祈り 幻に長崎を想う刻(とき)に投稿された感想・評価 - 2ページ目

『祈り 幻に長崎を想う刻(とき)』に投稿された感想・評価

dancingufo

dancingufoの感想・評価

3.7

このレビューはネタバレを含みます

傑作戯曲をベースに作った映画らしいが、映画としての完成度は正直低い。

高島礼子が、自分の首のケロイドについて「長崎市民の被害者7万人」とか結びつけるセリフがあったが、戯曲ならわかるが、映画だと違和感あった。
「原爆よりもまずは戦争なくすべき」と言うセリフは全く同感。ただセリフでいっちゃダメなんだよね。
「これまでよりもこれから」という未来志向には共感。

世界でアウシュビッツ物の映画が今も作られるように、徐々に風化しつつある長崎の被爆の歴史を次代に残したいという想いは痛いほど感じられ、加点要素とした。

広島に原爆ドームがあるのに長崎には何もない。確かにそうだね。

昭和32年12月24日=祈り
 マリア像を運び出した日

昭和33年12月24日=三丁目の夕日
 茶川がヒロミに「エア指輪」渡した日

エンドロールの「焼き場に立つ少年」の写真は先日NHK Eテレで特集してましたね。
田中千禾夫の戯曲「マリアの首 幻に長崎を想う曲」の映画化。

原爆と戦争と宗教と。

時折、生々しい原爆の描写が挿入されたのが印象的。

語られていない、もしくは伏せられたままのエピソードは、今でも沢山あるのだろうな、と。
点数つけられない案件

あさはかな自分に 戒め をする為
毎夏には戦争映画を観
そして平和について考える事にしている。

良かった。
少し不思議な映画
面白ロ楽しい映画なわけないけど
闇雲に お説教 ではなくて


そこに 人 が生きていた
色んな人々が暮らしていた

そんな事を僕は感じとった
だからこそ 響くものがあった
 二度と 要らない‼️
長崎が人類史上最後の被爆地であるように

🙏🏻✨

そんな 祈り をしかと受け取った
そして自分も貢献したい 続けなきゃと思う
僕のような 戦後に生まれ 平和を当たり前に享受した人たちにこそ!観て欲しいと思いました。

知らないを教えてくれる そして
知らない世代の自分が
こんなことを考えることが出来る きっかけ
そういうモノを作って伝えてくれる製作者や出演者達に頭が下がる。

映画って やっぱり!素晴らしい✨📽✨



スクリーン2 全130💺(▶︎半分潰し)20数名
日曜 公開3日目   
田中千禾夫さんの傑作戯曲「マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―」を松村克弥監督が高島礼子さんと黒谷友香さんの共演で映画化した本作は、原爆によって心身に癒されぬ傷を負った人々を通して、戦争とは何か、人間の尊厳とは何かを問うている。
1945年8月9日午前11時2分、長崎市に投下された2発目の原子力爆弾によって人口24万人のうち約7万4000人の命が奪われた。
映画のモチーフとなっている東洋一の大聖堂とうたわれた浦上天主堂も被爆し、外壁の一部を残して崩壊する。
本作は、それから12年の時が過ぎた昭和32年を舞台に、この崩壊した浦上天主堂の被爆したマリア像を巡る群像劇が展開する。
高島礼子さん演じる鹿は、隠れキリシタンの末裔で、昼は看護婦、夜は娼婦という二つの顔を持っている。
一方、黒谷友香さん演じる忍は病弱な夫と乳児を抱え、闇市で詩集を売っている。
忍には仇とする男がいて、詩集を売りながら復讐の機会を待っている。
この2人の女性を軸に、昭和32年という戦後から高度経済成長に歩み始めた日本で、戦争の傷痕、特に被爆の悲惨さ、被爆者の苦しみが過去のものになりつつある社会が映画のバックボーンにある。
物語自体は、被爆して破壊されたマリア像を盗み出す人々の姿と、何故受難のマリア像を盗み出さねばならないのかを、長崎県浦上の歴史的な部分を織り交ぜて浮き彫りにしていく。
コロナ感染爆発のニュースがクローズアップされがちな今夏だが、改めて原爆や戦争について見詰め直す時期かもしれない。
ワンコ

ワンコの感想・評価

3.0
【マリアの首】

この作品は、何度も再演され、岸田賞も受賞している有名な戯曲「マリアの首」を映画化したものだ。

だが、残念ながら、過去に観た、映画と舞台を融合させたような実験的な作品や、映画なんだけど舞台を観ているような錯覚が心地よい作品という水準にまで達しているとは思えなくて、改めて戯曲の映画化には工夫が必要だなと考えてしまった。

この何度も再演された舞台を映画として記録して公開した方が良かったのではないかとさえ考えてしまう。

偉そうに、すみません。

あと、僕個人としては、実際に被曝し壊れたマリアの像、つまり、マリア像の頭部は、信者の代表者や、大学の先生などによって大切に保管され、後に、天主堂に返還され、バチカンも訪れるなどしていることを知っていたことも影響してしまったかもしれません。

ただ、浦上第四崩れの話と、原爆遺構として、旧天主堂を残そうとする積極的な動きが出てこなかったことは、カトリック信者に対する差別が、ずっと残っていたことが大きな理由だろうと再確認させられて、より多くの人々が知るべき物語だとは思った。
nt708

nt708の感想・評価

3.8

このレビューはネタバレを含みます

やはりこの季節になると太平洋戦争を主題にした映画を観ないわけにはいかない。原爆と言うと真っ先に広島のことが思い出されるが、確かに長崎にも落とされたのである。長崎に原爆が落とされたという事実、闇市にのさばるヤクザたち、彼らを野放しにしてお上には頭の上がらない政治家や警察たち、そして何より、長らく迫害を受けてきたキリシタンたち。あの時代の長崎が実に良く描かれている作品だと私は素直に思った。

もちろん映画としての完成度がどうこうとか語っても良いのだが、本作に関してはその辺があまり気にならない。なぜなら戦中と戦後のあの時代の歴史と真正面から向き合うことそれ自体に意味があり、日本では比較的敷居の高い演劇ではなく、大衆の目に触れやすい映画に脚色したという試みに拍手を送りたいからである。確かに空間の作り方が演劇的ではあるが、演劇を仕事にしていた時期もある私にとっては馴染み深い作り方であったし、演技も良い意味で演技をしている感じがなく観やすくなっていた。

まあこういう主題であるうえに、演劇としても人気のある演目だからこそ風当たりは強いだろうが、私は本作が好きである。何よりも多くの方がこの作品に触れることによって、議論をするきっかけとしてほしい。

戦争ありきの核兵器根絶ではなく、戦争の根絶を。過去に生きるのではなく、今この瞬間を、未来を生きることを。政治的メッセージとしてではなく、一人間の主張としてこれらの言葉を胸に刻みたい。
 製作陣の心意気は伝わってくるが、映画としての出来はあまりいい方ではない。ナガサキの直接の被爆者と残された人々の生活、長崎の復興と暴力集団の発生、売春婦の様子などを群像劇的に描こうとしているのだが、逆に散漫になってしまった。予算の関係だと思うが、シーンの多くが演劇的で奥行きに乏しく、60年以上前の時代を感じさせる映像が皆無だったのも残念である。
 
 俳優陣では、黒谷友香は棒読みの割に滑舌が悪く「詩集はいらんね」がどうしても「しゅうはいらんね」に聞こえて「しゅう」は何のことだろうと考えたほどだ。冒頭のシーンだけにこれは痛かった。高島礼子は悪くなかったが、黒谷友香のマイナスまではカバー出来なかった。
 唯一よかったのが、田辺誠一が演じた桃園が戦争について語るシーンで、登場人物に感情移入したのはこのときだけだった。核兵器をなくすよりも戦争そのものをなくしたいと桃園は言う。まさにその通りである。難民問題も、発生した難民の処し方ばかりが議論されるが、難民を生み出した戦争や紛争についての議論が決定的に不足している。
 柄本明はいつもの飄々とした演技。寺田農の議員さんは正直に本音を言い、当時の長崎の政治状況がわかりやすく理解できた。両ベテランの安定した演技と田辺誠一の名演で、本作品はぎりぎり映画としての形を保てた気がする。

 舞台は1957年で、前年に成立した売春防止法が施行された年だが、全国に行き渡るには時間がかかったようだ。主人公鹿が昼は看護婦で夜は売春婦をしていても普通に受け入れられている。男も女も煙草を吸い、おおっびらにヒロポンを売買し、ポン中になる者もいた。時代背景は正しく描かれていると思う。

 当方はクリスチャンではないが、信者や教会の存在は否定しない。タリバンと違って他人に信仰を強制しないところがいい。親戚や知人の多くは教会で結婚式を挙げたが、クリスチャンは誰もいない。建物としての教会は、雰囲気があって嫌いではない。誰でも入れるように門戸を開いているところもいい。「レ・ミゼラブル」を思い出す。

 聖書の骨子は「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という部分だと思う。天にいる神は常にあなたがたの行ないを見ているから、不寛容な行ないをすれば天国で不寛容な処遇が待っているという訳だ。
 しかし本作品にはその寛容さがどこにも出てこない。むしろ不寛容な言葉ばかりが出てくる。その割に聖母マリアに許されようとする。虫のいいクリスチャンである。そういえばアメリカの前大統領トランプもクリスチャンだ。バプテスマのヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と人々に言ってバプテスマを施したが、どうやら現在のクリスチャンは天国を信じなくなったようである。
試写会にて鑑賞。
舞台に寄せた演出があり、想像よりも宗教的な内容を含むので合わない人も多いかも。
ただそういう面から原爆や戦争を考えるという新たな視点が見つかった。

安直だけれども、劇中のセリフで「人間の価値は、今まで何をしたかではない。これから何をするかだ」という言葉が非常に心に刺さった。
今までしたことに蓋をするのではなく、自分のしたこととして受け止めた上で前を向いて進む、そんな生き方をしたいと思わされた。

ただの戦争映画ではなく、宗教映画でもなく、密度の濃い110分を味わうことができた。
田中千禾夫の戯曲(岸田演劇賞、芸術選奨文部大臣賞受賞)「マリアの首」の映画化。
1945年8月9日、広島に次ぐ2発目の原子爆弾が長崎市に投下され、東洋一の大聖堂、浦上天主堂も崩壊。それから12年、天主堂跡から被爆したマリア像を運び出す人たちがいた。首謀者はカトリック教徒の二人の女性であった。
被爆した浦上天主堂が撤去されることになった。それでは長崎には記憶されるべき「原爆ドーム」に相当する記念物がなくなってしまう。そこで秘かにマリア像を運び出し、隠れ家に祀ろうとしていたのだ。
本作には、カトリック教徒、傷痍軍人、娼婦、やくざ、隠れ原爆症患者といった人たちが登場する。「原爆反対」を唱える学生活動家が、隠れ原爆症患者の部屋を訪問する。学生は隠れ原爆症患者から、「原爆反対ではなく、戦争反対なのだ」との悲痛な声に絶句する。そこに本作のテーマを見ることが出来る。その声を説得力のあるものにする人間群像であり、登場人物は日陰者ばかりなのも、戦後日本の高度成長から置き去りにされた人たちなのだと気づくだろう。
極限まで練り上げられた詩的で哲学的な台詞、そして表現力のある演技。美しく、密度の濃い110分。
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