私的な経験と映画制作が交錯する自己言及的な構造を持つ。監督自身が出演し、妻や家族など実生活の関係者を起用することで、現実とフィクションの境界は意図的に曖昧化される。装置としては恋愛リアリティーショー…
>>続きを読む再見。物語性が薄いのでほぼ覚えていなかったけどそういうものの方が鑑賞強度は高いあるある、というか最初見た時よりも良かった。女優二人が室内で対話するシーンの木々を揺らす強風や揺れる髪や注がれる淡い光、…
>>続きを読むミディアムショット〜アップショットが異様に多く、引きのショットが僅かしかない
音楽の使い方も個性的、ジャズっぽい音楽が映像に完全に合わせにいかず、浮いているような感覚がある
フィリップ・ガレル独自の…
フィリップ・ガレルの一家が出演。フィリップの映画に自分を出演させて欲しい、一緒に映りたいと懇願する妻。すでにこの映画でメタ的に実現してしまっているのがすごい。愛があるのかないのか、言い合いばかりの緊…
>>続きを読むガレル史上1.2を争うテクニカルな撮影と音響を持って、自身の映画化に右往左往する作家と周辺を本人たちが演じるというメタ展開。恐ろしいほどのパーソナルをとてつもなく「映画」に落とし込むこの時のガレルは…
>>続きを読む映画とともに生きる者たちへ一
ヌーヴェル・ヴァーグの継承者フィリップ・ガレルが美しいモノクロームで描く愛の荒野…至高のホーム・ムービー『救いの接吻』(1989)。
本作の出演はフィ…
付け忘れ。
ブリジット・シィの顔周りだけを捉える冒頭の長回しを終えやっと画面に現れるフィリップ・ガレル。ジョン・カサヴェテスのようなアップショットが続き毎度恒例の家族総出で愛について語りまくる会が始…
「救いの接吻」
冒頭、モノクロームの映像の中に1人の女性と1人
の男性。芝居の話、女優との決着、息子ルイの存在、列車旅、不意の接吻、不満、駅構内のベンチ、相談。今、実際の監督の家族で贈るホームドラ…
「映画は人生の厄介ごとを捨てるゴミ箱じゃない」。
愛を生きることと、物語を持続させることは違う(夫婦の関係と創造行為の危うい均衡)。だがどちらにしても、真実が何であるかなんて誰も分からない。故に窮屈…