祈り 幻に長崎を想う刻(とき)の作品情報・感想・評価 - 2ページ目

「祈り 幻に長崎を想う刻(とき)」に投稿された感想・評価

ワンコ

ワンコの感想・評価

3.0
【マリアの首】

この作品は、何度も再演され、岸田賞も受賞している有名な戯曲「マリアの首」を映画化したものだ。

だが、残念ながら、過去に観た、映画と舞台を融合させたような実験的な作品や、映画なんだけど舞台を観ているような錯覚が心地よい作品という水準にまで達しているとは思えなくて、改めて戯曲の映画化には工夫が必要だなと考えてしまった。

この何度も再演された舞台を映画として記録して公開した方が良かったのではないかとさえ考えてしまう。

偉そうに、すみません。

あと、僕個人としては、実際に被曝し壊れたマリアの像、つまり、マリア像の頭部は、信者の代表者や、大学の先生などによって大切に保管され、後に、天主堂に返還され、バチカンも訪れるなどしていることを知っていたことも影響してしまったかもしれません。

ただ、浦上第四崩れの話と、原爆遺構として、旧天主堂を残そうとする積極的な動きが出てこなかったことは、カトリック信者に対する差別が、ずっと残っていたことが大きな理由だろうと再確認させられて、より多くの人々が知るべき物語だとは思った。
nt708

nt708の感想・評価

3.8

このレビューはネタバレを含みます

やはりこの季節になると太平洋戦争を主題にした映画を観ないわけにはいかない。原爆と言うと真っ先に広島のことが思い出されるが、確かに長崎にも落とされたのである。長崎に原爆が落とされたという事実、闇市にのさばるヤクザたち、彼らを野放しにしてお上には頭の上がらない政治家や警察たち、そして何より、長らく迫害を受けてきたキリシタンたち。あの時代の長崎が実に良く描かれている作品だと私は素直に思った。

もちろん映画としての完成度がどうこうとか語っても良いのだが、本作に関してはその辺があまり気にならない。なぜなら戦中と戦後のあの時代の歴史と真正面から向き合うことそれ自体に意味があり、日本では比較的敷居の高い演劇ではなく、大衆の目に触れやすい映画に脚色したという試みに拍手を送りたいからである。確かに空間の作り方が演劇的ではあるが、演劇を仕事にしていた時期もある私にとっては馴染み深い作り方であったし、演技も良い意味で演技をしている感じがなく観やすくなっていた。

まあこういう主題であるうえに、演劇としても人気のある演目だからこそ風当たりは強いだろうが、私は本作が好きである。何よりも多くの方がこの作品に触れることによって、議論をするきっかけとしてほしい。

戦争ありきの核兵器根絶ではなく、戦争の根絶を。過去に生きるのではなく、今この瞬間を、未来を生きることを。政治的メッセージとしてではなく、一人間の主張としてこれらの言葉を胸に刻みたい。
 製作陣の心意気は伝わってくるが、映画としての出来はあまりいい方ではない。ナガサキの直接の被爆者と残された人々の生活、長崎の復興と暴力集団の発生、売春婦の様子などを群像劇的に描こうとしているのだが、逆に散漫になってしまった。予算の関係だと思うが、シーンの多くが演劇的で奥行きに乏しく、60年以上前の時代を感じさせる映像が皆無だったのも残念である。
 
 俳優陣では、黒谷友香は棒読みの割に滑舌が悪く「詩集はいらんね」がどうしても「しゅうはいらんね」に聞こえて「しゅう」は何のことだろうと考えたほどだ。冒頭のシーンだけにこれは痛かった。高島礼子は悪くなかったが、黒谷友香のマイナスまではカバー出来なかった。
 唯一よかったのが、田辺誠一が演じた桃園が戦争について語るシーンで、登場人物に感情移入したのはこのときだけだった。核兵器をなくすよりも戦争そのものをなくしたいと桃園は言う。まさにその通りである。難民問題も、発生した難民の処し方ばかりが議論されるが、難民を生み出した戦争や紛争についての議論が決定的に不足している。
 柄本明はいつもの飄々とした演技。寺田農の議員さんは正直に本音を言い、当時の長崎の政治状況がわかりやすく理解できた。両ベテランの安定した演技と田辺誠一の名演で、本作品はぎりぎり映画としての形を保てた気がする。

 舞台は1957年で、前年に成立した売春防止法が施行された年だが、全国に行き渡るには時間がかかったようだ。主人公鹿が昼は看護婦で夜は売春婦をしていても普通に受け入れられている。男も女も煙草を吸い、おおっびらにヒロポンを売買し、ポン中になる者もいた。時代背景は正しく描かれていると思う。

 当方はクリスチャンではないが、信者や教会の存在は否定しない。タリバンと違って他人に信仰を強制しないところがいい。親戚や知人の多くは教会で結婚式を挙げたが、クリスチャンは誰もいない。建物としての教会は、雰囲気があって嫌いではない。誰でも入れるように門戸を開いているところもいい。「レ・ミゼラブル」を思い出す。

 聖書の骨子は「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という部分だと思う。天にいる神は常にあなたがたの行ないを見ているから、不寛容な行ないをすれば天国で不寛容な処遇が待っているという訳だ。
 しかし本作品にはその寛容さがどこにも出てこない。むしろ不寛容な言葉ばかりが出てくる。その割に聖母マリアに許されようとする。虫のいいクリスチャンである。そういえばアメリカの前大統領トランプもクリスチャンだ。バプテスマのヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と人々に言ってバプテスマを施したが、どうやら現在のクリスチャンは天国を信じなくなったようである。
試写会にて鑑賞。
舞台に寄せた演出があり、想像よりも宗教的な内容を含むので合わない人も多いかも。
ただそういう面から原爆や戦争を考えるという新たな視点が見つかった。

安直だけれども、劇中のセリフで「人間の価値は、今まで何をしたかではない。これから何をするかだ」という言葉が非常に心に刺さった。
今までしたことに蓋をするのではなく、自分のしたこととして受け止めた上で前を向いて進む、そんな生き方をしたいと思わされた。

ただの戦争映画ではなく、宗教映画でもなく、密度の濃い110分を味わうことができた。
田中千禾夫の戯曲(岸田演劇賞、芸術選奨文部大臣賞受賞)「マリアの首」の映画化。
1945年8月9日、広島に次ぐ2発目の原子爆弾が長崎市に投下され、東洋一の大聖堂、浦上天主堂も崩壊。それから12年、天主堂跡から被爆したマリア像を運び出す人たちがいた。首謀者はカトリック教徒の二人の女性であった。
被爆した浦上天主堂が撤去されることになった。それでは長崎には記憶されるべき「原爆ドーム」に相当する記念物がなくなってしまう。そこで秘かにマリア像を運び出し、隠れ家に祀ろうとしていたのだ。
本作には、カトリック教徒、傷痍軍人、娼婦、やくざ、隠れ原爆症患者といった人たちが登場する。「原爆反対」を唱える学生活動家が、隠れ原爆症患者の部屋を訪問する。学生は隠れ原爆症患者から、「原爆反対ではなく、戦争反対なのだ」との悲痛な声に絶句する。そこに本作のテーマを見ることが出来る。その声を説得力のあるものにする人間群像であり、登場人物は日陰者ばかりなのも、戦後日本の高度成長から置き去りにされた人たちなのだと気づくだろう。
極限まで練り上げられた詩的で哲学的な台詞、そして表現力のある演技。美しく、密度の濃い110分。
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