殺人捜査の作品情報・感想・評価・動画配信

殺人捜査1970年製作の映画)

INDAGINE SU UN CITTADINO AL DI SOPRA DI OGNI SOSPETTO

製作国:

上映時間:114分

3.6

「殺人捜査」に投稿された感想・評価

傑作。イタリアらしいエロティシズムとサスペンスの素晴らしい融合でした。
仁義のジャンマリアヴォロンテ、ここでは嫌な男ですがこの映画で好きになりました。
モリコーネのスコアラは私のフェイバリットです😊
イタリアらしいクセの強さが特徴のブラック・コメディー映画。ドキュメンタリー・タッチの映像やエンニオ・モリコーネ氏による風変わりなスコアが秀逸。主演のジャン・マリア・ヴォロンテが全編間抜けな演技を見せており思わず哄笑を呼ぶ。

いわゆる「ヘンなモノ好き」には堪らないシュールな出来栄えのサスペンスである。全編にルイス・ブニュエル、或いはナンニ・モレッティな的不条理感が凄く出ている。

こんな人を食った怪作がアカデミー賞外国語映画賞とは恐れ入る。おバカ警察告発ものとしては最適な作品。
tristana

tristanaの感想・評価

3.5
愛人を殺したローマ市警の殺人課長、全能感強すぎて逮捕されないのを楽しむみたいな話で、自分に不利な証拠を残したりやりすぎたら隠滅したりと全然ノリが掴めないのだが、半分くらい政治の話が絡むのでイブモンタンのそれらとは異なる。最後の自宅の場面がブラックコメディ?今村昌平?でちょっと辛い。終わりにカフカの引用が来るのでやっとどういうつもりの映画かが分かる。
クライテリオンのブルーレイで鑑賞。画質にはっとする。ヘッドフォンで聞いたのだけど音質も負けていない。

以下備忘のために:

 イタリアでは1970年2月に公開。60年代末の雰囲気を背景に持ちながら、70年代の「鉛の時代」を予感させる作品。

なにしろ、この映画が公開される数ヶ月前の69年12月12日にはフォンターナ広場爆破事件(Strage di piazza Fontana)が起きてる。

 フォンターナ広場爆破の容疑で拘束されたアナーキストのジュゼッペ・ピネッリは69年の12月16日にミラノ警察署の窓から落下して死亡。自殺か他殺かの議論が立ち上がる。その直後にはやはりアナーキストのピエトロ・ヴァルプレーダが逮捕され、後に証拠不十分で釈放となる。

 この事件のころまでに、ペトリの映画はすでに撮影が終わっているのだが、二人のアナーキストの逮捕を予言するような部分がある。しかも、当時のミラノ警察の所長ルイージ・カラブレージの風貌が、ジャン・マリア・ヴォロンテの演じる「ドットーレ」と、どことなく重なることもあった。

 また、当時の新聞の論調は赤色テロを疑っていた。じっさい、アナーキストのピエトロ・ヴァルプレーダの逮捕のときは、「怪物の逮捕」のような、どこか煽情的な言葉が踊っていた。そこにある種の世論操作を読み取ろうとするならば、ペトリの映画のなかで、ヴォロンテ/ドットーレのグロテスクな新聞への関与に、我が意を得たりと思ったのではないだろうか。

 フォンターナ事件、今では冷戦時代の反共諜報活動による白色テロであることが判明している。「グラディオ作戦」と呼ばれるものの一環だったというのだ。しかし、映画を撮っていたとき、ペトリたちはこの事実をまだ知らない。知らないままに、そんな時代の革新部分にゆきついたということになる。

 ペトリ、脚本家のウーゴ・ピッロ、そして脚本に協力したジャン・マリア・ヴォロンテが、もちろん当時の政治状況に敏感であったはずだが、諜報活動に通じていたわけではない。彼らはむしろ、ジャンルとしての「政治映画」を深めるために、政治を「神経症 nevrosi」の物語として読み取ろうとする。

 「神経症」という言葉は現在は使われないようだが、少なくとも当時は、重篤な疾患を「精神病」と軽微なものを「神経症」と呼んでいた。ペトリたちは、その「神経症」的なものを、時代を読み解く鍵概念として使うと、なんとも不条理な政治映画を生み出したというわけだ。

 そうしたペトリ独特の「政治映画」の出発点には、ドストエフスキーの『罪と罰』があったようだ。それが最初「ある犯罪の心理報告書」として構想されたことを思い起こせば、ペトリの政治劇もまた、ドットーレ/ヴォロンテによる犯罪の心理報告書ではないか。

実際、イタリア語の原題は "Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto" だが、日本語に訳せば「あらゆる疑いを超えたところにいるある市民についての捜査」。日本語のタイトルは「殺人捜査」だが、その「捜査 indagine 」の対象となる「市民 un cittadino」が、その立場上、「あらゆる疑いを超えたところに al di spora di ogni sospetto 」であることが、この映画の面白いところ。

ふつうの犯罪捜査ものなのだら、犯人が誰か言うことはネタバレとして糾弾されるべきなのだが、ペトリの作品では最初からそれがバレている。しかも、バレバレの犯人は「あらゆる疑いを超えたところにある市民」であり、この市民=犯人の捜査が、それでもミステリーであるのは、その捜査の過程で霧の中から暴き出されるものがあるからだ。

ペトリ監督自身の言葉に耳を傾けてみよう。

「(この映画は)タブーを転倒させたものです。つまり、警官を犯罪の象徴(エンブレム)とすることで、その「捜査」を描きながら政治的な映画ができたというわけです。しかしながら、そのもっとも興味深い部分は、人々が心のなかに抱える、内的なメカニズムの描写です。権力というものを行使する人々のすべてが、その下僕さえもが、その心のなかに抱えているそんな内的なメカニズムなのです。人々は誰もが、それぞれに権力の割り当て分を持ち、それを横暴に行使しがちです。なぜなら、わたしたちのなかには、抑圧的なかたちで、ひとつの社会が構想されており、それが父権的なものの存在を要請し続けることで、わたしたち誰もが子供になってしまうのです。そこでもし「捜査」がなお同意を得られるとすれば、そこに私たちの内面に関わるものがあるからです。この映画がテレビで成功し続けている理由は、そう考えればなんとか納得できます。そうでなければ、今現在の警察官がおかれている難しい状況を考えれば、この映画は、ものすごく時代遅れのものに見えるはずなのですから」(http://www.eliopetri.net/?page_id=111)

なるほど、ミステリーの向こうから立ち上がってくるのは、じつにグロテスクな「権力の内的なメカニズム」というわけなのだ。

いやあ、ペトリのジャンル映画(政治モノ)は、なかなか深くておもしろい。まだ未見の作品だらけなのは楽しみなのだけど、このマエストロが、ぼくよりも若い53歳で早逝したことが、残念でならない。
先日見た『悪い奴ほど手が白い』のエリオ・ペトリ、ジャン・マリア・ヴォロンテのコンビによるアカデミー賞外国語映画賞受賞作。

「どんな風に私を殺すのかしら?」「首をかききってやろう」なんていうオシャレな会話から始まる本作。ベッドの上で完全にリラックスして見たせいで、途中寝オチしそうになったものの、振り返ってみるにジワジワと作品の真意が見えてきて、いま感心しているところ(理解が遅い子)。実際、とにかくしゃべりまくり怒鳴りまくるジャン・マリア・ヴォロンテの熱演に圧倒されてしまって口がポカンしている間に終わってしまった、そんな感じ。

主人公は殺人課長から公安トップへと昇進を果たしたその日、長年の愛人を殺害する。そして慎重に犯行の証拠を残した上で、愛人の冷蔵庫から拝借したシャンパンを手に、警察署へと向かう。まず「なぜ、わざわざ殺人の証拠を残すのか」という疑問を持ちながら見続けることになり、本当なら気持ちの良い伏線回収を期待したいものなのだが、さらに奇妙なことに、事件の捜査に当たる刑事たちは、彼が残した証拠をことごとく否定していく。彼の回想や妄想、そして次第にエスカレートしていく奇行を織り交ぜながら、犯行や矛盾した行動の動機が見えてくる。

とにかく主人公の人物描写が鋭く、それを演じきったジャン・マリア・ヴォロンテが怖い。彼は色々な意味で権力に取り憑かれていて、普段は相手につけいる隙を与えず、大声でまくし立てるような高圧的な男なのだが(それがもう、本当にうるさくて嫌になるくらい)、自分よりも立場の上の者(時に上司であり、女性であり、若さや情熱を持つ者)の前では、途端に腰の低くなってしまうような弱い男でもある。こうした彼の性格は、腐敗した警察組織を具現化しているように見えた。このあたりは、もう一度見て深めてみたいという気持ちがあるが、体力的に無理かな。

エリオ・ペトリは、それほど映像にこだわりのある監督というイメージはなかったのだけど、大量の指紋鑑定写真の間を行き来するシーンや、警察関係者が主人公の家に入っていくシーン、ブラインド越しに捉えられた両者が対峙するシーンなど、時々グッとくるようなカットを入れてくるから油断ならない。そして、エンニオ・モリコーネ大先生の音楽が、この奇妙な不条理劇に華を添えている。

原題の『Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto(潔白なる市民に関する捜査)』というのも、皮肉が効いています。

2016. 85
タイトルとは裏腹に神経症気味の警官が自滅してく話。そこそこ。
モリコーネの音楽が有名。