行って、ー分ー秒でも命を伸ばすのが病院の使命だと考えているのを監督は否定したいのだ。

要するに患者の立場を考えていないと言うことで、実際に劇中でもすごく印象的だったシーンがあるのだが、もう助からない患者が無理矢理延命処置をされ、喉に穴が開いている状態で、食事もままならず、筆談する体力もなく首をつる体力もなく、断食して死にたくても点滴で生きているからそういうこともできない本当にかわいそうだと言う場面があるのだが、それが無限の怒りと恨みを込めて、意味もなく引き延ばされた死を無言のうちに死んでいくことになる患者の立場と怒りを描いていると思った。その後に家族が立ち入りを拒否され、患者が死にそうになると蘇生術と称するものが行われて、助からないとわかっていながら心臓注射や、電気ショックをして命を伸ばそうとする医者たちを否定的に映していた。多分医師たちがベストを尽くしたと思っているのを否定したいのだと思う。要するに患者目線の映画である。最後は静かに死なせてやれよと言う三國連太郎のセリフが思いっきり心に沁みるのである。

伊丹監督は自分が癌になった場合を想定して七つの法則を語っていた。まずは良い医者を選び、妻の支えが絶対必要で告知してもらい、痛みを止めてもらい、無駄な延命治療を行わず、思い切りジタバタするが許してもらい、できれば家へ帰って死ぬと言うことである。それは非常に当たり前なことだが実際はかなり難しいというのが映画を見て伝わってくる。さて今回の主なキャストで言うと主人公の大病人を演じた三国連太郎と医者の津川雅彦に加え宮本信子の奥さん役とナースの木内みどりと愛人役の高瀬春奈の五人である。特に女性軍三人は皆それぞれに個性のある美しさを持っていて非常に画面が豪華に見えた。特に木内みどり演じた看護婦は強烈なインパクトを残していて非常に良かった。

ところで先ほども言ったが、基本的に病院で死ぬことになる家族は都会だと九〇%以上で地方だと七〇%から八〇%の方々が病院でなくなる状態と言うのは周知の通りで、癌の場合だとさらに上回るとのことである。よく畳の上で死にたいと言うことを聞くが、今の状況だとほとんどの人が病院のベッドで死んでしまうことになる。死ぬならば家で死にたいと思うのはみんなあると思うが、それでも自宅で死ぬためには色々と条件が必要だろう。まず家で闘病生活をしている間の看護力があるかどうかと言う問題から始まり、自分で働けるうちにはいいが、働けなくなったときに手助してくれる人がいなければ家にはまずいられない。その人がいるスペースがあるかどうかと言う問題もあるだろうし、家に往診してくれる医者がいるかどうかというのも大切だろう。

そもそも自宅で死んだ場合と言うのは変死扱いになってしまうから、家の畳の上で死ねばもちろん自殺か他殺かなどと言う容疑が浮かび、解剖、検死を受けなくてはならなくなってしまい、大切な自分の奥さんだったり旦那さんがメスで傷つけられるのも辛いところだろう。だから医者を自宅に招き診断して記録をとってもらうということが欠かせなくなるが、その分旅費もかかるし色々と壁は立ちはだかる。在宅死と言うのはすごく幸せなことなんじゃないかなとふと思った。今思えば自分の祖父が二〇〇六年に癌で他界した時に、エンゼルケアと言うものをしたことを覚えている。それは死後の処置という物で、死体が硬直される前に終了しなくてはならない作業で、鼻の穴や口の中、耳の穴などに綿を詰め込んだり手を胸のところで縛ったりヒゲを剃ったりガーゼをかぶせたりするいわばー種の儀式である。それは生き残った人々の心の平安のために必要不可欠なことであり、美しく死体を見せるべくやる作業である。そういえば昔アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」と言う作品もあったなあ。


さて、個人的に印象的だったのはまず哲学的な事柄と、邦画初登場と言われるCISシステムが作り出す驚異的な臨死体験シークエンスである。あと、ほぼクライマックスで三國連太郎が救急車の中から外の風景を見て白いワンピースで自転車をこいでいるめちゃくちゃ清楚な美しい少女の姿を捉えたあのショットはすごい印象深い。彼女誰なんだろう?すごく可愛かった。話を戻すとその主人公の男が自殺を図って体から霊体が離脱し、垣間見る死後の世界。摩訶不思議な美しい映像にSFXに興味のある方なら、ハイビジョンでもないし、コンピューターグラフィックだけでもない。一体どうやってこれを作り上げたのだろうと当時は色々と考えただろう。今となってはごく当たり前な光景だが。やはり伊丹十三の作品と言うのは色々と面白いものがあり、本人が出ている予告編も非常にマーケティングとしては成功していると思う。

もともとCM作りをしていた彼ならではの考え方である。映像のエレクトリック・オプチカル(特殊合成)システムは米国ロサンジェルスに本社を置く会社が開発した独自のシステムで、ハリウッドではすでに様々な作品に取り入れられて日本でもテレビ用CM制作に応用されてきている。このシステムを設置しているのは、世界でたった三カ所しかなく、ハリウッドとロンドン、そして日本のイマジカである(当時は)。このシステムのすごみというのが、従来の映画の合成や特殊なフィルム同士で構成されていたが、電子技術の発達により近年ではハイビジョン合成やコンピュータの画像データの合成が映画に対応できるようになってきた。そのCISシステムも三十五ミリフィルムで撮影した映像をイマジカ内に設けた専用編集室に持ち込み、それを一旦ディスクの中に取り込み、デジタル合成を行った後、再び三十五ミリフィルムに変換する。CISでは一秒間に二十四フレームあるフィルムの映像を一フレームずつ管理していくので、残像もなく、なめらかな動きを作りだしている。しかも、再度フィルムに戻した後劇場用の大スクリーンで見ても色褪せのないクオリティの高い映像で仕上げることができるのだ。また、様々な技術が駆使できることも特色で、三国連太郎がとうもろこしになったり渦巻き状の映像だったり迫力のある映像のオンパレードが終盤繰り広げられるのが最も見所だろう。
「今から死ぬまでにどうやって生きるか」
「死ぬまでこのジジイをどう生かすか考えろ」

この公開当時と現在では色々考え方が違う部分もあると思いますが、延命治療、終末医療のあり方などコメディタッチで重くさせ過ぎずに描かれていて見やすいです。

退院後、若い女性が自転車に乗るシーンが印象的でした。生きる事、未来への羨望の様にも見えるし、退院したから美しいものを見られて良かったという風にも見れます。
ガンになった監督兼俳優が亡くなるまでの過程を描いた伊丹十三作品。
自分が死ぬ時はどんな死に方なんだろう、ガンみたいな大病になった時どうなるのか。そんな不安だけが常に過った。
亡くなる時くらいは安らかでいたい。
そう思わされる作品だった。90年代の安っぽいCGがとても良かった。
「あなたはかわいそうな人。誰もあなたを満たしてあげられない。」

このレビューはネタバレを含みます

https://umemomoliwu.com/the-last-dance
ちー

ちーの感想・評価

3.4
おとんはこの映画を観たことがあったのかな。最期に大きな仕事を残しておくのも一つのやり方ではある。伊丹十三はもっと人間嫌いな人だと思ってたけど違うのかな。胃に陽の光が差すようなブランデー、美味いでしょうな。
ke

keの感想・評価

3.8
終盤 病院を出て家に帰ることを選んだ車内の中
自転車を漕ぐ若い少女
風になびく長くしなやかな髪
太陽の光を肌で反射する瑞々しさ

それを車内から目を細めて見つめる様子
死に向かっていく様は弱々しくか細いが、木が寿命を終えて静かにしおれていくような自然な美しさがあった

2人が対照的だからこそ、より生の延長線上に死がある訳ではないのを感じる
「僕ならこう死ぬ」で一本映画を撮った。

人生は死を意識してから初めて生き始める
延命ばかりが正義ではない

この辺をコメディベースでいい感じに織り込まれている。

いつかは自分の「僕ならこう死ぬ」を持っておきたい。
「庭付き戸建てがいい」みたいな感じに。
仁

仁の感想・評価

3.8
作家性とエンタメ性を両立させる上で、伊丹十三の右に出る映画監督はいないと思う。どの作品も例に漏れず面白いしメッセージがある。

今回は綺麗な人生の幕切れを描いていて、ストーリーもさることながら三國連太郎以下お馴染みの伊丹組が繰り広げる演技を観ているだけでもはや満足。

しかし観終わって思い出したが、このようなテーマの映画を撮っておきながら監督は後年『マルタイの女』で津川雅彦に「人生は道端のドブのような所で突然終わるもんだよ。」と言わせるリアリストっぷりを発揮している。伊丹哲学は奥が深い。エッセイも読まなくては...。

このレビューはネタバレを含みます

テレビで視聴

伊丹十三監督作品の中で、過去のテレビ放送でも見ていなかったので視聴
1990年代前半の医療倫理観なので、2020年代の現在の視点から見ると本人にガン告知をしないなどの点でやや違和感はある

作中で序盤から何度も掛かる曲は「ラストダンスは私に」(Save the Last Dance for Me)、劇中では「ラストダンス」と呼称
今だと映画「Shall we ダンス?」で見たり聞いたりした人が多いんじゃないかな

三國連太郎の自殺未遂からの仮死状態時の描写がちょっと分かりにくい、屋上のシーンはいいとして
自宅で、妻である宮本信子の前に突然現れたところはちょっとな~、もうちょっといい表現無かったんだろうか

延期となっていた撮影中の映画のラストシーンについて、自身の病と死期を重ねつつ、多数のエキストラと生演奏のオーケストラ楽団、
そして撮影スタッフの協力のもと、無事に撮影が終了し、自宅で最期の時を迎える

なんでこういう映画を撮ろうと思ったのか謎なんだよな~、死生観を感じる年齢というのがあるのかもしれないけど、
面白いっちゃー面白いが商業的に成功したのかは気になる
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